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賢者のセックス / 第8章 落書きと夢 / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

四阿

 その中学校は丘の上にあった。昔は多摩ニュータウンと呼ばれていたという、多摩丘陵の上を切り開いて作られた巨大な住宅地の東の端だ。学区の中には三つの小学校があり、僕とソラちゃんは別の小学校に通っていた。だから小学校時代のソラちゃんと僕は何の接点もない。

 僕たちは中学校の東門の前でタクシーを下りると、校門に覆いかぶさるように大きく茂った木々を見上げた。黒々としてねじ曲がった太い幹。これも桜だ。僕の記憶にあるそれよりも、一回り大きい気がする。ここに立つのも考えてみれば一三年ぶりで、ソラちゃんは何と一五年ぶりだという。ソラちゃんが淡々とした声でつぶやいた。

「久しぶりすぎるなあ」
「ここって、近所だけど案外通らないとこだよね、生活してると」
「そうそう」
「ソラちゃんは何部だった?」
「私? 帰宅部だよ。君は?」
「同じ」

 僕たちは苦笑した。お互い、中学生活にはあまり良い思い出がないらしい。僕は決して成績が悪いわけではなかったし、大学名から察するにソラちゃんの成績は抜群に良かったのだろうけれど、一言で言えばひどく窮屈な場所だった。部活動や生徒会活動や受験勉強に無邪気に打ち込める子たちのための空間。内申点稼ぎゲームのハック競争。

 ソラちゃんがおもむろに片方の手袋を外した。

「繋いでみる?」

 僕は一瞬、周囲を見回してから、ソラちゃんの手をそっと握った。何も見えなかった。ただ、ソラちゃんの手のひらのひんやりとした感触だけが印象に残った。

 それから僕たちは並んで坂を上り、丘の頂上にある大きな公園に向かった。この公園は里山を一つ丸ごと公園にしたような場所で、上の方は本当に単なる雑木林だ。その周囲にテニスコートやバスケットコートや噴水があって、ちょくちょく映画やテレビドラマやファッション写真の撮影が行なわれていた記憶がある。

 里山公園に向かう途中、僕たちは通り沿いのパン屋でクロワッサンとベーグルとコーヒーを買い、歩きながら食べた。歩道ですれ違う人たちは皆、大きなマスクを着けていた。ここは僕たちにとっては「地元」中の「地元」だから、もしかしたら僕たちを知っている人とすれ違ったかもしれない。けれど、マスクのせいで僕たちには誰が誰だかわからなかったし、僕たちは見られることを気にしなかった。

 中央に噴水のある池の前に立った僕に、ソラちゃんが尋ねる。

「ここは? 正解?」
「正解」

 僕たちのやり取りはごく短い。周囲をひっきりなしに人が通るから、それ以上詳しい話は出来ないのだ。だが、ここは間違い無くソラちゃんに口でしてもらっている時に僕が見た噴水である。噴水の脇に植えられた百日紅の花が咲いていたから、季節は夏だろう。初夏にはカモが飛んできてヒナを育てている場所だ。

 僕たちは池の隅にある四阿(あずまや)のような小さなトンネルのような、不思議な空間へと足を向けた。この中には竜の形をした青銅の彫像がある。この四阿は僕たちが中学生の頃から、中高生がこっそりイケナイことをする場所だと噂されていた。多分、この四阿(あずまや)は里山公園の中で最も性的な場所の一つだろう。もしかすると何かの手がかりが掴めるかもしれない。

 四阿の中は薄暗く、ある種の神秘的な雰囲気に満ちていた。まるでペニスのようにも見える竜の彫像の口から吐き出された水が絶え間なく池の水面に落ち、そこに反射した外の光が天井に不思議な波模様を揺らし続けている。そして、壁という壁には子供っぽい字の落書きがあった。

