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ことのね(4)言の葉

波ノオトというタイトルで少しノートを書いていたが、書いているうちにどうやら自分は起源とか源流というものが気になる質だということが分かったので、本テーマ自体は名前を変更して「ことのね」というタイトルを当てることにした。元の波ノオトは雑記的なものを書いていくとして改めることにしたい

言葉の語源

「言の葉」

言葉を漢字で書くと言の葉と書く。この「葉」はなんなのか?ふと思った。

日本語の語源はそれほど研究されているものでもなく民俗学的な文化伝承を追っていくものという印象である。語源を調べてもあまりしっかりした調査結果がないということが多い
なぜかというと日本列島に人が住み着き始めたのは4万年前とも言われていて、その後の縄文早期は1万年前で、文字の資料があるのが基本的には奈良時代の古事記日本書紀万葉集以降が初出となるからである。
これはほかの言語でもそうで、文字の記録が残らない先史時代に使われていたと想定されている印欧祖語(インドヨーロッパ語族の祖語として構築された仮設上の言語)やシナチベット祖語なんかがあって、記録がないのでこんな言葉だっただろうどまりになっている。

もともとのホモサピエンスのことばについてはこちらのサイトに少し紹介があって

「おそらくホモ・サピエンスは約10万年前に言語の原型を獲得した後、世界中に散らばっていったのだと思います」(図2) 。当初は同じものであったホモ・サピエンスのことばは、地理的な隔離により変化し、現在の多様な言語につながっていると岡ノ谷教授は考える。「その仮説を裏付けるかのように、全ての言語は主語・述語・目的語で構成されており、語順も大きく二つのみに分類されます」。それでも世界の言語は大きく違うように感じるかもしれないが、同じ種類の鳥の歌も山によって違う。文法や単語は地理的隔離によって数世代ですぐに変わるものだという。

東大新聞オンライン

つまり、言葉は数世代で変わってしまうということで、日本の現代でも若者言葉というのは紙面に登場するが昔から言葉は変化しやすいものであったということだろう。

また、日本語の起源についてWikipediaを見てみると色んなルートがある。台湾からオセアニアに広がったオーストロネシア語族、中央アジアやモンゴルに広がるアルタイ語族、大陸から朝鮮半島九州ルートでの朝鮮語百済高句麗や古中国語関係など。
このあたりについては最近ニュースになった記事でもあるが、

その結果、日本人の集団は3つの祖先系統が混ざって成り立ったと仮定すると、各地域の遺伝子配列の違いをうまく説明できることが分かった。3つの祖先系統のDNAはそれぞれ現代の沖縄、東北、関西の人々に比較的多く受け継がれている。

日本人の起源をめぐっては、弥生時代に大陸から日本列島に渡ってきた人々と縄文人の混血が進んだとする「二重構造モデル」が定説となってきた。ただ最近では遺跡で見つかった人骨の古代DNAの分析などから、古墳時代以降に渡来した人々の影響も大きいとする「三重構造モデル」などが提唱されている。

今回の研究成果の「3つの祖先系統」が縄文人や弥生人などと直接一致するわけではないが、理研の寺尾氏は「二重構造モデルでは説明が難しい」と指摘する。

絶滅した人類であるネアンデルタール人と関係する発見もあった。現代人の祖先はネアンデルタール人やデニソワ人と交雑したとされる。交雑によって日本人に受け継がれたとみられる遺伝子配列が新たに40カ所以上見つかった。デニソワ人から受け継いだ配列の中には、身長や2型糖尿病と関連するものがあった。

日本経済新聞

もとより古く日本に住み着いた人の起源も解明中だが3ルーツあると言われている
日本列島はかつて大陸とつながるか、とても近い時期があった。現代人の祖先はアフリカ発祥だが、そのうちの一団が北方周りでやってきた人たちなのではないかと思う。

それから半島周りルートで対馬九州へとやってきた人たち、台湾から沖縄の南方ルート、ほかに阿蘇山の噴火や氷河期とその後の縄文海進など時期的な違いで先住していた石器時代の人や縄文時代の人と移住してきた人など色々いたように思う。

