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賢者のセックス / 第7章 手つなぎとフィールドワーク / 彼女がセックスについてのファンタジー小説を書いていた六ヶ月の間に僕が体験したこと

市役所の方

 翌朝、僕は思い付く限りの贅沢な朝食を作った。ポリッジ、シリアル、ベーコン、目玉焼き、ベイクドビーンズ、焼きトマト、椎茸のソテー。ホワイトプディングの代わりのヴァイスブルスト。クレソン。リンゴ。アーマッドのデカフェのアールグレイ。

 全て、この家に住み始めてから憶えたものだ。去年の今頃の僕は料理なんかしない人間だった。ソーダブレッドは自分で焼いて、密かに通販で買っておいたスリップウェアに載せた。イギリス製のは手に入らなかったから、国産だけどね。

 あと少しで午前九時という頃、ソラちゃんが書斎からパジャマ姿で現れた。六日ぶりに見る姿だ。月曜から金曜まで、今週のソラちゃんは着替えてから朝食を食べていた。僕はほっとした。何かが元に戻ったのだ。全てではないにせよ、僕たちの間の何かが。

 ソラちゃんは僕の目を見て話し、笑い、そして朝食をいっぱい食べてくれた。スリップウェアに気づいたソラちゃんは大騒ぎをして、こういうのが欲しかったんだよと言ってくれた。

 朝食を終えた僕たちは家を出て大崎駅までゆっくりと歩き、山手線で新宿駅に向かった。

 新宿駅で京王線に乗り換えて準特急で調布駅まで行き、そこで各駅停車に乗り換える。僕たちが生まれ育った街に特急と準特急は止まらないのだ。多摩川を渡る橋の上から見た景色に、ふと僕は「故郷」という言葉を思い浮かべた。電車で一時間もあれば戻って来られる土地なのに。曇り空の下に広がる、特徴を欠いた街並みのベッドタウン。

 何故、僕はソラちゃんとのセックスのさなかにこの風景を見るのだろう。

 ソラちゃんと僕はエスカレーターを使わずに、階段でホームから改札へと上がった。一足先にコンコースに出た僕は、マスクの下で小さく叫んだ。

「やっぱり、ここだ」

 追いついてきたソラちゃんが僕の顔を見る。

「どうしたの? 何かわかった?」
「やっぱりここだよ。間違いない。あの……」

 僕はソラちゃんの耳に口元を寄せた。さすがにここでは口にしづらい単語だからだ。

「ディープキスしてる時に見える場所」

 ソラちゃんは黙って頷いた。

 改札を出て左に向かい、チェーン店ばかりが入った駅ビルの中を通り抜ける。ここに来るのは九ヶ月ぶりだけれど、どこにも変わった様子はない。

 僕たちはここでもエスカレーターを使わず、長い階段を下りてロータリーへと出た。二人にとっては「地元」だから、何も迷わない。淡々とコンビニの前を通り過ぎ、僕たちは市役所の方に向かった。市役所の方であって市役所ではない。僕の住民票はまだこの街に置かれたままだけれど、今日は市役所に用事はない。

 僕たちが目指しているのは、市役所の先にある神社だ。僕たちの生まれた街には、一五座の神社があった。そのうち、人がくぐれるようなサイズの鳥居がある神社は四つ。今日はまず、正常位の時に見える神社を探してみるつもりだ。

手袋

 駅から少し離れたところで、ソラちゃんはマスクを外した。ソラちゃんはマスクがあまり好きではないらしい。

 今日はとても寒いから、路上の人影はまばらだ。五歩ほど歩いてから、僕もマスクを外した。この辺は僕たちの中学校の学区ではないけれど、近所といえば近所だ。知り合いに会うかもしれない。ソラちゃんと僕が一緒に歩いているところを見られたら、どうなるのだろう。僕はソラちゃんをちらりと見た。ソラちゃんの表情からは何も読みとれなかった。

 建て売り住宅が並ぶ街の中を二人並んで歩き、僕らは小さな橋を渡った。橋の下には小川が流れている。多摩川の支流の一つで、源流から多摩川に流れ込むところまで五キロほどの小さな川である。坂浜川という。ここから少しだけ西に行った辺りにある坂浜谷戸という谷が水源で、丘と丘の間をうねうねと縫いながら流れ下り、ここから少しだけ東の住宅街の隙間で多摩川に合流する。

