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本当に「子供たちのために」

子供たちのために?


「子供たちのために」というフレーズを聞き飽きて10年くらい経つ。それでも時として、聞き飽きたフレーズに再び耳を傾けようと思う時が来る。そういう時は決まって人の熱さに耳を傾けている。
前にも書いたが、「SDGs」が謳われ始めると情報社会ゆえに何処でも何時でもみんながこの言葉を使うようになる。それは国の補助金欲しさであったり、企業イメージアップのためである場合が殆どで、少し掘り下げてみるとSDGsとは真逆のことを、同じ会社が別の事業などで堂々とやっていたりする。炎上を恐れず言えば、彼らはSDGsなんて語る資格はない。つまり、SDGsが何たるかを彼らは全くわかっていないもいい所だ。その目的、目指す社会、そして何で今の時代にそれを言っているかを何も分かっていない。分かっていてもやっていなければ、それは分かっていない部類であろう。
話を戻すが、誰もが軽々しく流行り言葉のようにSDGsを使えば、もはや言葉は効力を失い、誰もまともに言葉の意味を考えなくなる。通り過ぎて行く言葉に過ぎなくなる。

調べれば調べる程に、本当に「子供たちのために」活動している人は極僅かであると感じてきた。私は23歳で子育てを経験したことはない。それでも、未来の世代のために活動をしたいと思うようになった。私は野生動物が好きで、彼らのためでもある。しかし、それも掘り下げれば同じことであると理解している。つまり、「子供たちや未来の世代」のために活動することも「野生動物」のために活動することも、同じ活動の上に成り立っているのである。すなわち、星を汚さずに人類が生きていく道を目指すことが全ての解決策であるということだ。それは即ち、環境問題に取り組むということである。
そして、そのような事をずっと前から分かっていた。多少教育があれば誰でも分かっているだろう。

私に言わせれば、通学路にバナナの皮が落ちているよりも、自然に戻れない化学洗剤が下水を通じて海に流れ込んでいることの方がよほど問題である。バナナの皮は土に戻り、自然はそれを解決できるからである。しかし、前者の方が問題であると感じる人も多いようだ。それはそれで問題だが、本当に問題なのは、後者の問題の大きさを理解していない人が、あまりにも多いということだ。
ここからは、環境問題に生活の範囲の中だけで良いから、取り組んで欲しいという話です。

変わることを躊躇するのは分かるんです

確かにね、分かるんです。急にシャンプーやコンディショナーを見直すことも、洗剤を変えることも、タワシを変えることもできないかもしれない。勇気やお金よりも何か大きな何かが必要かもしれないと思いますよね。自分一人だけで家の中でやるのもなかなかできないかもしれないし、誰にも評価されないのにモチベーションが湧かないかもしれない。
YouTubeやTwitterを開けば、問題の大きさを語る人はいくらだっていて、それを理解しているつもりでも、結局は自分だけが変わってもどうにもならないかなって思うんですよね。誰も見守って評価してくれたり、怒ってくれたりする人がいないと、やろうと思えないかもしれないですね。

すぐに行き着く考えは、結局は環境問題にとどまらないということです。貧困問題や格差問題など、問題はいつも絡まりあっているんですよね。

日本の宝石店に売ってあるダイヤモンドやルビーといったジュエリーのほとんどが、アフリカの子供たちの低賃金悪条件の労働下で採集されたものであって、それを買うことは実質的に子供たちを踏み台にしているのと同じようなことだと少しだけ分かっていても、やはり自分の楽しみにしているものだし、日本に生まれた特権を少しくらい行使しても良いかなって、みんな買ってるし、自分だけが我慢するのもあんまり意味ないかなって、だって欲しいし、結婚の時くらい、人生で1回だけなら良いかなって思うんですよね。そんなこと考えなければ良いわけで、1回きりのことだから忘れてしまえばいいわけで、娘が結婚する時にも送ってあげることになるかもしれないけど、その時はまたその時だよねって言っちゃうんですよね。低い酸素濃度の中で息も絶え絶え土を掘って、小さな小さな石を少し見つけて、それを拳銃を持った大人たちに渡す生活をして、そんな子たちが命を落としても次の子が来るだけで、でもそれは遠いどこかのお話で、自分が買ったダイヤモンドはそんな背景は持っていないかもしれないと思っちゃいますもんね。
そういう考えが、そのビジネスを成り立たせて、新たな幼い死者を出していることを、どこかで分かっていても。