そうして言語も混ざっていったため日本語の語源を追うのは困難なケースが多い。ましてや万葉集の頃までの万葉かなや上代日本語と現代日本語の違いもあり語源が定かでないものが多い。

アルファベットなら文字として残すのは簡単だが万葉かなは覚える文字も多い。表出しているのは氷山の一角で別々の氷河由来だったものが混ざり合って新たな氷となってしまったとするならば、どうやって分離することができるだろうか。
できることはそれらの懐かしさを頼りに、いろんな角度から面影を見つめ直してみることかもしれない

近現代の辞書類では、新たな語源説を展開したり、従来言われている説の真偽や優劣を論じたりすることは、ほとんどありません。それらが必ずしも科学の対象になり得ない、という論理上の限界を考えているからでしょう。
一方、語源や由来というのは、落語の落ちや、昔話の結びにも出てくることがあります。そのような民間語源譚たんたんを含め、多くの人の興味や話題を提供し、それらを語り継いだり、時には、教訓を与えたりしたことも事実でしょう。しかしこれは、言語そのものの科学的な解明を目的とする学問というより、言語にまつわる文化伝承の世界といえます。

ことば研究館

国立国語研究所によると語源や由来の説に論ずることはないと書かれている。これは科学の対象になりえない論理上の限界を超えているからであり、文化伝承の世界であるともいう。まさにそういうことなんだろう。

言の葉

さて、ここまで書いたが言葉、や言の葉の語源については調べてみるとある程度はっきりしているようだ。
はっきりしているがその源流はつかみきれない。つかんだが気が付けばつかめていない

言葉とは何かと調べてみると、まずこちらのサイトによれば言葉は当て字だという。

「言葉」は、厳密には当て字なのです。
「ことば」という名詞は、日本語に古くからあります。8世紀の「万葉集」にも出てきます。この歌集は万葉仮名(漢字)で書かれているので、当時、「ことば」をどう書いたかが分かります。
 本文で「ことば」と読む部分の表記は、「言羽」「辞」となっています。「言羽」は当て字、「辞」は漢字の意味を用いた表記です。「言葉」の表記は出てきません。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

著者は『三省堂国語辞典』編集委員の飯間浩明氏で実際、万葉集を見てみると、言羽や辞と書かれていたようで言葉とは書かれていなかったようだ。

「ことば」は、語源的には「葉」と関係がなさそうです。その成り立ちは、「こと(言)」+「は(端)」と考えられます。
元来、「言語」の意味は「こと」と表現しました。「万葉集」では、「ことば」よりも「こと」が圧倒的に多く出てきます。たとえば、〈ことのよろしさ〉は「ことばの素晴らしさ」、〈ことな絶えそね〉は「ことば(手紙)は絶やさないで」ということです。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

さらに、ことばは「こと」+「は」で言+端であるという。

 この「こと(言)」は、「こと(事)」と語源が同じです。というより、古代は「言語」と「事実」を区別しなかったようです。口から出た言語イコール事実、という感じだったのでしょう。今でも、「おかしなことを言うな」などという場合の「こと」は、「事」とも「言」とも解釈できます。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

では「こと」とはなにかというと、言語の「言(こと)」と事実の「事(こと)」が区別されておらず一緒だったという。

この「は」は「端っこ」の意味です。山の稜線りょうせんを「山の端は」、軒先のことを「軒端のきば」と言うのと同じく、「言の端」は、口から出る言語表現の一端ということです。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

そして「は」は端っこのはで口から出る言語表現だという。「口の端」に上るというような慣用表現があるが、「言の端」は、「ことのはし」となる。正直分かるような分からないような感じである。

言葉の端々というような場合は、本質から離れた部分というような意味になるし、口の端に上るだと噂話ということになるので、やはり大事ではない端っこの部分というニュアンスが感じられる
「言の端」が「事の端」だとしても些細なことだというような印象は受ける。