ラトリナリア

「ダンスがうまくできますように」
「日本代表になって最強の選手になりたいです」
「おっぱいもみもみしながらおまんこなめたい」
「SOS」
「まゆちゃんのおまんこにちんこ入れたいよ」
「ひなゆうまおしほ大好き」
「おまんこにぶちこんでみたい」
「生で中出ししたい」
「大野くんに会いたい」
「エロいことかいた人キモい」
「そこの女子高生フェラして」
「世界中のみんながしあわせでいられますように!」

 ソラちゃんがクスクス笑っている。

「男の子ってどうしてこうなの?」
「すみません。元ですけれども、男の子を代表してお詫び致します」
「ヨルダンでね、大学のラトリナリアを研究した人がいて」
「あのう、まずラトリナリアって何ですか?」
「トイレの落書きのこと」

 そんなものに、そんな格好いい名詞があったとは。

https://www.researchgate.net/publication/332643490_The_Walls_Are_Talking_Gender_Differences_in_the_Thematic_Content_of_Latrinalia_in_Jordanian_Universities

「男子トイレの落書きは性的で攻撃的で排他的なものばっかりだったけど、女子トイレの落書きは性的なものは少なくて、他者への寛容や苦しんでいる人への連帯感が強くて、前向きだったって。これ見ると、なるほどって思うよね」
「申し訳ございません……」
「君もこういうの書いてたの?」
「書かなかった。僕の家は逆方向だったから」
「でも不思議だな。みんな竜の前では本音を出すんだろうか。ここがこんな空間になっているってことが面白いよ。神社に絵馬を奉納するみたいなものかもね。この子たちも、ここに何かを吐き出しに来たんだろうな」

 指先で落書きを撫でていたソラちゃんが、ふと、いたずらっぽい目つきでこちらを見た。

「ねえ、私たちも奉納して行こうか」
「落書き?」
「それは犯罪だよ。良いからこっちにおいで」

 僕は次に何が起こるのかを予測出来た。だから抗おうと思えば抗えたのだけれど、僕は黙ってソラちゃんの前に立った。ソラちゃんは僕の両肩に手をかけると、背伸びをしながら目をつぶった。それから数秒間、僕たちの唇はぴったりと密着していた。

 四阿を出た僕たちは、近所のショッピングセンターに寄って僕の替えの下着を買ってから、更に公園の奥へと入って行った。先程のキスでついに僕のものは限界になり、先端から滲み出たものが下着を濡らしていたのだ。

 公園をぐるりと回って行くと、再びざわりと何かを感じる場所に出た。里山の幾つかある谷戸の一つで、かつてここにはフィールド・アスレチックのようなものがあったはずだけれど、今はどこを探しても見当たらない。古くなったから撤去されたのだろうか。

 地面は草に覆われ、左右の斜面からは葉を落とした木々がせり出していて、まるでこの空間が植物に守られているように見えた。ふと僕は、柔らかな陰毛に包まれたソラちゃんの鼠径部を思い出した。

 谷戸の中央には大きな杉の木がそびえ立っていた。僕は深呼吸をしてからソラちゃんと手を繋いだ。膝立ちしたソラちゃんに後ろから挿入しておっぱいを触っているイメージが浮かんだ。それをソラちゃんに話すと、ソラちゃんはまたしてもクスクスと笑った。

「ね、あそこ見てごらん」

 ソラちゃんは谷戸の真向かいに見えている大きなマンションを指差した。

「あそこ、私の実家。ここも見ようと思えば見えるはずだよ」
「見えてないことを祈りたい」
「そう? 私は平気だけど。私が君としてるのは事実なんだしね。あと、この杉の木。なんか、固くなった君のものを思い出すな、そそり立ってる感じが。神々しいよね。こんなものが私の中に入ってたのか」

