賢者のセックス / 第10章 ロイヤルミルクティーと独立変数 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと
水が大地に沿うように
僕たちが「調査活動としてのセックス」に復帰したのはアダルトビデオを分析した次の日、日曜日だった。土曜日はあれから一緒にお風呂に入ってご飯食べて、手を繋いで寝ました。手以外のところも繋いだかもしれないけど。
翌朝、朝食を食べ終えたソラちゃんは、クロゼットから白い化粧箱を取り出してきて僕の前に置いた。箱の上面にはL字型をした赤い物体が描かれている。
「これ、女友だちがくれたんだよ。これが最強、これならイケるんじゃないかって」
僕は箱を開けてみた。僕の手のひらに収まるほどの物体が入っていた。スーパーのキッチン雑貨コーナーに並んでいるようなシリコン素材で出来た何かだ。多分、女性の膣とその周辺に当てる機械。
「それでまあ、試してみたんだけど、やっぱりよくわからなかった。ジェルもくれたから、それをつけて入れてみたんだけどね。欲しかったらあげるよ」
いや、これを僕が貰っても。一体どうしろと。分解して内部の構造を調べるくらいしか、使いみちを思いつかないんですけど。
最近、ソラちゃんは僕の性別をあまり意識していないのではないかと感じる瞬間が多い。もちろん僕の身体が男性のものであることは知っているはずだけれど、ベッドルームの外のソラちゃんは、ほとんどそこを気にしていないみたいだ。
僕もまた、ソラちゃんの女性としての身体は大好きだけれど、それが一番大事なことではないと今ははっきり思う。
僕がソラちゃんに惹かれていったのは、自分がどれだけ「男」であるかを問われない相手だったからだ。多分。いや、間違いなくかな。それは僕にとって、とても楽なことだったのだ。
ソラちゃんは、女性を支配する存在として、あるいは女性を支配させられる存在としての男の役割を僕に求めない。僕はソラちゃんに支配されていないし、ソラちゃんを支配してもいない。
僕のものはソラちゃんの中に入り、ソラちゃんに包まれて、やがてオーガズムに達する。それはソラちゃんも僕も、共同生活を始めた日から求め続けてきたことだ。でも、その中にあるものは一定ではなかった。この小説執筆プロジェクトが始まってからの僕たちは、特にそうだ。変わり続けている。街が僕たちにそれを求めているのかもしれない。僕たちは、空から雨となって落ちてきた水が大地に沿うようにして、流れてゆくべきところへと流れ続けているように思う。
昼食の後、いつものように順番にシャワーを浴びてから、僕たちはベッドルームで抱き合った。この日はアダルトビデオから抽出した、挿入以前の男性による女性への愛撫を順に確認することになっていた。例のL字型の物体も、一応、試すだけは試すということで充電を終えてベッドサイドに置かれている。その隣には実験の手順書。
僕たちは時間をかけて丁寧にキスを繰り返しながら、お互いの身体のあちこちを手のひらで優しく触った。ソラちゃんの膣が充分に濡れるには、それが大事だということがわかってきたからだ。この調査を始めてから、ただ手のひらで相手の肌に触れるということの中にどれだけ多くの語彙が隠れていたのかを僕たちは知った。それは使えば使うほど複雑さを増していって、僕たちを飽きさせなかった。
女の子の身体は生クリームをたっぷり使った1ピース3300円税込みのケーキ
脳裏に故郷の駅のコンコースが見えている。街が見る夢の、そこが入り口だ。キスの時間を終わらせた僕は、手順書をちらりと見てからソラちゃんの背後に回り、後ろから両手でソラちゃんのおっぱいを触った。ソラちゃん曰く「女の子の身体は生クリームをたっぷり使った一ピース三三〇〇円税込みのケーキだと思え」。そーっと、そーっと。やさしく、やさしく。壊さないように。壊れてしまわないように。
すぐにソラちゃんの息使いが早くなる。僕は竹林の中で風の音を聞いている。初夏の竹林。きっと小学生の頃のタケノコ掘りの記憶だ。竹の幹がぶつかり合うカラカラという音が降ってくる。左手の中指をソラちゃんの乳首にそっと触れさせる。ソラちゃんの鼻にかかった甘い声が漏れだす。