ただ「井戸端会議」という言葉がある。あれは井戸の周辺で雑談などする様子をいったもの。井戸端ということばの初出は江戸時代なので新しいが、もしかすると昔は川の端でも会議があったかもしれない。
そのニュアンスで「コトの端」での会議や議論が「言の端」となったとすれば多少はイメージが捉えられるかもしれない

こと-は

ここで日本国語大辞典を調べてみる

こと‐ば【言葉・詞・辞】

〘 名詞 〙 社会ごとにきまっていて、人々が感情、意志、考えなどを伝え合うために用いる音声。また、それを文字に表わしたもの。

① 話したり語ったり、また、書いたりする表現行為。
[初出の実例]「百千(ももち)たび恋ふといふとも諸弟(もろと)らが練(ねり)の言羽(ことば)は我は頼まじ」(出典:万葉集(8C後)四・七七四)
② ものの言いかた。口のききかた。話しぶり。
[初出の実例]「此の蕪(あらき)辞(コトハ)を截てて其の実録を採らむ」(出典:大唐三蔵玄奘法師表啓平安初期点(850頃))

精選版 日本国語大辞典

日本国語大辞典を見てみるといくつか意味が出てくるが、古い初出から平安前期頃で2つの意味で「ことば」が使われていたのが分かる
一つ目は話したり語ったりする表現行為のことで、万葉集の774番では「諸弟らが練りの言葉は我れは頼まじ(諸弟らの巧みなことばを、私はあてにすまい。)」というふうに使われている。
原文の漢字本文は「諸弟等之練乃言羽者吾波不信」で「言羽」。もっとも、言羽で万葉集で検索するとこのひと歌しかなかったので使用例が乏しい

もう一つは、ものの言い方とか口のきき方で、これは現代でも「お前のその言葉!」とか「あなたの言葉が」みたいに使われるので同じような意味だろう。
こちらは辞の文字が当てられている。辞の例を万葉集でしらべてみるといくつかあるが、人辞でひとごと=人のうわさであったり、歌辞でうたのことばであったりなどがあるので
辞書の①②のどちらの意味でも使われていたようだ。

さらに改訂新版 世界大百科事典(著者は阪下圭八氏で日本文学研究者か)を見てみると

〈ことば〉という日本語の原型は〈こと(言)〉であり,〈ことば〉はその派生語として,おそらく7,8世紀のころより用いはじめられたらしい。
最古の日本語文献である《古事記》《万葉集》の場合,〈ことば〉は数例しかみられないのに対し,〈こと〉は〈よごと(寿詞)〉〈かたりごと(語り事)〉〈ことあげ(言挙げ)〉〈ことわざ(諺)〉,また〈ことほぐ(言祝ぐ)〉〈ことどう(言問う)〉などの複合語形で多数みいだされるからである。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

とあって、「ことば」は数例で「こと」がいくつか複合言語が挙げられれていて既に「こと」+「」や「」+「こと」で使われていたようだ。
ここからその昔から「こと」という単語が使われていただろうという推測が成り立つ

これらから考えて「ことば」は「こと-は」、その源は「こと」であるとしてよさそうだ。
そしてこととは何かというと、言(こと)と事(こと)でその区別も曖昧というより未分化、つまり一緒のものだとされていたようである。

たとえば〈ことあげ〉〈ことどう〉などが〈言挙・事挙〉〈言問・事問〉と両様に表記されている点にその消息がうかがえる。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

言とも事ともあてるものとしてはことあげやことどうなどが挙げられている。ほかにも事痛し・言痛しや言寄す・事寄す、といったものもある。

ここで「事」について調べてみる

〈こと〉は〈もの〉と対立する優れて日本的な存在概念である。英語のevent,matter,ドイツ語のSache,Sachverhalt,フランス語のchose,faitなどを時によっては〈事〉と訳す場合もあるが,元来の発想はそれらとは異質である。
なお,漢字〈事〉の原義は〈記録係〉の意味であり,漢訳仏典における〈事〉は〈理〉の対概念であって,中国人の日常的観念における事や仏教哲学における事は,日本人の日常的意識における〈こと〉とはやはり異質のものである。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