 ソラちゃんの言葉はどこまでも透明で、何のいやらしさも感じなかった。大地に降り注いだ雨水が、ただ大地の形に沿って流れているような、そんな言葉に思えた。

天谷戸川

 僕たちは里山公園を後にして、次の目的地に向かった。中学校を挟んで反対側、少し西に行った辺りにある谷だ。僕たちが住んでいたのは丘の上を削り、その土で谷を埋めて作られた街なのだけれど、街にならなかった場所には今も谷が残り、昔ながらの山里の風景が残っている。谷底を小川が流れ、その周囲には棚田や段々畑が連なり、ところどころに古民家が点在する風景だ。僕たちが通っていた中学校の西の谷は「天谷戸(そらやと)」というかなり大きな谷で、昔は時代劇の撮影にもよく使われたという。僕の父方の実家も、この谷にあるちょっとした古民家だ。

 中学校の前を過ぎ、一度の青信号では渡りきれないくらいに大きな道路を越え、市の体育館の横を通って歩いて行くと、やがて前の方に大きな橋が見えてきた。天谷戸(そらやと)大橋という。谷を丸ごと跨ぎ越すようにしてかかっている橋で、よく大きな望遠レンズを背負ったおじさんが歩き回っている。鳥を撮っているらしい。

 僕たちは天谷戸大橋の上で立ち止まり、谷を見下ろした。谷底を流れているのは天谷戸川という小さな川である。初夏にはホタルが飛び回る綺麗な流れで、この橋から少し南に行ったところで坂浜川に流れ込んで終わっている。

 天谷戸川の左岸には小さな棚田が連なっていて、今でも秋になると市役所の隣のJAにここで取れた新米が少しだけ並ぶ。僕たちの中学校は当時ここの棚田を借りて米を作っていたけれど、今はどうだろうか。

 ソラちゃんが小声で歌っている。どこかで聞いた歌なのだが、思い出せない。

 泣かないで歌っておくれ 誰もが忘れた夢
 はるかアジアのこの丘で 涙よ星になれ
 やさしく笑っておくれ この世の悲しい嘘も
 遠いアジアのこの街で 願いよ光になれ

「アジアのこの街で」作詞/紅龍 作曲/猪野陽子
(一九九四 ソニー・ミュージック)

「それ、何だっけ? アニソンだよね」
「アニソンと言えばアニソンだし、違うと言えば違う。スタジオジブリの「平成狸合戦ぽんぽこ」の愛のテーマっていう名目で、プロモーションにだけ使われた歌だよ。映画では使われてないの」
「あれ? 映画のエンディングで流れたのは?」

「同じバンドの別の曲だよ。これでしょ」

いつでも誰かが きっとそばにいる
思い出しておくれ すてきなその名を
心がふさいで 何も見えない夜
きっときっと誰かが いつもそばにいる

「いつでも誰かが」作詞・作曲/紅龍
(一九九三 ソニー・ミュージック)


「それだ!」
「これもいい曲だけど、私はさっきの曲の方が好きだな。この街の歌って感じで」

 そう、たしかにあの映画の舞台になったのはこの街だ。でも、さっきソラちゃんが歌っていた曲は、この街というよりソラちゃんのことを歌った曲であるように思えた。

 僕たちは天谷戸大橋を渡って最初の角を左に曲がり、細く曲がりくねった道を谷底へと降りていった。竹やぶの横を抜け、大きな農家の門の前を右に折れ、果樹園の脇を進む。雑木林の中を透明な水が流れているのが見える。少し上流では水車がゆっくりと回っている。新宿から一時間もかからないところにある、隠れ里のような世界だ。

 天谷戸川にかけられた小さな橋の上で、ソラちゃんは空を見上げた。真上には天谷戸大橋の巨大な橋桁がある。太陽はちょうど橋の裏側にあって、まるで天谷戸大橋から溢れた光がこぼれ落ちてくるように見えた。

 ソラちゃんがつぶやく。

「ここ、面白いよね。同じ川の上に橋が二つ。二階建ての橋じゃなくて、二つの橋」
「住んでた時は全然思わなかったけど、ありそうでなかなかない風景だよね」
「私の天來(そら)って名前ね、お父さんとお母さんがここの風景が好きで、それで天谷戸の天の字を貰って、來(らい)って字をくっつけて「そら」にしたんだって。空から何かがやってくるみたいなイメージで」
「天使かな?」
「私が?」