何故頑張れるのか

僕はね、自分の母親も父親も、そんな宝石持たずに生きてきたことを誇りに思えました。今になってですけど、父も母もまだまだ元気ですから、彼らがアフリカの子供たちを踏み台にするように生き方をして来なかったことを誇りに思えたんです。それに、自分も自分の子供にそう思われときたいなって今のうちから思いますね。まだ結婚してないですけどね。
ダイヤモンドに限った話ではないんですよ。パーム油の使われている製品を避けているとか、コンタクトレンズを流しに捨てないとか、たくさんあるんですけどね。まぁ、まだ皆さんはここまで読んでも今日から生活を変えようという気にはなってないですよね。


意外と身近な話なんです



例えば、僕の両親は食品添加物とか農薬まみれの食べ物とかを、できるだけ食卓に並べないようにしてきたんです。つい最近もめちゃくちゃよく使われていた食品添加物『アスパルテーム』が「癌の原因になる」という理由で使用禁止になったでしょう。



結局、科学が追いついていないままに使用認可されているものがたくさんあるんですよね。ドイツで使用禁止されている食品添加物が日本では認可されているケースが幾らでもあって、スーパーの食品棚に平然と並んでいますよね。ドイツ人の方が食品添加物や農薬への抗体がなくて、日本人だから大丈夫だっていうことで理解しますか?いや、そんなわけないんですよね。でも、政府が決めていることだから、確かに手の出し用がないように思えますよね。そうなると、やはり自分が気をつけるしか無くなって来るんですよね。もちろん、別にそれくらい大した被害なさそうだからいいよって言う人はそれでいいと思うんです、雑な言い方ですけど勝手にしたら良いと思うんです。

でも、我が子のために、或いは自分自身のために、ちょっと面倒だけどそれは気をつけようって、僕の親みたいに考えている人は実は少なくないと思うんです。実際にできているかはさておいて、ある日急に、政府やどこかの機関が「すみません、今までがんの原因になる添加物を認可していて、みんながそれを食べるのを見過ごしてました。科学が追いついていなくて申し訳ないです」ってなった時に、「え…それは困るよ」ってなりたくないでしょうし、それはきっとみんなそうなんですよね。

要は、皆さんが自分自身の身体とか我が子の身体のためにちょっと頑張るって言うのは、よくある話だと思いますし、それだったらもう少し意識できると思うんです。身近なことだからですかね。
でも、環境のためにパーム油を避けるとか、海の環境を守るためにシャンプーを選び直すとかは急にやる気が無くなるんじゃないかなって感じるんです。でも、結局はそれらは同じことなんです。どちらも我が子と自分自身のために面倒だという気持ちを抑えて頑張るんですよ。

僕自身は、どっちにもやる気があるんです。冒頭に書きましたけど、僕はまだ子供もいないですよ。でも、いつか子供ができて、その子が成長して、あるかないかは分からないけど、その子が環境問題とかに目を向けた時に、「あー、うちの父親はそういう所はちゃんとしてたんだな。自分たちの世代の地球環境のために考えてくれたのかな。ちょっと面倒なこと我慢してでも、続けてくれたんだな」って思われたいんですよね。で、それって自分の子供だけではないんです。親戚の子でも、地域の子でも、割と誰でも良いんです。それこそが「子供たちのために」なんだと思います。
極端な話をすれば、感謝してくれる人がいなくたって良いんです。

ほう?って思うでしょう。自己満足なのかもしれないですよ。自分が自分自身や、自分の子供に、そして背中を見てくれる誰かに誇れる生き方をしたいだけなんです。もっと正確に言うと、そういう背中を作っておきたいだけなんです。結果として誰もその背中を見なくてもね。SDGsのデッドラインまであと7年でしょう。それですぐ地球がどうにかなったりしないと思いますけど、取り返しつかないねってなる可能性はあると思います。まぁそうでなくても、あと30年経って、もうこの星駄目かなって、こうなることを皆少し分かってたけど結局こうなっちゃったんだねってなった時に、
「自分は頑張ったんだけどなぁ。まぁ足りなかったかなぁ。もっと頑張れたかなぁ、もっとみんなを巻き込むようにできたかなぁ」
って思いたいんですよ、
「まぁ、そうだよね。どうせこうなると分かってたから、自分も何もやらなかったしな」
って思うよりはね。
30年経った時に、子供が癌を発症した時に、
「自分は気をつけていたんだけどなぁ」
と思えるようにありたいんです、
「何も気にしてあげられてなかったな」
と思うよりもね。
自己満足なんですよ、たぶんね。


