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キリンジ『千年紀末に降る雪は』について 

昨年の晩夏から始まった俺のキリンジブームは勢い止まるところ知らず、Apple musicの履歴では、昨年の8月から今まで約2万分キリンジを聞いていた。一番聞いたのは『千年紀末に降る雪は』だろう。この曲はとってもイイ!

戸惑いに泣く子供らと 嘲笑う大人と

キリンジ『千年紀末に降る雪は』より

冒頭の一節。大人が嘲笑うのは戸惑いに泣く子供らのことだと読めるが「戸惑いに泣く子供らを嘲笑う大人」という風な関係を明記するのではなく「子供らと」「大人と」と並列に扱っているところが、語り手の鳥瞰するような視座を表している。

恋人はサンタクロース 意外と背は低い 悲しげな善意の使者

キリンジ『千年紀末に降る雪は』より

ユーミンの『恋人はサンタクロース』は1999年発売で、千年紀末のクリスマスで流行していたのだろう。『恋人はサンタクロース』では背の高い恋人が登場するが『千年紀末に降る雪は』では意外と背が低いらしい。現実的。
ただ、この背が低いのは誰なのかは解釈の余地が多いにある。続く「悲しげな善意の使者」というクローズアップは誰かの恋人に向けるには突飛すぎるのではないか。『千年紀末』の歌詞において最も余白があるのは、曖昧な二人称の先、それがサンタクロースを想起させるとこだと思う。

歩行者天国 そこはソリなんて無理 横切ろうとするなんて気は確かかい?

キリンジ『千年紀末に降る雪は』より

歩行者天国というワードによってそれまでの歌詞が繋がり、人々がごった返す歩行者天国で子供が戸惑い泣きそれを大人が嘲笑する、その上で『恋人はサンタクロース』が流れるクリスマスの画が完成する。そして、そのように混雑した歩行者天国をソリで横切ろうなんて無理だという現実的な指摘が行われるのだが、サンタクロースはソリで空を翔けるのであり、歩行者天国がいくら混んでいようが関係ない。

砂漠に水を撒くなんて おかしな男さ
ごらん、神々を祭りあげた歌も、貶める言葉も今は尽きた。 千年紀末の雪に独りごちた

『千年紀末に降る雪は』より

砂漠に水を撒くという行為は、空からプレゼントを届けるサンタクロースの姿に重なる。

砂漠という言葉はキリンジの歌詞にたびたび登場する。『Drifter』や『ダンボールの宮殿』あと、他にもう一つぐらいあった気がする。千年紀末の砂漠に近いのは『ダンボールの宮殿』の冒頭。

砂漠の雪なら人匙いくらで買える
祈りはとにかく高くつく 世の常さ

『ダンボールの宮殿』

砂漠は≒東京砂漠のことであり、雪や水は【祈り】を想起させる。この場合の祈りは特定の宗教性を帯びていない(少なくとも作詞者側はその点を重視していない)。祈りの有効的な部分を、宗教性から切り離して普遍的に解釈しているというのが俺の認識、あるいは希望的観測。

元はキリストの生誕祭であるということが日本ではほとんど形骸化している現状を、冷静に受け止める誰か。

飛んで最後のあたり

知らない街のホテルで静かに食事 遊ばないかと少女の娼婦が誘う 冷たい枕の裏に愛がある

『千年紀末に降る雪は』

この節はとっても小説的だ。ヘミングウェイの『雨の中の猫』とかドストエフスキーの『罪と罰』とか最近読んだのだと大江健三郎の『叫び声』とか。知らない街への逃避、少女の娼婦。


少女の娼婦という言葉は短い文章で扱うのはむずかしいとおもう。具体的に扱うなら様々なものに対して真摯じゃないといけないし、抽象的に扱う表現芸術を俺は許容できない。
 キリンジの歌詞は兄弟どちらも具体と抽象のバランス感覚が凄まじいと思う。ほんの少し具体的でも、ほんの少し抽象的でも「娼婦の少女」というワードは歪な響きを持ったと思う。
他にもそういう言葉はキリンジの楽曲にたくさん登場する。『ダンボールの宮殿』の「負け犬は路地で嘔吐」とかね。

収集つかなくなってきたので変なところで終わりにするけど、『千年紀末に降る雪は』俺の知りうる限りもっとも完成された音楽。キリンジサイコー‼️ 一日復活してくれー‼️

また気が向いたらキリンジの曲の感想書きます。




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