などとあって「事」ですらなんなのかを書き表すのは難しい。ざっと言ってしまえば存在しているものが「もの」であって存在していることが「こと」である。
概念上の存在が「事」であり「言」であった。願い事はまさにそうだろう。

もっともすべての言語が〈事〉と一体視されたわけではなかった。一般日常の言語行為は〈いう〉で示されているが,それに対して〈言〉〈言挙げ〉〈言立つ〉などは〈いう〉とは区別される改まった言葉づかいに属し,そうした〈言〉においてのみ〈事〉をなしとげる呪力を持つと信じられたのである。〈ことだま(言霊)〉とはこのような特定の言語への信頼をあらわした語で,おそらく〈ことだま〉は神授のものと意識されていたであろう。

株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

ただし全ての言語が「こと」ではなかったようだ。「いう」とは同じ漢字であらわされるが、日常会話はいうであって、ことではない。筆者は特定の「言」をこととし、言霊について神授のものとされていたのであろうという。

コト

もう少し「事」について調べてみる。

こと【事・縡】

〘 名詞 〙 ( 前項「こと(言)」と同語源か ) 時間的事態一般を広く指す語。
[ 一 ] 形をもった「もの」に対し、そのものの働きや性質、あるいはそれらの間の関係、また、形のつかみにくい現象などを表わす語。
[ 二 ] 他の語句を受けて、これを名詞化し、その語句の表わす行為や事態や具体的内容などを体言化する形式名詞。

精選版 日本国語大辞典

日本国語大辞典のほうでも「言」と同語源かとある。大まかに見て、「もの」と対比となる動きや性質、関係、現象を表す語。もう一つは名詞化し体言化する形容名詞。「うつくしきこと」とか「かなしきこと」など形容詞が名詞化されたり、「絶えることなく」など動詞もある。名詞化するための接尾辞として働くのでことに強い意味があるわけではない。従って一つ目のものに対する現象などを表す語が原義に近そうである。

辞書では、形をもった「もの」に対し、そのものの働きや減少などを表す語。とあるが、もう少し見てみる。

① 人のするわざ、行為。
(イ) 人の行なう動作、行為を一般的に表現する。
[初出の実例]「我が大君の 諸人(もろひと)を いざなひ給ひ 善(よ)き事を はじめ給ひて」(出典:万葉集(8C後)一八・四〇九四)
(ロ) 古くは、特に、公的な行為、たとえば、政務、行事、儀式、刑罰などをさしていう。
[初出の実例]「大君の 命(みこと)かしこみ 食(を)す国の 許等(コト)取り持ちて」(出典:万葉集(8C後)一七・四〇〇八)

② 多くの人々のなす行為、世の中に起こる現象などをさしていう。
(イ) 諸事件、世の現象。
[初出の実例]「常盤(ときは)なすかくしもがもと思へども世の許等(コト)なればとどみかねつも」(出典:万葉集(8C後)五・八〇五)
(ロ) 事態、もろもろの行為の結果としての状態。
[初出の実例]「宇治川の水沫(みなあわ)さかまき行く水の事かへらずそ思ひそめたる」(出典:万葉集(8C後)一一・二四三〇)
(ハ) 事情、有様、状況、種々の事態の内実や、その様子、内容、理由などを表わす。
[初出の実例]「ことのあるやう、ありし事など、もろともに見ける人なれば」(出典:平中物語(965頃)二五)

精選版 日本国語大辞典

ざっと言えば人の為した行為が「こと」だということだろう。そしてできごとの結果だけではなく、その始まりから最後までの過程も「こと」と呼んだ。行事や出来事、仕事など。

おそらくだが最初はそういった行為を「こと」と呼んでいた。そこに誰かの話したコトも含まれるようになった。公式の行事というのはなんらかことばを述べるものだし、そこで新しく決まって話されたコトが次の仕事の内容でもある。未来についてのコトもでてくるだろう。このままだと悪いコトになるので、新しく事を起こさなければならない。