誇りある生き方

僕が好きだった、堺雅人さん主演の『リーガル・ハイ』というドラマなこんな名言がありました。
「誰にも責任を取らせず、見たくないものを見ず、みんな仲良しで暮らしていけば楽でしょう。しかしもし、誇りある生き方を取り戻したいのなら見たくない現実を見なければならない、深い傷を負う覚悟で前に進まなければならない、闘うということはそういうことだ、愚痴なら墓場で言えばいい! 」
『誇りある生き方』とは何でしょうか。自分と我が子の健康にさえも目を向けられず、自分たちが生きている星にさえ気配りをできない。知ってはいるのに、アフリカの子供たちの顔を踏むような生き方をして、イルカや海鳥がゴミを誤飲して死んでいくのも自分は関係ないと逃げて…
まだ言いますか、自分はそんな人間ではないと。隣の騒音野郎はそうかもしれないけれど、自分は違うとまだ言いますか。23歳の若いやつに言われているからでしょうか、名もない人間に言われているからでしょうか、家族も社会も大して知らないであろう若造の話だから、自分の中に取り入れる気はないでしょうか。長く生きてきたプライドがそれを許さないでしょうか、何かよく分からないけれど聞く耳を持つ気にならないでしょうか。
根拠はないんですけど、まだまだ届いていない気がするんです。これはこちらの力不足なんでしょうけど、文章力と知名度と、何かの力なんでしょうけどね。僕や環境問題に関してあらゆる声を上げる人々に、そうでない皆さんが共感する日が来るよりも先に、地球は取り返しのつかない所まで行ってしまう気がするんです。

まだ言います

僕はまだ言います。
皆さんが自分の生活を見直して、利権が絡む複雑で面倒な社会を、誠実な消費という切れ味鋭い太刀で少しずつであっても一刀両断する日は、来ないのでしょうか。誠実な消費とは即ち、誇れる生活の中にある消費のことで、それはつまり地球の中のサイクルに則った持続可能なものだけを正当化するということで、もっと分かりやすく言えば環境に優しいものを選んで買うということです。企業の偽りの「環境にやさしい」を鵜呑みにせずに、そんなに難易度の高くない正しい知識を持って行う買い物のことを言っているんです。自分の為で良いんです、自分自身を誇れるようにするだけなんですよ。それが我が子のために、未来の世代のために、環境のために、動物たちのためになっていくんです。

分かっているんです、みんな。
分かっていることも分かっているでしょう。やってないだけです。こんなに悲しいことはないでしょう。
身の回りを眺めてください。机の上でも、着ているものでも、棚の中でも構いません。未来の世代のために誇りある生き方をできているでしょうか。あなた自身があなた自身の警察になるのです。
まだ、今日から生活を変えようと思っていないかもしれない。また話しましょう。
僕だって、こんな風に考えられるようになったのは、割と最近ですからね。急に変わった訳でもないです。きっかけはあって、そこから少し調べて、本当の意味で理解して、やっと変わったんですから。両親を誇りに思えたのもその時でした。僕が少しずつ調べたのは、下の彼らの発信からでした。全てが正しいとは言いませんが、問題に目を向けるには十分な内容です。

⬆ドイツ在住の環境活動家 谷口さんのInstagram

⬆国際協力師 原さんのYouTube



同世代の若い皆さんへ


僕らが生まれた時から、社会はたくさんの課題を抱えていて、そのいくつかは僕らに直接に影響してきていたと思います。ただ、それらのどのような問題よりも深刻で改善すべきなのは環境問題であると、今では理解しているでしょう。地球は簡単には汚れないなどと生温いことを言っている人を除いて。
僕らは誰もが、両親の世代、いや戦争経験世代以降の多くの人々の苦労の結果として、今の生活を手にしていることを知っているでしょう。戦争によって破壊された国を復興させた人々、高度経済成長を支えた人々、公害を改善した人々、長いデフレの中で耐えに耐えて子供たちを育てた人々、そんな両親を祖父母を親戚を先人たちを僕らは持っているでしょ。そして、きっと多くの人が彼らに感謝しているでしょう。言葉にしていなくても、日本に生まれたことにも、それとなく喜びと感謝を感じているでしょう。それはきっと正しいことです。
けれど、僕らが生まれた時に、既に地球のあちこちで無視できないほどの問題が多発していたでしょう。そして、僕らがそのようなことをある程度理解してからもずっと、社会はその行進を辞めなかった。今もですね。