 ソラちゃんが笑う。

「ま、お父さんお母さんにとっては天使だっただろうけどね。今は汚れた天使って感じ? 天使はセックスなんかしないでしょ」
「じゃあ、天女」

 羽衣を隠された天女は、その後、地上でセックスをしたはずだ。

 ソラちゃんが僕の顔を覗き込んだ。

「そろそろ天に帰って欲しい?」
「帰って欲しくない」
「大丈夫だよ。まだ帰らない。地上でやりたいことがいっぱいあるからね」

咆哮

 僕たちは天谷戸川沿いの遊歩道に入り、下流へと向かった。中学校が実習で使っていた棚田は、当時と何も変わらない佇まいでそこにあった。全部で六枚。一学年あたり二枚。ここは近所に大豪邸を構えている大地主さんの田んぼで、僕たちの中学校は無料で使わせてもらっていたらしい。

 ソラちゃんが無言で手袋を脱いだ。ここで試してみようということだろう。僕は棚田を見つめたまま、スッとその手に触れた。

 うかつだった。あまりにも。

 ソラちゃんの名前が空から降りてきた場所で、僕たちは安易に手なんか繋ぐべきじゃなかった。

 足の裏から吹き上げるマグマのような何かが僕の全身を貫き、僕のペニスは一瞬で限界まで膨張した。ソラちゃんと営んだ全てのセックスの全ての経験が土石流のように僕の頭の中に流れ込んできて、巨大な光の渦になった。その渦の中心には、正常位で右手と左手を繋ぐ僕とソラちゃんが見えた。僕は咆哮し、全力を振り絞って、ソラちゃんの左手と繋いでいた右手を振りほどいた。

 もう数秒遅れていたら、僕はその場にソラちゃんを押し倒して犯していたはずだ。近くに民家がないのは不幸中の幸いだった。あの瞬間を誰かに見られていたら、間違いなくパトカーを呼ばれていただろう。

 気がつくと、僕は冬枯れの田んぼの中に尻もちをついていた。ソラちゃんが心配そうに僕を見下ろしている。

「どうしたの? 大丈夫?」
「大丈夫ではないけど、まだ生きてるみたいだよ」

 ソラちゃんの顔に少しだけ笑いが戻った。

「立てる?」
「なんとかね」

 僕はソラちゃんに少し離れていてもらって、ゆっくりと遊歩道に戻った。それから僕は近くの公園の多目的トイレに行って、下着を交換した。ソラちゃんと繋いだ手を放す直前、僕は大量の精液を放出していたのだ。三枚パックの下着を買っておいて正解だったけれど、今日はこれで打ち止めにしておきたいと僕は心から願った。

 天谷戸川沿いの道を歩いて駅に向かいながら、ソラちゃんが遠慮がちに僕に尋ねる。

「やっぱり、ここだった?」
「ああなると疑問の余地はないね。正常位で手を繋いだ時に見えた田んぼ。でもそれだけじゃなくて、今までにしたセックスのイメージが全部押し寄せてきた」
「ごめんね。こんな大変なことになるとは思わなかった」
「あれは誰にも予想出来ないから。大丈夫」
「いや、ホーソーンの『緋文字』をすっかり忘れてたよ」
「それはどんな話?」
「不倫カップルが手を繋いだら電流みたいなのが走って、大きな流れ星が降ってくるの」
「すごい設定のファンタジーだね」
「ファンタジーとして書かれたものじゃないんだけどね」

 ソラちゃんが小さな笑顔を見せた。

「駅についたら一番高いコーヒーをおごる。ケーキもつける。本当にごめん」

 僕たちは少し離れて歩いている。二人が近づくことでまた何かが起こるのではないかという恐怖感があったからだ。僕の身体はまだソラちゃんの身体を強烈に求めていた。そしてもちろん、僕の心はソラちゃんの心を必要としていた。幸いなことに僕たちには言葉があった。だから、僕は言葉を介してソラちゃんの心に触れることが出来た。