 僕は橋の上で何かがざわつくのを感じて立ち止まった。冷たい北風が冬枯れの桜並木を揺らしている。ソラちゃんが不思議そうな顔で僕を見た。

「どうしたの?」
「何だろう。わからないけど、何か……ここ、見たことあるかも」
「そりゃあるでしょ。地元だもん」
「そうなんだけど。今、川が増水した?」

 僕は欄干から下を覗いた。ここしばらくずっと晴れ続きだったから、川の水は少ししか無かった。水と護岸の間には枯れ草の茂み。淵になったところを数匹の大きな鯉がゆっくりと泳いでいるのが見えた。ソラちゃんが僕の隣で川を見下ろしている。

「ここ? 今まで調べた中では無かったよね」
「うん。でも、ごめん、ちょっとだけ川沿いに歩いてみて良いかな?」

 ソラちゃんは僕の目を見て、ふっと微笑んだ。

 それから僕たちは川沿いの遊歩道をゆっくりと歩いていった。大きく育ったソメイヨシノの黒い幹が曇り空の下で川にせり出している。まるでタロットの「隠者」が川を覗き込んでいるようだなと僕は考えた。

 しばらく桜の隠者たちの下を行くと、先程よりも遥かに強いざわめきが突然、僕の胸を通りぬけた。ここだ。間違いない。川を見ると、魚道というのだろうか、コンクリートで出来たジグザグのハシゴのようなものの上を、渦を巻いた川の水が流れている。

「……ここだと思う」

 ソラちゃんは渦を見つめながら首を傾げた。

「何してた時?」
「何だろう。それがわからないんだ。でも……いつだろう? はっきりとじゃないけど、ここをもっといっぱいの水が流れてるイメージがあって……あのさ」

 僕はあることを思いついていた。でも、ちょっと言い出しづらい。

 言い出しづらいのだけれど、言わないわけにもいかない。

「あの、触っても良い?」
「どこを?」

 ソラちゃんが不思議そうな顔でこちらを見た。言い方を間違えたかもしれない。

「いや、どこというか、手を握って良いかな?」

 グレーのカシミアの手袋をつけたソラちゃんの左手がスッと差し出された。

「出来れば手袋を外して……」

 ソラちゃんが怪訝な表情を浮かべつつ、左手だけ手袋を外した。僕は少しだけためらいながら、ソラちゃんの手のひらに自分の手のひらを重ねた。ベッドルームではあんなこともあんなこともあんなこともやっている二人なのに、外に出ると僕はソラちゃんの手を握ることすら躊躇してしまう。まるで初心な中学生のようだ。

児童公園

 思い切ってソラちゃんの手を握った瞬間、様々なイメージが頭の中に濁流となって流れ込んできた。頭だけではない。下腹部の芯の辺りに、突き刺さるような熱さ。性的快感。心臓が暴れているのがわかる。目を閉じてソラちゃんの手を強く握る。僕の様子がおかしいことに気づいたのか、ソラちゃんが声をかけてくれた。

「大丈夫? 何か見えるの?」
「うん……雨が降ってる。川が増水して、草がいっぱい倒れてる。桜……葉っぱが沢山」
「梅雨時かな?」
「季節まではわからないけど、春か夏だね。あと、ごめん……もう無理」

 僕はソラちゃんの手を離した。下半身に広がっていた快感がゆっくりと退いてゆく。目を開けると、ソラちゃんが心配そうに僕を見上げていた。

「どうしたの?」
「思い出した」

 僕は素早く周囲を見回して、近くに人がいないことを確かめた。

「ずっと前。多分去年の夏かな。ソラちゃんが僕の後ろから抱きついて、こう、両手を前に回して」
「ああ、あったねえ。やったやった」

 ソラちゃんが笑う。

「あの時のイメージがわーっと押し寄せてきて」
「イキそうになった?」
「うん……」
「あれは忘れてたね。そう言えばそんなのもアリなんだ。あれだけ色々リストアップしても、抜け漏れはあるってことか。でも、ごめんね。あの時は私、君をいじめながらイカすことしか考えてなかった」
「やっぱり」
「わかった?」
「なんかもう、大変だったのを思い出した」

 そうだ。あの時の僕はソラちゃんの手で散々弄ばれて、思い出したくないというか、思い出すと全身が灼けそうになるというか。最後は何か恥ずかしい言葉を言わされてから射精させてもらった記憶がある。全部まとめて永久に封印された黒歴史にしたい。