社会、それは掴みようもない大きなものだと思っていませんか。かつて高度経済成長を成し遂げたのも社会です。そして、僕らは先人たちに感謝している。高度経済成長を成し遂げた、親や祖父母、近所の人々や偉人に感謝している。
環境破壊という行進を辞めなかったのも社会です。怒られることを承知で言いますが、疑いようもなく、間違った道を歩み続けたのは、僕らの先人たちなのです。そういう時代だったからと言って許されるようなことではないでしょう。まさに「子供たちのために」環境問題に関して頑張った人が、あまりにも少なかったのでしょう。僕らのために少しだけ生活を変えようとしてくれた人々があまりにも少なかったのでしょう。

僕らは怒らなければいけないでしょうか、僕らは責任を取らせるために誰かを吊るし上げなければいけないでしょうか。いえ、その必要はないでしょう。同意して貰えると思いますが、そんなことをしても何の解決にもならないと思います。僕らは、大きすぎる課題を僕らに持たせた人々と共に(亡くなった人は無理ですが)、課題を解決する努力をしなければいけないのです。それは、僕らの次の世代のためでもあります。誇りある生き方を取り戻すのです。
「そんな生き方知らんよ?」という指摘は甘んじて受け入れます。僕も全てを理解しているわけではないですが、運の良いことに両親は、そのやり方を幾つも見せてくれました。それは難しい事ではなく、簡単なことなのです。
もうすぐAmazonプライムデーが来ます。本当に必要なもの以外買わないのです。今がお得だ、何か買っとこ!っていう考えを持たないのです。それが未来の世代のためなのです。それが環境のためなのです。そして、あなた自身が誇りを持てる生き方をしたいのであれば、そういう所から始めないといけないのです。他にもあります。
次回、シャンプーを買い換える時は、環境問題について調べてからちゃんと選ぶのです。ポテトチップスよりも、環境に優しいお菓子を買うのです。低賃金国家で作られた格安の服を買うよりも、優れた長く着られる服を選ぶのです。食品添加物に気をつけるのです。一つ一つは取るに足らない小さなことなのです。裏を返せば、誰にでもできることなのです。それが積もっていく未来を僕らは作らなければいけない。
外に出て共に声を上げ活動することは、まだ求めていません。何か新しいことを生活に加えることを求めているわけでもありません。今の生活から少しだけ引き算をして欲しいのです。
僕たちは、押し付けられた課題を改善するために、上の世代と協力していく必要があります。それは受け入れ難いことかもしれませんが、上の世代もきっと、同じような苦労をしながら世代を引き継いで来たでしょうから、そこは目を瞑りましょう。彼らだって、問題を多く抱える地球を引き継いだ被害者かもしれない。この際、誰が悪いか、どこで間違えたかなんて、もはやどうでもいいでしょう。

届いたでしょうか。今の僕には、このような言葉でしか表現できないですが、皆さんが深呼吸をするように僕の言葉を飲み込んで、皆さん自身のものにしてくれることを望みます。それが成らないのであれば、それは僕の物足りなさが大きいでしょう。もう少し頑張らなければいけないですね。

僕は有名にはなりたくなしいし、お金もたくさんは要らないのです。それでも自分に納得するために発信をします。今日で僕の言葉を飲み込んでくれた人は、フォローなんてしなくても大丈夫です。飲み込んだことを少しやってみて、もう少し続けてから友達に話してください。まだ飲み込めない人は、もう少し良い回を書けるかもしれないのでフォローしてみてください。Twitterでもnoteでもどちらでも良いので。僕は、もう少し頑張ってみようと思いますから。


これを続けながら、もう少し頑張ってみようと思います

通り過ぎていく「子供たちのために」というフレーズを自分自身のものにしたいと、今の年齢で思えたことは、大きな収穫だった。

ここまで読んで下さり、ありがとうございます。

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