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どこか遠くの活動家ではなく、皆さんと同じような日本人である

環境問題や社会問題を語るにあたって、いつも意識していることがある。ブルキナファソという、ほとんど聞いたこともない国にいる青年の言葉だという風に伝えたくはない。
どこか遠くの話で終わって欲しくない。
※ 時間がない人は「海外に行かなくても私たちは環境問題を見ることかできる」からどうぞ。



活動家の卵だから分かること

私はここ、ブルキナファソに今年の4月に来た。それから、道や空、川などに溢れかえるゴミを見てゴミ問題に取り組みたいと思った。少しして、それが環境問題の大部分であると分かった。それからすぐに大量生産大量消費社会という、社会のあり方に関する問題と深く結びついていることを理解した。ゴミを拾って、それを生かす活動をしつつ、世界で三本の指に入るプラスチック排出国である母国、日本に向けて発信を始めた。私のことを見て活動家だと言うだろうか。SNS上で活躍し、もう長いこと活動を続けている人達と同じ列では語るべきではないが、活動家の卵だとは言ってくれるだろう。
ただ、それは決して嬉しい訳ではない。活動家というと、どこか遠く、偉いかもしれないけれど手の届かない、自分とは違うレベルに生きているという風に感じるからだ。だから活動家になりたいわけではないし、それ以前に、今の段階ではそんな大きな顔をできるような存在でもないと自分では思っている。けれど、ちょうど、まさに今、活動家の卵かそれ以下くらいのレベルにいて、かつてのように環境問題に目を向けてこなかった時よりも、もう少し活動家側に立っている今だからこそ、分かることがある。活動家側の気持ちと、彼らの発信を自分事として捉えきれない人々の両方に関して、ちょうど狭間にいるからこそ分かることがある。

説得力と経験

海外に出て、人々があまり行ったことのない国で、または行ったことはあっても関わったことのないような問題に手を出して、そこで学び、知識を得て、それを発信する人が多いだろう。それは、私のように海外に行ってから何かに触発された場合と、元々その目的をもって海外に行った場合とあるだろう。しかし、日本にいてその発信を読む人々にとって、どちらであるかはそれほど重要ではないだろう。重要なのは、発信者が日本にいて、読者の皆さんと同じような生活をしている訳ではなく、少し違う方法(例えば海外の現場に行くとか)でアプローチをしている事だろう。
子どもの貧困問題について語るには、そのような地域に行って、子供たちと話して、その目を見て、そして共に過ごすことを何となく求めているだろう。実際に共に過したかはさておき、自分の目で見たという事実を、発信するならば求めている節があるだろう。日本にいて、カンボジアの貧困層の子供たちの情報をインターネットで集めて、写真や動画、データを駆使して、その現状を伝えようとする人は求められていなくて、実際に似たような地域に行った人々の話なら、耳を貸しても良いと思っているだろう。なぜなら、後者の方が説得力があるからだ。

活動家はきっと孤独だ

海外に行って、惨状とも言えそうなゴミ山や貧しい生活を余儀なくされる人々、テロや情勢に怯えながら生きる人々を毎日見ながら生活している日本人がいくらかいる。途上国で孤児と呼ばれる子供たちのために活動をする人、ホセ・ムヒカ元大統領に会って環境問題について活動する人、東南アジアのアブラヤシの問題について活動する人々、アフリカのスラム街でゴミをアートに変える人々。
彼らは凄いと言われたくて、そんなことをしているのだろうか。海外に飛び出し環境問題に関わるそのような人々が、金や名誉、そして自分が仕事を得るためやっているのではないと思う。きっとSDGsという、現状ではただの理想としか言えない17の目標がしっかり達成され、自分たちの活動が必要でなくなると分かったら、喜んで日本に帰り、自分の生活の範囲内で、「持続可能」を意識して生活するだろう。それはつまり、彼らは自分たちの活動が必要なくなる社会を求めているということである。それがどんな事か想像できるだろうか。

