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―2020年 春のフクシマを訪れて― 解体が決まった伝統校と震災の教訓を後世に伝える小学校 その両方を見て思うこと

 私は今年の年明けにあるニュースを見つけた。その記事には福島県富岡町の成人式に参加をした新成人が原発事故後に使われなくなった小学校を訪問し、解体が始まる思い出の校舎と別れを惜しんでいる様子が書かれていた。

【新成人、解体の母校に別れ 原発事故被災の福島・富岡】

町教育委員会によると、事故で全町避難した富岡町には当時、小学校が2校あった。同町は2017年、一部で避難指示が解除されたが、避難先から戻らない児童が多いため、2校は中学校の校舎を利用して集約する形で18年に再開。2校舎は解体が決まった。

2020年1月12日/日本経済新聞より 

 私はこのニュースに驚いたため富岡町役場に問い合わせた。すると環境省の通達により、2020年8月末までに幼稚園1校、小学校2校、中学校1校を含む町内の学校施設の解体が決定していた。その状況に私はとても驚いた。今回の報告ではそれらについてお伝えしたい。


◉富岡町立富岡第一小学校

↓2020年5月6日筆者本人撮影

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 富岡第一小学校は明治6年、富岡第二小学校は明治34年に創立し、100年以上のあいだ世代を通じて引き継がれてきた伝統校である。その小学校が原発事故の影響により取り壊されようとしている。

富岡校の校舎と体育館、現在復旧工事を行っている第二小学校の体育館は、今後も学校施設として使用していきます。これら以外の学校施設と夜ノ森保育所・富岡幼稚園・夜ノ森幼稚園・町内の児童館は建物被害の判定が半壊であるため、本年度中に解体に着手します。 

解体が決まった学校施設

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参照:2019年12月広報とみおか

↓解体が決まった富岡町立富岡第一小学校

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↓校門の門柱が校庭に横たわっていた

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↓校舎前で線量計を取り出すと毎時0.17マイクロシーベルトを示した。これは原発事故前のおよそ3倍。

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◉富岡町立富岡幼稚園

↓富岡第一小学校のすぐ隣(北側)に建つ富岡幼稚園

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↓奥には富岡第一小学校が見える。その小学校と幼稚園が建ち並ぶこの場所は住民にとってひとつの憩いの場だったのではないだろうか

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↓園庭にはフレコンバッグが置かれていた

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↓空間放射線量を測定するモニタリングポストは毎時0.106マイクロシーベルトを表示していた

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↓園庭の木の周辺にはどんぐりが無数に落ちていた。子どもたちはこれを拾ってどんな遊びをしたのだろう

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◉富岡町立富岡第二小学校

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↓敷地内にはフレコンバッグが置かれていた

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↓解体が決まった校舎。前方のグラウンドには今後新施設が建設される。

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↓線量計を取り出すと毎時0.32マイクロシーベルトを示す。これは原発事故前のおよそ6倍

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↓南門は解体せずに残される

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↓校舎の南側にはキレイな花が咲いていた

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 2020年8月末に解体完了予定の富岡第二小学校。この跡地には様々な背景をもつ富岡町民が自由に分け隔てなく、生き生きと交流できる “トータルサポート“ と “特別養護老人ホーム“ を併設した “富岡町共生型サポート拠点“ を整備する事業計画が進められている。(共生型サポート拠点整備基本計画より)

↓グラウンドに建設予定の新施設

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◉浪江町立請戸小学校

 そして最後にこちらの小学校も見ていただきたい。ここは福島県双葉郡浪江町に建つ請戸小学校だ。ここはフリージャーナリスト・烏賀陽弘道氏がnoteに記している。今は立ち入ることが出来ない校舎内が震災当時どれほどの津波被害を受けたのかこの記事から知ることが出来る。ぜひその内容を見てほしい。

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↓2020年5月5日筆者本人撮影

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 この小学校が立地する浪江町は、2011年3月11日東日本大震災で発生した15メートルを超える津波により182人(行方不明31人を含む)が亡くなる被害を受けた。また同日に発生した原発事故により、町の全域が避難区域に指定された。そのため海から約300メートルに位置する請戸小学校は、地震と津波による被害に加え、原発事故による震災からそのままの形で残さざるをえなかった。その姿をできるだけ変えずに残し伝えるために、福島県内で初めて震災遺構として保存・活用することが検討されている。(浪江町震災遺構の保存・活用に関する提言書 より)


↓震災当時、2階の教室は行方不明者捜索のため警察官や自衛隊員の活動拠点になった。現在この建物内に立ち入ることは出来ない。

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↓津波は校舎の1階に甚大な被害をもたらした

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↓津波被害により窓枠だけではなく天井壁も消失した

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↓校舎右側の体育館は船をモチーフにした形をしている

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↓子どもたちの玄関にも津波は押し寄せた

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↓体育館入口。震災当時、天井壁が根こそぎなくなるほどの津波が押し寄せていた

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↓津波は体育館窓の上から2番目まで到達。その形跡が白い筋となって今も残っている

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↓校庭には一輪のたんぽぽが咲いていた

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ー春のフクシマを訪れてー

 今から3年前の2017年、私はインターネットの情報から初めてフクシマの現状を知りました。その状況をネットで見たときに、まるでその場所だけが目の前にある現実から抜け落ちているような違和感を感じました。しかしそれは周囲に伝えたい、知ってほしいという正義感のようなものではなく、むしろ詳しいことはよくわからないけれど、何かがおかしい…と何とも言えないぼんやりした感情でした。そこから生まれた思いが今につながっているように思います。

 今回のnoteで私は事実の元になる根拠を探しているときにひとつ気付いたことがありました。それはフクシマの被災地では今できることに取り組んでいる人がいるということです。それは前回のnoteで記した富岡ホテルで働く地元住民をはじめ、子どもたちを教育する教師や町村役場で働く人々です。その中には休日を返上して業務にあたっている人もいます。それは仕事であれば当たり前のことなのかもしれません。しかし伝わってくる情報からは見えない場所で奮闘している人がいるというのもひとつの事実なのではないかと思います。

 原発事故の被害が収束したわけではないのに、政府やマスメディアが東京五輪と関連づけて復興が進んでいるかのように見せるのは決して肯定できることではありません。しかし私は今のフクシマで過ごしている人たちがどのような思いで前に進もうとしているのか。そして震災からまもなく10年経つフクシマをどのように捉えてそこで何を想うのか。そのような人々にもう少し耳を傾けていきたいです。

ー2020年7月5日 記ー

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