街が見る夢

 新宿に戻る各駅停車の電車の中に、人の姿はごく少なかった。僕とソラちゃんは隣りあって座り、窓の外を流れ去る故郷を眺めていた。街も谷戸も里山も、既に冬の夜に覆われている。

 突然、ソラちゃんが僕を左の肩で軽く押した。

「ねえ、『星の時計のLIDDELL』ってマンガ、知ってる?」
「うん。もちろん知らないよ」
「だろうね。内田善美という人が描いた作品で、発表されたのは一九八二年から八三年にかけて。内田善美はこの作品を描き上げたらすぐに漫画家を引退して消息不明。もうこれ以上のものは描けないってことらしくてね」
「どんな話なの?」
「ある男の人が、何度も何度も同じ家の夢を見るの。その家の中にはリデルという女の子が住んでいて、その男の人を待っている。そういう夢。それで不思議に思って調べてみたら、その家は実在する家でね。その男の人はアメリカじゅうを探してついにその家にたどり着く。そうしたら、男の人が夢で会っていた女の子はずっと昔に死んじゃってたの。でもその家は女の子のことが忘れられなかったので、いつも女の子の夢を見ていた。男の人はその夢の中に呼ばれてた」
「家が夢を見るの?」
「そう」
「面白いアイデアだね」
「伝説的な名作だよ。私、思ったんだけど、もしかしたらさ。私たちもそれなのかなって」
「どういう意味?」
「もしかしたら、この街が私たちの夢を見ているのかもしれない」
「この街が?」
「そう。不思議といえば最初から全部不思議なんだけど、場所に限って考えてみてもさ。何でこれまで見つかった全ての場所が、同じ自治体の中にあるの? 私も君も、ここから一歩も出ずに育ったわけじゃないよね?」
「うん」
「だから、この街が私たちの夢を見てるって考えると、一つの説明にはなるんじゃないかな。説明というか、設定というかさ」
「僕たちの夢を見てるの?」
「うん」
「僕たちがセックスしてる夢?」
「そう」
「恥ずかしいな」
「そうかなあ。私は意外に悪くないかもって思うけど。だってさ、この街で生まれた子ってこれまでに何万人どころか何十万人もいるわけでしょ。その何十万の中で、二人しかいない君と私の夢を見てくれてるとしたら?」
「光栄だね」

 僕たちはお互いの顔を見て笑った。

「それにさ。この街の土から生まれた花や木や草が受粉して実をつけて、その実を食べた鳥や獣たちが交尾して繁殖する。これは自然なことだよね。そうやって生命は循環してるんだから。じゃあ、人間だけは違うのかな?」

「僕たちは避妊してるよ」
「でも、最近の私たちのセックスは、前してたのと違うことない?」

 たしかにそうだ。昔の僕たちは、自分のためにセックスをしていた。自分が満足するため。自分が快感を得るため。でも、この頃の僕たちは、むしろ相手のことを考えてセックスをしている。ソラちゃんの言葉を借りるなら、エロス。そこから何かが生まれて来るような、そんな息吹、あるいは予感を感じる。それどころか、既に僕たちのセックスからは何かが生まれ始めているようにも思う。

 でも、今すぐにそれを言葉として掴み取ってしまうべきなのか。僕もソラちゃんも、それが言葉になるべき時を静かに待っているような感じだ。まだ、少しだけ早いのかもしれない。

カテゴリーエラー

 だから、僕はさり気なく話題を戻した。

「そう言えば、さっきのマンガは最後、どうなるの?」
「男の人は家が見る夢の中に入っていって、そこで女の子と永遠に暮らす。この世からは消えちゃう」

 僕たちの現在がこの街の見ている夢の中にあるとするならば、僕はソラちゃんとこの先もセックスを続けるのか。それが永遠になるのかどうかはわからないけれど、悪くない夢だ。少なくとも僕にとっては。