そして、先に述べたように現状はそうなっていない。問題は山積みで、活動家はこれについて声を上げることに、責任を感じている。勝手に責任を感じていると言いたくなるかもしれないが、それは違う。責任を感じていない側が、勝手に責任を放棄しているという方が正しい。ただ、ここで読者の皆さんを責めたい訳では無いため、話を進めよう。
絶望を感じる日があっても、投げ出したくなる日があっても、他の人と同じように知らぬふりをして生きることがどれほど楽だろうかと思うことはあっても、ただこの社会の一員としての責任を感じて、声を上げ、発信をする。そして、人々はその発信に説得力を求め、活動家は海外に出るなどして経験を積む。経験をもって、時間と金を惜しんででも、発信をする。人々はようやく聞く耳を持ち、発信を読む。けれど、その時はもう言葉は届かなくなりつつある。
海外に行って、環境問題や社会問題について発信する、人生をかける「意識の高い活動家」というレッテルが勝手に貼られているからだろう。人々は、彼らの活動の意義や意味、素晴らしさを認めつつ、自分たちとは違う世界だと思ってしまっている気がしてならない。そう、説得力を持たせるために海外に行き、強く大きな声を発信すればする程に、それはどこか遠くの世界の話になってしまう。
それは違う。それは彼らが望んでいることとはあまりにも違う。

褒められるために、このような活動をしている人間などいない。そうであれば、どこかの国際協力機構に応募して、そこで活動するだけで十分だろう。JICAに入って、海外に赴任すれば十分だろう。何故それをしないのか。自分の手で全てやりたいからか、自分がリーダーでありたいからか、いや違うと思う。その程度の気持ちでは、この途方もない問題に対して、長くアプローチし続けることはできないだろうと分かるからだ。
その程度の気持ちであれば、1度しかない人生の限定的な元気な時間を捧げることはできない。なぜなら、社会に出て、それなりの会社に入って、それなりに稼ぐ能力は彼らにも当然あって、先に述べたように社会問題など無視して生活できるほどの国に私たちは生まれていることを、彼らは十分に理解しているからだ。それを知っていても彼らが取り組むのはもっと大きな何かがあるからだ。それは何か。
1つは先に述べた責任感であろう。自分が買ったものがどこから来たのか。捨てたものが、どこへ行きどこで消化されるのか、またはされないのか。地球という環境の恩恵を疑いようもなく受けていて、それでいて恩を仇で返すようなことをできないと思っているかもしれない。少なくとも私はそう思っている。
そして、1つは誇りある生き方をするためであろう。詳細は前回書いているため省くが、未来の世代のために、他の生物のために、自らの生き方を見直し続けているのではないかと思う。


他にも幾つかあるだろうが、どこまで考えても、彼らが特別な存在であったり、特別取り組むべき理由がある訳では無いことだけは分かる。環境問題に取り組む全ての人は、それを考えない全ての人と同じような存在である。しかし、私たちが彼らのあとに続かなければ、社会は変わらず活動家はいつまでも孤独だろう。彼らが活動家を辞めた時、私たちは推して追える背中は無くなっている。その前に彼らを追い始めるべきだろう。


海外に行かなくても私たちは環境問題を見ることができる

つい最近まで日本にいて、おおまか皆さんと同じように生活をしていた人間として、皆さんが私のことを急に活動家として見ることには非常に違和感を覚える。私の感覚では、活動家と呼ばれる人々も皆さんも、そして私も何ら変わらない。違うとすれば、一度環境問題という大きそうな問題に目を向けたか、向けていないかの違いだけである。そして、その「環境問題に目をつけたか否か」という部分を満たすのに、「海外の惨状を見たか否か」は全く必要ないことであると断言しておく。なぜなら、

日本は十分すぎるほど、環境問題の原因国となってしまっているからだ。

どこか遠くの国よりも。

世界中が森林伐採や森林破壊の現状を問題視して、植林や森林保護を進めている中で、明治神宮の歴史ある樹を堂々と切ろうとしているのが日本である。美しい日本海、壮大な太平洋を両腕に抱えながらも、海を汚し、海岸や海そのものをプラスチックなどのゴミで溢れさせているのが日本である。世界有数の二酸化炭素排出量を保持し、世界有数のプラスチック製品生産&排出国であり、パーム油製品の輸入国であり…だから、環境問題を語るにあたって、誰も海外に出て経験を積む必要などない。日本こそ、その問題を大きくしてきた国の1つだからである。