 僕たちは再び歩きだしている。ソラちゃんが魔女の微笑みを浮かべて僕の方を見た。

「今夜、試してみようか? 今度はちゃんと優しくしてあげるからさ」

 やっぱりソラちゃんは意地悪だ。僕のペニスはその言葉だけではち切れそうなほどに膨張してしまって、歩きづらいことこの上ない。

 川沿いの遊歩道から離れた僕たちは大きな道路を渡り、市役所の向かい側の住宅地に入っていった。昔はこの辺りにも梨や葡萄の畑が沢山あったけれど、僕たちが小学校を卒業した頃からどんどん農地は消えて、マンションや戸建て住宅に変わっていった。今では家と家の間に、いかにも肩身が狭いような顔つきの梨畑がぽつり、ぽつりと残っている程度だ。

 少し大きめの児童公園の前を歩いている時、突然ソラちゃんが言った。

「ここ、幼稚園の時によく遊びに来たなあ。長いお休みの時に、よく連れてきてもらって、同じクラスの子たちと遊んだ。ちょっと寄ってって良い?」

 僕たちは車止めを避けて公園の中に入った。隅にちょっとした築山のようなものがあり、木々が鬱蒼とした茂みを作っている。その近くには滑り台、砂場。少し離れたところに水飲み場とトイレ。赤いブランコ。置き忘れられた水色のスコップと黄色のバケツ。

「あ、ここかもしれない」
「ん? 何だろう?」

 ソラちゃんがスマートフォンを取り出してスプレッドシートを確認している。あそこに僕たちの、何と呼べば良いのか、その、プレイ内容って言うんでしょうか、それがズラッと並んでいるのかと思うと、これもかなり恥ずかしい。しかしソラちゃんは淡々とした表情だ。

「騎乗位?」
「……ですね」

 仰向けになった僕の上でソラちゃんがゆっくりと腰を振っている時に見えた場所だ。最初に見えたのはブランコで、子供が乗っていたと思う。ソラちゃんの動きが早くなるにつれて、そのイメージに滑り台や砂場や木々が重なっていった。

 ソラちゃんがこちらを見て右手を差し出した。

「また、繋いでみる? 手。ちょうど今、手袋外したし」
「自粛しておきます……」

 僕は慌てて両手をポケットに隠した。またソラちゃんとのセックスのイメージが湧いてきたら、本当にもう無理です。それを察したのだろう。ソラちゃんがニヤリと笑った。

 僕たちはそのまま公園の中を通り抜け、神社を目指した。

幼稚園

 僕たちが最初に訪ねた神社は、まだ辛うじて残っている果樹園に囲まれていた。天神様だ。朱色に塗られた木の鳥居。鳥居の前には押しボタン式の信号がついた小さな交差点。参道の左右には鬱蒼とした枝葉を広げる巨大な杉の木が列を作っている。案内板には「御祭神 少彦名神(スクナビコナノカミ) 菅原道真公」とあった。

「ここ?」
「……違うと思う。似てるんだけど。何かここじゃないって感じがする」
「手、繋いでみようか?」

 僕たちは手を繋いだ。胸の奥が少しだけざわりとしたけれど、坂浜川で経験したような押し寄せてくる性的イメージと快感の濁流のようなものはない。そのまま境内の中も歩いてみたけれど、あまり強い感覚は湧かなかったので、僕たちは次の神社に向かうことにした。次に向かうのは街の南側にある丘陵地帯の端の神社だ。僕たちが通った幼稚園の近くにあり、当時はよく「お散歩」に行った場所でもある。

 坂浜川沿いの遊歩道に戻った僕たちは、足早に次の神社を目指した。今日は特に寒い日で、ソラちゃんの首から上はニット帽とマフラーに埋もれて見える。やはり明日にしておけば良かったかなと思った瞬間、何かを見つけたソラちゃんが駆け出した。

「ねえ、ここ」

 ソラちゃんの指し示す先には、遊歩道から川へと下りる階段があった。中央に手すり。階段の左右には斜面になった緑地。緑地の上の方にはこんもりとした常緑樹が葉を広げている。幼稚園児の頃にしょっちゅう遊びに来ていた親水公園だ。

「ここ、斜面緑地がある」

 ソラちゃんが手袋を脱いでそっと左手を差し出す。僕は覚悟を決めて、その手を握った。ソラちゃんの左手が僕のものの上を優しく行き来するイメージが溢れ出す。僕は急いで手を離した。