「でも、仮にソラちゃんの小説ではその設定にするとしてさ、何で街は僕たちの夢を見たんだろう?」
「それはね。夢を見たかったからだよ。いや、違うかな。夢を見ずにいられなかった。そう思うな」

 各駅停車は今朝、僕たちが降りた駅に止まり、そして再び扉を閉めて動き出した。電車の窓から市役所が見えた。

「ウィキペディアで調べてごらん。ここだけ出身人物って項目が笑っちゃうくらい少ないから。すぐ隣なのに府中も調布もすごいんだよ。スクロールしないと見きれないくらい並んでる」
「ここは?」
「こんだけ」

 ソラちゃんは右手の人差し指と親指を五センチほどの幅に広げてみせた。

「私なんか、実家どこですかって聞かれても言いづらいもん。昔は言ってたんだけどさ。みんな千葉市と間違えやがるんだよ。わかるでしょ?」
「わかる」

 僕は苦笑した。一文字違いでとても有名な地名が千葉市にあるのだ。

「こないだソラちゃんの実家の方行ってきたんだよー、なんて言われて話してたら、あれ何かおかしいぞって思って。海浜公園とかヨットハーバーとか言い出して、馬鹿野郎そっちじゃねえよって。そんなのが三回あって、もう実家の話するのは止めた」

 僕は肩を震わせて笑っている。

「でも、今日思ったんだよ。この街も辛いんだろうなって。お前の気持ち、わかるよってなった。私もさ、小説ね。新人賞に何度出してもカスりもしないわけ。一次も通らない。友達に読んでもらったら、またひどい言われようでね。世界観が難しい。ソラちゃんは頭が良すぎるから普通の読者の感覚がわからない。キャラが立ってない。こんなのカテエラ扱いで下読みで落ちるよとか」
「カテエラって何?」
「カテゴリーエラー。私の書くものは恋愛小説としては熱さや甘さが足りないし、キャラ小説としては薄すぎるし、ファンタジー小説としては難しすぎるんだって。ファンタジーで新人賞を取りたいなら異世界転生かパーティー追放のシーンからスタートして、悪役令嬢と妹と幼馴染を出して、メインヒロインはツンデレの巨乳娘にして、定期的に仲間を壊滅させて、出来れば女冒険者がモンスターに強姦されるシーンも出した方が良いとかさ」

 だからソラちゃんは僕がラノベの話をするたびに怒ってたのか。

「……私、そんなの絶対に書けないよ。でも、夢くらい見たいもん。書いてる時も、応募した後も、ずっと夢を見てる。私の小説をどこかの誰かが買って、読んで、ああ良いファンタジー小説だったな、買って良かったなって思ってくれる夢。今度こそ、今度こそ、今度こそって」
「うん」
「だからこの街も夢を見た。この街で生まれ育った女の子と男の子が大都会で出会って、二人で面白いファンタジー小説を書いて、それで新人賞を取る夢。ね。一緒に頑張ろうよ」
「セックスがテーマのファンタジー小説で?」
「そう。とってもとっても大切な、セックスについてのファンタジー小説。だってこの街、ベッドタウンって呼ばれてるんだよ。寝に帰る街。この街にどれだけのベッドルームがあって、どれだけのセックスがそこで営まれてきたんだろうって今日、思ってさ。私たちもこの街のベッドルームで生まれた生命なわけでしょ。なのに、みんな大きくなったら出ていっちゃう。それで、この街のことなんか忘れちゃう。それどころか、隠す。私がこの街だったら、そりゃないよーって言いたくなる」

 ソラちゃんの大きな瞳に映り込んだ信号機の赤い光が揺れている。

 僕は出来るだけさり気なく、そっと右手を伸ばしてソラちゃんの左手に重ねた。すぐにソラちゃんの右手が僕の右手の上に置かれた。

「どう? 何か見えた?」
「ソラちゃんの夢が見えた」
「そうか。ありがとう」

 電車は多摩川を越える鉄橋に差し掛かった。


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