腹が立つだろうか。皆さんが住んでいる日本という国を悪く言われることに腹が立つだろうか。外から石を投げているように思えて腹が立つだろうか。そうは思って欲しくない。私はどちらかと言うと腹が立つと言うより悲しく思っている。
たぶん私は多くの人々よりも日本を大切に思っているし、日本人であることに誇りを持っている。それは所謂愛国心ではない。大した根拠もなしに他の国の民族を下に見たり、日本人こそが尊いなどとは思っていない。ただ、自分が生まれた土地を、国を誇りに思っているだけだ。そして、だからこそ、きっと世界有数の優れた国であるはずの日本が、こんなにも環境問題という逃げきれない問題の首謀者的な立ち位置にいることが、腹が立つと言うより、そんな感情を通り越してむしろ悲しく思えてくる。

話を戻す。誰も海外に出てから環境問題について考える必要は無い。今日外に出て(雨だったら昨日で)、会社や学校の行き帰りに何を見ただろうか。コンビニは袋を有料化したけれど、個包装容器はリサイクル不可能なものが多い。大繁盛の大型コーヒーチェーンのストローは紙になりつつあっても、カップは相変わらずプラスチックである。日本では、1年間で数億個のプラスチックカップが捨てられるという。スーパーの野菜がバラ売りされている例は少なく、実に多くのプラスチックが使われている。考えることを始めることは誰にでもできる。そして、それが始まれば殆ど答えは出ている。そして、その考える人の数が増えれば結果はそう遠くないうちに付いてくる。つまり、野菜がバラ売りされる日を作ることもそう難しくないはずだということだ。
紙ストローやレジ袋の有料化に意味があるかどうかという議論をする頭があるのなら、環境問題というもう少し大きい単位を見る方がよほど意義があるだろう。


私たちにしか成せないやり方がある

海外に出て経験や知識を積んで発信することを求める皆さんが、そうした発信者の声をどこか遠くのものだと感じてしまうのでは、何も進まない。
日本にも活動家はたくさんいて、皆さんの周りにもたくさんいる。プラスチックを使わないように生活をしている人は多くいて、脱プラスチック月間ともなれば尚更だろう。さて、もう遠くの話ではなくなって来たことに気がついただろう。有機栽培推進家や国産主義、反遺伝子組み換えの人々を一塊に怖がり避けるのは、少し愚かだと気がついているだろう。彼らの中に環境問題の観点から正しい主張をしている人が多くいることを私たちは知らぬふりをしていないだろうか。

私たちは共に進まなければいけない。先に述べたように私たちは答えを知っている。どうすれば環境問題を改善できるかを私たちは知っている。日常を見直すという考えが、何か新しいことをするよりも何かを変えたり辞めたりすることが、環境問題という大きく見える問題の根本的改善策であることを、もう知っているはずだ。
この環境問題という大きな問題を生み出したのは人間だった。無駄な消費や廃棄によってゴミを増やしたのも、間接的に森林を伐採したのも私たち一人一人である。それは小さな力だったが大きな問題を生み出してしまった。ただ、裏を返せば私たちは、小さな力が大きなことを引き起こせるということを既に証明している。今日、私と皆さんが、植物性油脂の商品を避けたり、ゴミと思っていたものをもう少し使おうと思ったり、使い捨ての商品を避けたりすることがとても小さいことであることには同意するが、皆さんにはそれが大きなことを成す一歩目になることに同意して欲しい。

フランスのような環境問題や社会問題の観点を取り入れた教育を受けてこなかったから無理だろうか。ドイツ人のように、外に出て法律を変えるほどの行動力がないから無理だろうか。
関係ない。そんなことは関係ないと思う。私が知っている限り、日本人は世界のどこの人々にも負けないくらい根は真面目で、賢く、そして勤勉である。それはつまり学ぶことを拒まず、自分の行動をどのようにして社会に還元していけるかを考えることができ、そして自らの決めたルールやマナーに則り行動でき、自分を律することができる人々だということだ、少なくとも潜在的にそうである。
教育は確かに重要だが、もう未来の世代に任せることはやめよう。少なくとも学校教育には限界がある。それは即ち、親として親戚として、地域住民として、子供に関わる全ての人が、つまりは全ての日本人が子育てという教育に多かれ少なかれ携わることを言っている。そして、現状では教育者として胸を張って環境問題や社会問題を子供たちに提示できる人は少ないだろう。なぜなら、自分の生活の中にそれらの問題から学んだことを取り入れている人が少ないからだ。