そして、言が「ことば」になるのは、事・言の分化が示されていると阪下氏は言っている

したがって,〈事〉と区別された〈言〉のみを意味する〈ことば〉という語の出現には,〈言・事〉の分化,言語そのものへの自覚の高まりが示されている。またそうした自覚は,従来の音声言語に対するあらたな書記言語(文字)の普及により促されたとみられる。

 〈ことば〉の語義は〈言の端〉とも〈言の葉〉とも解されるが,この語のその後の通用は,たとえば〈うた〉の世界において多少とも聖なる由緒を伴う共同体や宮廷の歌謡が世俗化,自由化され,個の抒情詩に展開してゆく過程とほぼ重なっていたようだ。

(阪下 圭八)株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」

為した行為も話した内容もコトだったのが、次第に分かれていった。そして話したコトは「ことば」となった。
ことばの語義はコトの端やコト端の葉とも言われるという話に戻ってくる。

ここで、端についても少し辞書を見てみる

はし【端】
〘 名詞 〙 ( 「はじ」とも )
物のはじめの部分。
(イ) 書物のはじめの部分。序。また本文の冒頭の部分。
[初出の実例]「禁中殿上人御書所衆第一帙令書写、第一巻端二枚許主上宸筆令書写御也」(出典:中右記‐長治二年(1105)九月一五日)
(ロ) 文書、手紙などの右端。左端を奥というのに対していう。
[初出の実例]「奥よりはしへよみ、端より奥へ読けれ共」(出典:平家物語(13C前)三)
物事の起こるはじめ。物事の起ころうとするしるし。いとぐち。きざし。端緒。兆候。
[初出の実例]「などか、なのめにて、なほ、この道を通はし知るばかりのはしをば知りおかざらむ」(出典:源氏物語(1001‐14頃)若菜下)
「御泪の故(もと)と成し山雲海月の色、今は龍顔を悦ばしむる端(ハシ)と成て」(出典:太平記(14C後)一一)

精選版 日本国語大辞典

端(は)と呼んで最初というような意味があった気がしたが、端には書物のはじめの部分や物事のおこるはじめという意味もあるようだ。
コトのはじまりは、誰それの言った言葉から。そのような意味でコトの端がことばとなったのであればなんとなく分かる気がする。
もとよりはじめということばは昔は「はしめ」とも表記するので、「は-しめ」だった可能性もあるかもしれない。

は【端】
[ 1 ] 〘 名詞 〙
[ 2 ] 〘 造語要素 〙
数の程度を表わす。「年端」
場所を表わす。「行端」「逃端」

精選版 日本国語大辞典

ただ、単純に端をはと読むケースの場合はそれほど強い意味がないこともあるようだ。年端も行かぬというような場合は、一人前の年齢にいってないという意味だそうで、昔だと元服前の年齢になるのかなと思う。また、行端や逃端にしても行くところや逃げるところとなるので軽い意味ではある。

年のはに来鳴くもの故ほととぎす聞けばしのはく逢はぬ日を多み〔毎年はとしのはといふ〕

万葉集19-4168

ちなみに万葉集を見ていると毎年は「年のは」という、と書いてあるものがった。一つではないものを表しているようでもある。

古今和歌集 仮名序

ことの端については飯間氏も阪下氏も触れておられるが、まだこれといった決めてとなるようなものはでていないようだ。
そしてコトの端が言の葉となったのは10世紀、平安時代のようである。

10世紀初頭の《古今和歌集仮名序には,〈やまと歌は,人の心を種として,よろづの言の葉とぞなれりける〉とあり,そこに〈言〉=〈事〉の原始的対応にかわる,〈人の心〉と〈ことば〉の対応がみいだされる。

(阪下 圭八)「改訂新版 世界大百科事典」

古今和歌集の仮名序に、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなりけるとある。
日本の和歌は、人の心から生まれて、色んな言葉が葉のように生い茂る。という冒頭部分だが、もう一つの真名序では「夫れ和歌は、其の根を心地に託け、其の花を詞林に発くものなり。」となっている。

