私の教室

 英語教室の形が見えてきた。
私はどうしても「英語トレーニング方式」だけの教室は自分に向かないと思うので、対話を大切にしてきた。
英語教室なのに、まずは日本語の会話を多めに始めるのだ。
それはなぜかと言うと、子どもたちが「自分の意見を言っても良い」という気持ちになることを大切にしたいから。それには相互の信頼関係が必要。焦らずゆっくり育てる。やわらかくやわらかく、今自分がしていることの意味を感じられるように語りかけ、以下の言葉を言う。

「わからない時は、すぐに教えてね。絶対に先生は困らない。何度聞いても良いから。何度でも答えるから。」

「私はあなたたちの学びのためにここにいる」ことを伝える。
子どもたちは「え?」という顔になる。
「何度言ったらわかるの?」
「さっき言ったばかりじゃないの!」
という言葉はこの教室にはない。
それを数週間かけて子どもたちに体験してもらう。

それを言うと多くの方が気になるのは、きっと「デキる子たちの進度が遅れる」だろう。
私も元々自分も学校教育に育てられてきたので、そこは引っかかった。
でももう一度頭をゼロにして、また欧米の先生方との交流の中で海外の教育を学んでいたら頭の中が180度変わった。
そもそも「デキる子」ってなんだろ?
私の教室は英語教室。
ことばの教室だ。
他の教科のことはわからないが、ことばを使うにはテクニックだけでは不可能、というのは皆さんご存知だろう。
むしろコミュニケーションで大切なのは、相手を理解しようとする気持ちや、相手が何を言いたいのかを想像する力。
 いろいろな子どもたちのペースや価値観、タイミングに触れることで、私たちは同じ日本人同士でもお互いに「相違」があることに気付く。
その「相違」の取り扱いなのだが、それを間違えると大変なことになる。
現状では、その「相違」を多数決で決めてマイノリティ(少数派)を排除することで統制を図っている。認めたくないが、教育現場を含む多くの場所で取られている方法。でもそれは間違い例。本当に良い社会を作るのであれば、その「相違」をお互い尊重し合って受け止め合う方が良い。教育現場ならばそちらに誘導するのが最善であろうと思う。

 私は自分が出来ることとして、その環境を自分の小さな教室で作る。
英語はただのツールとはよく言われるけれど、もっと噛み砕いて言うと、英語で言えることは日本語で言えることに留まるということ。即ち、例えば日本語で自分の考えを言える人や、自分が好きなものをどうして好きなのか説明しその魅力を伝えることが出来る人は、英語でも何語でもそれが出来るということ。
 反対に、人と話したくない、言っても誰も聞いてくれない、人が自分が言ったことを何と思うか気になる…などいろいろなブロックがある人にとっては言葉以前の問題。しかし言語が変われば文化も変わる。英語は「話したい」「知りたい」「伝えたい」という表現の新たな希望に繋がるかもしれない。そういう期待を持って、私は英語を指導している。
 だから、私が一番大事にしているのは、英語を間違えなく言うことよりもまずは日本語でも良いから、「聞いて欲しい!」「知りたい!」という気持ち。それを大切に育てていきたいと思っている。

 そして二段構えで月に一度のバイリンガルクラスでは、アメリカ人の先生との英語だけのレッスンをセッティング。そこで思う存分アウトプットしてもらう。教室の先生方や私と、英語を話すマインドとテクニックを学んでアメリカ人の先生と英語のリアルな会話を楽しむ、良い流れが出来ている。
バイリンガルクラスは任意参加だが、参加生徒の変化で驚くのはリスニング力の向上と、話し方。伝わる様に工夫するから、考え方が変わってくる。

 そんなこんなで、私の教室は、子どもたちに一生ものの「思考力」「判断力」「発信力」「対話力」そして「英語力」を贈るべく授業を展開している。今、口コミやこのブログを見て共感してお子さんを連れて見える方も増えている。ありがたいこと。
是非点数や結果重視ではない、真の生きるための教育を求める人が増えることを祈りつつ、今日も私は子どもたちと学び合う。

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