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志村のいない世界

志村けんさんが3月29日に新型コロナウィルスのため亡くなった。
ここ数ヶ月その事実を受け止めることをなぜか拒否している自分がいた。
追悼番組も録画しているが、観ることができない自分がいる。
しかし最近どうやら志村さんがこの世界にいない喪失感をジワジワと感じ始めている。
(ここからは自分が普段言っていたように志村と敬称を略して書く。)

朝ドラ「エール」の中では3月29日に亡くなった以降の放送でもちょいちょい志村が出演していたことが僕にとって志村の存在を感じ続けられていた要因だ。
それが6月3日以降、朝ドラ「エール」に志村が出てきていない。
そして僕は志村けんというコメディアンの死という現実と向き合わざる得ない状況となり、そして自分にとっての志村の存在の大きさをあらためて知った。

親父や学校の先生、サーカーチームのコーチといった幼少期において僕のまわりにいた「おじさん」たちは総じて不機嫌で高圧的な態度で僕に接してきていた。
そうしたことから僕にとっての「おじさん」という人種は近寄りがたく、なるべくなら関わりたくない存在だった。

そんな中、TVの中の志村のおじさんは僕らを純粋にゲラゲラ笑い転がしてくれ、ときにはエロいことなんかも教えてくれる僕にとっての唯一の楽しい「変なおじさん」だった。
(当時の志村のコント番組ではしばしば女性のおっぱいが堂々と放送されていた。)

僕は今や40歳を過ぎて立派な「おじさん」となった。
「おじさん」という呼び名は今や蔑称ともとらえられており、世のおじさんたちは周りの反応に敏感になり、「おじさん」的な言動をしないようビクビク生きているのである。

でも僕は思う。
志村のおじさんに見習えばいいのではないかと。
志村は決してスケベを隠したりしない、そしていくつになってもギャグをやってくれて威厳を保つことに執着していない。
みんな志村のおじさんを嫌いにならないのは、内に秘めた「優しさ」や「思いやり」そして「笑いに対する厳しさ」を感じているからだ。

そして「変なおじさん」に扮していることは志村の超シャイな部分を隠している事実を誰もが知っている。

志村がプライベートでは麻布十番によく飲みに行っていて、誰もが静かでスマートな酒の飲み方だと言っていた。

そう、おじさんは孤独であることを志村は教えてくれる。

僕は幼少期つらいことがあっても、志村の笑いで救われてきた。
本当に自分という人格形成期に志村は深く関わってきたことを今更ながら感じる。
そして今まさに彼の死で僕は喪失感で覆われている。
この悲しみからぬけるためには時間がかかるかもしれない。
そして、自分の「おじさん」としての目指すべきロールモデルを志村とすることで、僕は再稼働できるのではないかと感じている。

もし半年前に戻れるのなら、
「志村!後ろ!後ろ!」
「コロナ!」
と、叫びたい。




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