この真名序と仮名序については、真名序が先にできて、(その後に)仮名序ができたという説が一応有力になっています。これについては大変に論争があります。真名序(漢文の序)ということは、当然中国の文学、中国の影響を非常に強く受けている。それを踏まえて仮名序が成立したと、大まかに考えておきたいと思います。

『古今和歌集』仮名序とは…日本文化の原点にして精華

つまり漢文としてのやまとの和歌という序文がありつつ、仮名として日本の和歌を成立させるという日本文学の出発点がここにあったと言える。そしてその和歌とは何かについてはその続きの文で

世の中にある人、事、業、繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水にすむ蛙の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠まざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の仲をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは、歌なり。

古今和歌集の仮名序〜やまとうたは、人の心を種として〜意味と現代語訳と解説〜

と続いていて、事や業が多ければ、思うことを見るものや聞くものに託して歌にする。そして花に鳴く鶯や蛙の声を聞けば生きとし生けるものすべてが歌を詠んでいるんだなと。そして天地も動かし、鬼にあはれと思わせ男女の仲も打ち解けさせて、武士の心も和ませるものと詠む。それが日本の歌だと。

印象深い名文である。言の葉はただことを説明したものではない。何かに託してことの葉として、種から葉が生い茂るように、よろづのことの"葉"とし生まれたものだということだろう。それは事を正確に伝えるというよりは印象的に伝えるということであり、ただのことが結果ではなくその過程を伝えるものとして、人の心=種とよろづの言=葉として表現されているように思う。

この歌集には、「ことのは」と「葉」を掛けた歌も多くあります。現代語訳で示せば、たとえば、「言の葉は秋を経ても色は変わらない」「言の葉の色が移ろってしまった」「言の葉の一枚ごとに露が置いている」――という具合です。

 平安歌人たちによって、「ことば=言葉」という考え方は広まりました。一方で、辞書には必ずしも「言葉」という漢字表記は載りませんでした。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

調べてみると古今和歌集ではことのはをうたった歌は見つからず、鎌倉期の新古今和歌集では十数首見つかる。

いまこむと-いふことのはも-かれゆくに-よなよなつゆの-なににおくらむ(和泉式部 1344番)
ことのはの-うつろふたにも-あるものを-いととしくれの-ふりまさるらむ(伊勢 1241番)
かきとむる-ことのはのみそ-みつくきの-なかれてとまる-かたみなりける(按察使公通 826番)

新古今種 国際日本文化研究センター

ことのはと詠むとき、葉にかけるので変わりゆくものや枯れるものというニュアンスで使われるケースが多い。これは新古今和歌集の幽玄・有心の美学からそういった歌が取られているだけかもしれない。あなたの言った言葉も枯れていくとか、別れたあなたの残した言葉という感じで、人の心からよろづの言がたくさん生い茂るという雰囲気ではない。

とはいえ言の葉がこの後日本で浸透したかというとそういうわけではないようだ。

平安歌人たちによって、「ことば=言葉」という考え方は広まりました。一方で、辞書には必ずしも「言葉」という漢字表記は載りませんでした。

 古代の辞書は漢文(中国語)を読むためのものだったので、日本製の表記である「言葉」が載っていないのは当たり前と言えます。ところが、中世の実用辞書である各種の「節用集せつようしゅう」でも、「ことば」に当たる漢字としては、「詞」「語」「辞」「言」などが挙がっているのみで、「言葉」の例は見つかりません。

「ことば」 | 分け入っても分け入っても日本語 | 飯間浩明

とあるように考え方は広まったが言葉はそこまで使われていたわけではなく、辞や語がつかわれていたようだ。

社会進化のなかで言語体系の記号化が強められ,〈ことば〉は〈うわべの……,口先きだけの……〉という含意を増しつつある形勢がうかがえる。
一般に詩人,文学者の言語・文字による営為を,そうした状況への批評と位置づけることが可能だが,たとえば宮沢賢治が〈まことのことばはうしなはれ 雲はちぎれてそらをとぶ……〉(《春と修羅》)とうたうとき,そこでは原初の力ある〈ことば〉の回復が志向されているといえよう。

