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20240307 おれはひとりの

彼氏のモーニングコールにより無理矢理夢から引き剥がされたのにも関わらず、今日は久々に気分が良い。心臓を握りつぶす焦燥も腑を掻き乱す不安も感じない。窓の外の薄青い空に寂しさを見出すこともない。安息に身を委ねて無駄に広いベッドの上で大の字になる。呼吸がしやすい。
電話越しの彼氏はご機嫌で私の知らない昭和歌謡を歌っている。彼は読む本も見る映画も聞く歌も古いものばかりで、喋っていると時折彼がいつの時代に生まれた人なのかわからなくなる。洗濯をして荒れた部屋を片付ける。私は部屋が整頓されていなくても気にならない質なので、忙しくなるとあっという間に部屋はゴミ屋敷と化す。結局取り出すのになぜ引き出しへ仕舞わなければならないのか、などと子供のような愚痴を吐く。

この国にも春が近づき、路面の雪も溶け始めている。路傍には春の芽吹きを感じられる。しかし私は春が苦手だ。太陽が力を取り戻し再び世界に色と音とが溢れるあの季節が苦手だ。氷の下で沈黙していたあらゆる生命が目を覚まし無数の光を反射させる春。
独り言を吸収してくれる雪はもはやないのだ。しかめ面と孤独と苛烈な精神を正当化してくれる氷点下の世界はもはやないのだ。冬は私に無関心だった。無関心のままに全ての生命を拒絶した。それは残酷なほどに平等だった。手袋を外した掌を見て私は悟る。凍るまつ毛と冷えた手足をもって死んだように生きることを許されていた季節は終わったのだ。春は私に生きよと告げる。腹の中で無数の蝶が羽化する。掌が汗ばむ。心臓の音が大きくなる。叫びたくなって喉が詰まる。蟻の行列が足元を這う。鳥の囀りが頭上に響く。太陽が頸を温める。生命が私を見る。生命が私を圧倒する。煩くて耳を塞ぐとごうごうと血の流れる音がした。私は生きていた。

春になると好きな詩の一つである春と修羅を何度も思い出す。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

宮沢賢治『春と修羅』


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