「ここだ」
「左手の……」

 それ以上は言わないでソラちゃん! 近くに親子連れがいるんだから。

 こうして僕たちは幾つかの風景の地点を特定しながら、神社へと向かった。幼稚園の横を流れる用水路に沿った小径は、騎乗位で僕とソラちゃんが両手を繋いだ時に見えた場所だった。当時の担任だった先生はもう退職しているけれど、こんな話を聞いたらいったいどんな顔をするだろうか? 卒園生同士がセックスをしていると幼稚園の周りの風景を見るというのは、良い話に思えなくもないけれど。

 JRの貨物線のトンネルから汲み上げた地下水を湧き出させているという噴水は、騎乗位で僕がソラちゃんのクリトリスを触った時に見えた場所だった。ここは夏になると近所の子どもたちが水遊びのために集まるそうで、ソラちゃんも幼稚園時代によく連れてきてもらったのだという。

 ソラちゃんがつぶやいた。

「水とか子供に関係がある場所ばっかりだね」

 それは僕も気になっていた。しかも、僕だけではなくソラちゃんの記憶らしきものまで、僕は見ていたらしい。不思議だ。でも僕は、自分たちのところに訪れたこの不思議な現象を怖いとは感じなかった。

 僕たちは噴水を後にして、坂浜川沿いの遊歩道を下流へと歩いていった。押しボタン式の横断歩道で少し広い道を渡り、大手電機メーカーの工場の裏手を抜けて行くと、やがて川の右岸はこんもりと茂った木々に覆われた険しい崖地になった。僕たちは崖地と川の間に設けられた遊歩道を二人並んで歩いている。前の方には石の鳥居が見えていた。

天之御中主神

 僕は小走りに鳥居の前まで行って、辺りを見回した。ソラちゃんが少し離れた場所で叫んだ。

「どう? 当たり?」
「……ここだと思う!」

 僕がソラちゃんに正常位で挿入した時に見えていた鳥居だった。この神社の拝殿は丘の中程にあり、その奥にある御神体は小さな滝なのだという。幼稚園児の頃には毎週、ここに「お散歩」に来ていたはずだ。鳥居の左手には湧き水がある。ナントカ百名水の一つらしい。この日も湧き水の前にはポリタンクに水を溜めているおじさんがいた。

 鳥居には「水天宮」と彫られた額が掲げられている。

「水天宮?」

 素早くソラちゃんがスマートフォンで検索する。

「すいてんぐう。福岡県久留米市の水天宮を総本宮とする神社。主祭神は天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)。水と子供の守り神とされる」

「水と子供」

「そのまんまだね。私たちは天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)に呼ばれたのかな?」
「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)というのは、どんな神様なの?」

 ソラちゃんが再び検索。

「天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は日本の創世神話の冒頭に登場する神。天に関わる創造の神である高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、地に関わる創造の神である神産巣日神(カミムスビノカミ)とともに顕れ、全てを創造した天の中心の神とされる。ただしこれらの神々に関する記述は極めて少ない」
「天の中心の神様ですか」
「私は日本神話ってあまり勉強してなくて、この神様の名前は初めて見たんだけど、めちゃくちゃ偉い神様だよね。天の中心で世界を創造した神様か。創造神としては世界のあちこちの神話で出てくるタイプだね。でも世界を創っただけで、あとはほとんど仕事してない感じ?」
「『天地創造デザイン部』の神様みたいだね」
「結構こういうタイプの創造神は多いよ。創造神というか、宇宙そのものみたいなポジションだから。その神様の出現によって宇宙が成立する。エリアーデの言う聖体示現だねこれ。突然、聖なるものが出現して、そこが世界の中心座標になる。だから天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、天の中心の神様なわけだ。この神様がいらっしゃる場所が宇宙の中心ってことなんだよ。で、最初に宇宙が出来て、その次に天地か男女か光と闇かの神様が登場するのがよくあるパターンかな。ポリネシア神話だったら光と闇が二番目に来て、その次が男女。天之御中主神の次の神様は、さっき調べたのだと天地だよね。高御産巣日神と神産巣日神。男女神の伊邪那岐(イザナギ)、伊邪那美(イザナミ)はその次か」

 よくもまあ、こんな話がスラスラ出てくるものだと、いつもながらに尊敬してしまう。

 僕たちは念の為に鳥居の前で手を繋いで正常位のイメージを確認してから、水天宮にお参りをして、近くの駅の前でタクシーに乗った。

 次に目指すのは僕たちが通っていた中学校だ。

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