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毒と共に生きていくということ

「10年間ほど家庭の中での私はとても居心地が悪く、息苦しいなぁと思いながら生きていました。」

私の周りにはほかにもそんな気持ちの人はいて、誰しもそういう時期があり今はそういう気持ちになってしまう反抗的な時期なのだと諭される機会も多かった。でもその時期は終わらなかくて、長い反抗期だねと。

毒のつく親という呼び方が浸透し始めたのは今からもう7年かちょっと前くらい?ある日匿名のSNSで日常の話をしていると、顔も見たことのない人からメッセージが来て遠慮がちにその言葉を教えられた。

『もしかしてそれって〇〇じゃない?』

とんでもない造語があるものだと思った。なんとなく説明されても、私みたいなのはそういうどうしようもなく可哀想な問題に立ち向かわされてる人ではないよという気持ちでいた。大それたことは起きてないと。

だけれども一方で、それならこの辛さはなんなんだ?どうにもならない理不尽な出来事が私だけのせいではないと1ミリでも可能性があるなら……何日かその言葉が頭から離れなくてつい探してしまった。


私が気づかされた時期にはもういくつかのエッセイが書かれていた。

とっつきやすく伝わりやすい漫画で描かれている方も既にいた。


そして色々なことが腑に落ち、離れて諦めようという気持ちになり、自分のケアに必死な日々を過ごし今に至る。

頭から足先の内から外までボロボロだった私も今やほとんど健康体となっている一方でどうしても壊れたままの部分も残っている。


2021年、世はまさにまだまだ大エッセイ時代真っ盛り。

SNSの活用もあって、エッセイを書いて収益にするハードルが以前より下がった気がする。副業としても優秀なツールといった感じ。

親との不和があって交流をなくした人間にだいたい付きまとう問題、お金がない。

そうするとだんだんと、あの頃見ていたエッセイのように自分の経験を収益に昇華できたら、たくましく稼ぎも増やせるしなんだか吐き出すことで自分が救われるかもしれないと期待が出た。


そうして書き出そうとした瞬間、壊れたままの部分が悲鳴を上げた。


親と離れるという決意をした自分の生き方を周りの人間に理解してもらえるまで、体感だけど相当時間がかかった。

社会人として働くにあたってもプライベートの話が入ると家族の話というのは一般的には汎用性の高い話題で出現率も多く、誤魔化しても厳しい場合があった。新しく親交を深めたい人が現れても切って話せない話題。

お金の為とはいえ、もう人に伝えるのは充分じゃないか。

頭も手も動かなかった。私にはできなかった。


エッセイ先駆者の方が、お金の為ではなく同じように悩んでいる方へと残してくれていたおかげで私は救われたし、きっと他の人もこれからも誰かを救っていくんだろうと思う。感謝しかない。これに尽きる。


そして思い出した。あの頃見ていたエッセイもすべての人が完結できて昇華できてはいなかった。それは昇華できたできない人が良い悪いということではない。

エッセイとは自分を晒すことだ。読む人に自分はこういう人間だと見せて認識されるということだ。受け取り方は読む人次第だけれど……


辛い思い出を晒すということは触れられたくない弱点を教えてしまうということでもある。

私はもう親とのことでこれ以上傷つきたくないんだとここで改めて思った。

でも時々こうして頭の整理くらいはしてもいいのかな。ハム太郎。


そう、なんとなくうらやましいと思う気持ちは捨ててしまえ!

それよりこの先も壊れたままの部分と優しく付き添いながら、楽しさを集めて生きていこう。お金は……まぁなんとかやっていこう。

「毒になる親」とはよく言ったもので、言いたいことも言えないこんな家の中じゃ……ポイズン、という状況をとてもしっかり作っていき見事にずっとその毒は体に残っています。

でも細胞は日々新しくなるのでおいしいものを食べてハッピーになっていたらいつかその毒もどうにかなるのかもしれませんね。


そのいつかの日まで、毒と共に今日も生きています。

こんな人もいますというお話でした。


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