(阪下 圭八)「改訂新版 世界大百科事典」

もの・ごとが日本的な存在概念であった。それが言が事から離れ、言の葉となったとき、大樹となって言の葉の森を形成すると同時にピークを迎えた。
そうしたあと鎌倉室町桃山江戸と、ことばがもっていたことの概念はなくなりただの語となっていった。
それはコトが持つ言霊としての霊力が失われていった時代とも関係があるかもしれない。

とはいえ、この古今和歌集が編纂された時代にすでにコトからモノへとなっていたようでもある。古今和歌集の仮名序に対するもう一つの真名序では次のようにある。

俗人争ひて栄利を事として、和歌を詠ずることを用ゐず。悲しき哉、悲しき哉。貴きことは相将を兼ね、富めることは金銭を余せりといへども、骨の未だ土中に腐ちざるに、名は先だちて世上に滅えぬ。適後世に知らるる者は、唯和歌の人のみ。

古今和歌集 真名序

ここでは営利を争い金銭を求め和歌を詠じないことにたいする嘆きがうたわれていた。この平安時代でもモノとコトでしだいにモノが優勢になっていたようである。平和な時代というものは、モノが有る時代ということでもある。モノがあるということはそれを収集する時代にもなる。

そういった時代において逆に和歌の収集が命じられた。漢詩や漢文の権威がまだあった時代に漢字からかなへ和歌としての初の勅撰集、やまとうたとしての和歌に権威を与え、そして和歌とは何かについて仮名序で論じ新しく葉を開く試みがあった。しかしそれも平安時代で閉じてしまう。途中江戸時代に俳句などの文化が盛んになったが、言の葉が辞書に取り入られることはなく、次に現れたのは明治時代になってからであった。

ことのね

明治期以降に辞書にことばが言葉と普通に記載されるようになった。おそらくだが、これは明治天皇が和歌が好きだったということとも無関係ではないように思う。ただ仮名序に書かれた言の葉からは離れ、言葉は語や辞と同じような意味となった。

しかしことばというのは変わっていくものであることには違いない。仮名序では心を種として、言の葉と呼んだが、語というのはモノを表したものであり、ことばもコトを表したものである。そして時代によってモノもコトも変わっていく。

本来変わったモノやコトにたいしては新しい語を当てはめるべきだろうが、変わらず普通はそのまま使われていく。そしてそこにはもともと指し示していたモノやコトとは違うものが示されてねじれていく。言葉の源流を探し出そうとすることは流れを遡る事でもあるが、言の葉をたどっていくのはねじれてしまったもとを辿る事でもある。

葉のもとは枝や茎があり、そのねもとには根っこがある。その根を探し出すとき昔の語の音にも触れることが出来るかもしれない。


参考文献

大野ロベルト. 『古今和歌集』仮名序の真価を探る ―「六義」と「歌のさま」の問題を中心に ―. アジア文化研究, 2013

大岡 信. 紀貫之 (ちくま学芸文庫). 筑摩書房. 2018

参考URL

国立国語研究所、2015、語源や由来の説
https://kotobaken.jp/qa/yokuaru/qa-06/、2024/07/23取得

飯間浩明、2016、「ことば」、
考える人(https://kangaeruhito.jp/article/3580)、2024/07/23取得

渡部泰明、『古今和歌集』仮名序とは…日本文化の原点にして精華
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=5143、2024/8/13取得

文学の話 – 意味と解説、2022、古今和歌集の仮名序〜やまとうたは、人の心を種として〜意味と現代語訳と解説〜
https://www.bou-tou.net/kanajyo/、2024/8/13取得

国際日本文化研究センター、新古今集
https://lapis.nichibun.ac.jp/waka/waka_i010.html

コトバンク、言葉
https://kotobank.jp/word/%E8%A8%80%E8%91%89-490828、2024/7/23取得

コトバンク、事
https://kotobank.jp/word/%E4%BA%8B-502856、2024/8/14取得



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