「あ……ぁん……」
僕の頭の中には、彼方まで広がる草むらが映し出されている。遠くに見えているのは、堅峰の公団住宅? これはもう消えてしまった風景だ。この草むらには大きな倉庫と大きな書店が建った。いつかあの書店にソラちゃんの本が置かれるのだ。
「何か……見えてる?」
ソラちゃんが喘ぎながら尋ねた。ソラちゃんの上半身は、先程から休むことなくくねり続けている。僕はソラちゃんに少しだけ顔を近づけて囁いた。
「見えてるよ。最初は竹林」
「はっ……あん……あうっ!」
ソラちゃんの背中が仰け反った。
「それから草がいっぱい生えてる空き地」
ソラちゃんの肩がガクガク震えている。様子がおかしい。
「どうしたの?」
「せ……背中……」
「背中?」
「背中で……しゃべらないで……はぁっ……感じ過ぎる……」
ソラちゃんは背中に息がかかるだけで感じてしまうらしい。いつの間にか僕の頭の中には多摩川沿いの桜並木があった、季節は春だ。花びらがはらはらと落ちてゆく。
それから僕は手順書に従って根気良くソラちゃんの身体を愛撫し、様々な風景を発見していった。
とはいえ、この手順書には欠陥もあった。欠陥というか、見通しの甘さというか。女性と男性の違いなのか、ソラちゃんと僕の違いなのかはわからないけれど、とにかくソラちゃんは身体のあちこちに性感帯があった。
それらを一つずつ回るだけでも大変なのに、僕たちはそれらの主要な組み合わせも一気に調べようとしていたのである。僕はまだなんとか耐えられたのだが、身体のあらゆる箇所を念入りに愛撫され続けたソラちゃんは、たまったものでは無かっただろう。
右耳の下にキスをしながら膣にそっと指を入れた時、ソラちゃんは僕のものを触りながら、まるでうわ言のようにつぶやいた。
「ねえ、これ頂戴。入れて……早く入れて……」
まだ手順書の項目は幾つか残っていたのだけれど、僕はそこで調査を中止してペニスにコンドームを着け、正常位でソラちゃんの中に入っていった。そのまましばらく僕は正常位で動き、若干の勇気を準備した上でソラちゃんの左手に右手を重ねた。すぐにソラちゃんが握り返してくる。あの田んぼが見える体勢だ。あれ以来、僕たちは正常位で手を繋ぐことを避けていた。でも、僕はソラちゃんが一番好きなこの体勢を永遠に封印したくはなかった。
水を張られた田んぼが見える。今までで一番鮮明な映像だ。そして一面の緑。稲の緑。水面に立つさざ波。湿った南風が谷を吹き抜けるざああっという音の向こうから、ソラちゃんの艶めかしい喘ぎ声が聞こえる。僕は背中の下の方に、灼けるような衝動を感じた。下半身が何かに乗っ取られる予感。
「ソラちゃん」
「あっ……はあっ……あっ……え、なに? どうしたの?」
「もうイキそうなんだ。目を開けて」
「えっ? うん……」
ソラちゃんの目がパッと開かれた。僕たちは正常位で繋がりながら見つめ合った。その瞬間、僕の下半身の動きは激しくなり、僕はソラちゃんの中に大量の精液を注ぎ込んだ。僕の身体はソラちゃんの上で硬直してから、五回、痙攣した。
ロイヤルミルクティー
射精を終えてからも僕たちはしばらくの間、見つめ合っていた。それから僕はソラちゃんに頬ずりをした。そうしたらソラちゃんが僕をギュッと抱きしめたから、僕もお返しにソラちゃんをギュッと抱きしめた。そのまま僕は目を閉じた。射精の瞬間に何か見えた気がするけれど、あれは何だったのだろう。とても大切なもの。光。暖かい、優しい、小さな光。
この日の調査はソラちゃんにとっては体力的にかなりハードだったから、いつものようにシャワーを浴びてすぐに検討、というのは難しかった。やろうと言えばソラちゃんはやっただろうけれど、無理は禁物だ。だから僕は先にシャワーを済ませると、一人でリビングルームに行ってセックスの最中に見えたものを急いでノートに書き留め(フィールドノートと呼ぶらしい)、それからシナモンとはちみつ入りのロイヤルミルクティーをフタ付きのマグカップに入れてベッドルームに持っていった。