ブルキナファソでは、ポイ捨てが横行している。私の知る限り、意識してポイ捨てをしないようにしている人やポイ捨てをしている人に不快感を示す人は殆どいない。3人くらいしか知らない。学校教育を受けている子はたくさんいるが、ポイ捨てはなくならない。ポイ捨てが良くないことだと知っていても、ポイ捨てをする人は減らないし、辞めない。何故か。仮に学校教育でポイ捨て禁止を教えるようにしても、子供たちはポイ捨てを辞めないだろう。なぜなら、親が、隣人が、先生がポイ捨てをしているからだ。そんな人に、「ポイ捨てをしてはダメだ」と言われて、誰が聞くだろうか。

これでは誰もポイ捨てを辞めない


日本で環境問題や社会問題について教育から変えて取り組もうとするのは間違っていないだろうが、そこに頼るのはあまりにも甘いと思う。優れた教育を作り上げるのに何年かかるだろうか、そもそも大人たちがイマイチできていないのに子供たちはやってくれるだろうか、仮に子供たちが思い通りに育ったとして活動してくれる子がある程度出てくるのに何年かかるだろうか、それが訪れた時に地球がまだ再生可能である保証はどこにあるだろうか。
先送りにするのは余りにも危険すぎる。そして、そもそも教育が上手くいって、みんなが環境問題に目を向けた先に、日本的に改善を見い出せる保証もない。だって、私たちは外に出て声を上げることが苦手になってしまっているでしょう。
それはさておき、やはり私たちは自分を律して生活を見直すことから始めた方が良いと思うし、それが根本的な改善策であり、真面目で勤勉な日本人ならできると思うのだ。ヨーロッパやアメリカを真似する必要は無いだろう。私たちには私たちのやり方があると思う。それはつまり、私たちはそれしかできないというより、私たちだからそれができるというやり方があるという事だ。
私は勤勉である自負も真面目である自負もないが、始めてみると変わるものなのかもしれない。
自分の生活の中から見直してみようと思えるようになる。

もうどこか遠くの人だとは言わせない

何度も言ってきたが、私はまだ始めたばかりだ。少し前までは皆さんと何も変わらなかった。だから、始めたばかりのやつが偉そうに(そんなつもりはないですが、そう聞こえてるかもしれない)語っていることに違和感を覚える人もいるかもしれない。色々なことを分かった気になって語るなという指摘は甘んじて受け入れる。ただ、まだ始めたばかりの私だからこそ、皆さんとほとんど何も変わらない私だからこそ、皆さんは私をどこか遠くの意識高い偉い人ではなく、自分と同じような人だと思えるのではないだろうか。
サッカーで言うところのにわかファンである。にわかファンがサッカーについて知った顔をして話すことは既存の大ファンに多くの不快を生み出すかもしれないが、にわかファンにもなれないが少しはサッカーに興味がある人たちにとっては心強い味方であろう。彼らが大きな塊となりいずれ本当のファンになった時、サッカー界全体にとってポジティブであることを否定するものは誰もいないだろう。

多くを知って発信をするのと同じくらい、知らないことが多い時に発信することに私は意味を感じている。私が知ることと意識することを辞めなければ、いずれ皆さんにとってどこか遠くの人になっていくだろう。それは私の望みではないが、時間の導く結果である。
従って、今、私がまだ行動し始めて間もない今、共に歩むことを望んでいる。私が望んでいるのもあるが、地球が望んでいる。そして、皆さんと私の子供や、人類とその他の生き物の子孫が望んでいる。
環境問題は遠くの話ではなく、皆さんと私の今日の話である。


何の脈絡もありませんが珍しいと言われているバオバブの花をプレゼントします。ブルキナファソで撮影しました
最後まで読んで下さりありがとうございます

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