ベッドの上でうつ伏せになって休んでいたソラちゃんは、僕も初めて見るような無警戒な笑顔を見せた。それからソラちゃんはゆっくりと起き上がり、生まれたままの姿でベッドの上にあぐらをかいてロイヤルミルクティーを飲んだ。僕はこんなに無防備な女の子の姿を見たことが無かった。みぞおちの辺りから、愛しさのようなものがこみ上げてきた。
湯気の匂いをかぎながらソラちゃんが言った。
「私さあ、こんなに感じる身体してるのに、なんでイケないんだろうね?」
僕には答えようがない質問だ。でも、ソラちゃんも気の利いた返事は期待していなかったらしい。
「イクって、楽しいの? 嬉しいの? どんな気分になるもの?」
「いきなり難しいことを聞くなあ」
「だって気になるもん」
「うーん、射精は身体が勝手に気持ちよくなってる感じで、気分にはあまり関係ないかもしれない。クシャミをするとすっきりするみたいな」
「そうなんだ。ってことは、女の子がイクのも盛大なクシャミみたいなものか」
ソラちゃんが笑った。
「じゃあ、イケない私でもセックスは充分楽しめてるってことなのかな?」
「そうだと思うよ。でも、そうだな」
「何? 何かまだある?」
「ソラちゃんと触れ合った状態でイクのは幸せだな」
ソラちゃんはもう一度、さっきと同じ笑顔をうかべた。
「じゃあ私、まあまあ君の役にも立ててるんだね」
シャワーを浴びたソラちゃんがリビングルームに現れる頃には、僕はこの日発見した風景の入力をあらかた済ませていた。ソラちゃんが僕の隣に座り、スプレッドシートを覗き込む。
「ねえ、属性でソートしなおしてみて」
僕は複数列でのソートを実行した。水、子供、植物、農業の順に優先。ソラちゃんが感心したような声を上げる。
「おおー、これは綺麗に出たね。君が私の身体を愛撫してる時は全部、植物属性なんだ。私が君の身体を愛撫すると水属性なんだね。面白い!」
たしかにソラちゃんの言う通りで、挿入していない状態で僕がソラちゃんの背中や胸や膣やクリトリスを愛撫している時には、どんな組み合わせでも植物属性のラベルになるようだった。逆は水属性なのだけれど、全部で四行しかない。僕の性感帯はペニスだけなのだ。探せばもっと色々出てくるのかもしれないけれど、僕は現状で充分満足している。
ソラちゃんの分析は続く。
「後背位は農業属性がかなり強いけど、植物属性もあるな。逆に騎乗位は子供属性が強くて、正常位は農業属性が支配的。ふうん。やっぱりベクトルの向きと強い相関がありそうだね。君から私は植物、私から君は水。いや、でももう一つ独立変数がありそうだよね」
「独立変数って何だっけ?」
「他の変数から影響を受けない変数。説明変数とも言うよ。例えばそうだな、この例で言うと、誰が愛撫をしているのかは独立変数の一つだね。君が私を愛撫するという状況は、見える風景によって影響を受けないでしょ? 竹林が見えようが堤防の桜が見えようが、それで君が私を愛撫出来なくなるわけではない」
「たしかに」
「他から独立しているから、独立変数。逆に、独立変数が変わると変化するものを従属変数という。君が見る風景がまさにそれ。社会調査法の授業で習わなかったかなあ」
「習ったけど全部忘れた」
モニターを見つめたままソラちゃんが苦笑した。
x軸とy軸
「ま、そういうもんだよね。でも、大学の授業も意外なところで役に立つでしょ」
それはそうなんですけど、今回のは想定外にもほどがあると思います。
ソラちゃんがボールペンの尻でモニターを指している。
「ねえ、思うんだけど、挿入しているかどうかと、君と私のどちらが主導権を取っているかで、ほとんど説明出来る気がしない? 挿入していなければ植物か水。挿入した状態で君が優位なら畑、私が優位だと子供、で、正常位とか対面座位では田んぼになってる」
「優位ってどういうこと?」
「次にどうするかを決められるってことかな。騎乗位だったら私は自由に動けるけど、後背位だったら私なんか、ほとんど君になされるがままじゃない」
「そうなのかなあ……」
「こないだ後ろからして、それ教えてあげたでしょ」
魔女の表情を浮かべたソラちゃんが笑う。
そうだった。先週の日曜日にもう一度、ソラちゃんが後ろから両手を回して僕のものを愛撫する実験をしてみたのだが、僕はまさになされるがままだった。愛撫されながら僕はソラちゃんの顔を見て射精したいと言ったのに、ソラちゃんは背後でクスクス笑うばかりで、なかなか許してくれなかったのだ。あれはあれで貴重な経験だったとは思うけどね。
ちょっとだけ甘美な記憶に浸っている僕を置き去りにして、ソラちゃんはデータの分析に余念がない。
「うーん、でもこれ、名義尺度ばっかりだから多変量解析使いにくいなあ。どうしようかなあ……」
僕はソラちゃんの思考の邪魔をしないようにそっと立ち上がり、キッチンに向かった。紅茶を入れ直してソラちゃんの好物のスコーンを焼くためだ。
二〇分後、僕は焼き上がったばかりのスコーンに蜂蜜を添え、ダヌーンのマグカップにアーマッドのアールグレイを入れてソラちゃんのところに戻った。ソラちゃんの手元には十字に線が引かれて色々な文字が書き込まれたコピー用紙があった。
「ねえ、これ見て」
ソラちゃんが僕の方に向けてコピー用紙を差し出す。十字の縦棒の上には「生殖」、下には「コミュニケーション」とあり、横棒の左右にはそれぞれ「女」「男」と書かれている。僕は数学の問題に出てきたグラフを思い出した。x軸とy軸というやつだ。ソラちゃんが説明してくれた。
「今までいろいろ調べてきたセックスと風景の関係なんだけど、多分この二つの軸で説明出来ると思うんだ。男と女、つまり君と私という軸と、もう一つは生殖とコミュニケーション」
「男と女はわかりやすいけど、生殖とコミュニケーションというのは何?」
「人間のセックスって、子供を作るためにもするし、コミュニケーションのためにもするでしょ。私たちのセックスの中でも、生殖寄りの行為をしている時と、コミュニケーション寄りの行為をしている時があるなあと思って。例えばね」
そう言ってソラちゃんは「女」と「コミュニケーション」で挟まれた部分にさらさらとボールペンを走らせた。ためらいのない綺麗な字で「フェラチオ」「手コキ(各種)」と書かれている。もはやソラちゃんは完全に何かを突き抜けたようだ。
「ここは私から君へのメッセージというのか、それとも発話というのかな。手や口でいくら愛撫してても子供は出来ないけど、これもセックスだよね。だからコミュニケーションね。ここは水属性。これが君から私になると植物属性で、クンニリングスとかフィンガリングとか」
フィンガリングというのは、指で女性器を愛撫する行為のことだ。日本語でもう少し短い俗語もあったのだが、ソラちゃんは「下品過ぎる!」の一言で不採用にしてしまった。「手コキ」との扱いの差が少し気になったけれど、僕も品のない言葉は苦手なのでありがたかった。
「で、生殖の方に行くと、ともかく君のものが私の中に入らなきゃいけない。その上で、私の側に主導権があるような体位だったら子供属性、君の側に主導権がある体位なら畑が見えるんじゃないかな」
今度は「生殖」と「女」の間に「騎乗位(各種)」、「生殖」と「男」の間に「後背位(各種)」と書き込まれた。
「正常位は?」
「正常位と対面座位は多分、この辺ね」
そう言いながらソラちゃんはx軸とy軸の交点にボールペンで丸を描いた。
「私と君、コミュニケーションと生殖が同じようなバランスで存在する領域。その中で、コミュニケーション成分が強くなると中央から外れて、例えば君が正常位で私のおっぱいを愛撫すると芋の畑が見えたりしたわけだ。どう?」
ソラちゃんの分析は、さすがと思わされるものだった。僕がセックス中に見る風景の違いを単純な仕組みで見事に説明している。ソラちゃんはスコーンをかじりながら、どうだという表情で僕を見た。
「すごいと思う」
「でしょ? もっと褒めて」
「ソラちゃんすごい」
「ありがとう」
ソラちゃんがゲーミングチェアの上から左手を伸ばして僕の頭を撫でた。
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