炉鼎(せいどれい)と双修(せくろす)
まず炉鼎(せいどれい)と双修(せくろす)の概念は、以下の通りになります。(用語まとめより引用)
双修【双修】二人の修真者が体を繋げることで霊力を二人の体で循環させる修行法。強い方が持つ純度の高い霊力を弱い方の体の中で循環させることで、相手の経脈を広げ、霊力の精製を助けると同時に、自身の霊力をも高める事ができる。
炉鼎【炉鼎】修真者と体を繋げることで相手の修行を助ける性奴隷。双修とは違い、二人の間で高められた霊力は主人側が吸い尽くしてしまうため、炉鼎にとっては有害無益なやり方である。
炉鼎(せいどれい)の方を先にご紹介してしまいましたが、炉鼎(せいどれい)は行為の対象を現す言葉なので、双修(せくろす)と並べるなら采補(さくしゅ)の方が妥当です。
双修は前の記事でもそれなりに詳しく説明しましたので、今回は双修との比較をまじえながら、采補と炉鼎を中心に説明させていただきます。
采補と双修の違いは、利益の分配形式にあります。双修は大小の差はあるにせよ、双方に利益をもたらす修行法であるに対し、采補は施術者が一方的に利益をむさぼるやり方です。そして、長期に渡って利益をむさぼられる側は、炉鼎と呼ばれます。
また双修は双方が修真者である必要がありますが、采補は修真者でない相手にも行うことは可能です。ただし、一般人を相手に采補を行う場合、何回も繰り返すほどの利益は望めないので、生命力を吸い尽くし、一回きりで相手を死に至らしめることが多い。もちろん、こういったやり方は邪道に属するものであり、詳しくは後述しますが、采補自体邪道と言えます。
采補には「采陰補陽」と「采陽補陰」があり、要するに陰気を吸い取って陽気を補うこともあれば、陽気を搾り取って陰気を補うことも可能です。陰陽や五行の属性とは関係なしに、ただ生命力や霊力を吸い取ることもできるけど、采補は特定の相手にこだわる必要はないので、炉鼎にするなら属性などの相性のいい相手や、炉鼎向きな特殊体質を持つ相手を選ぶのが普通です。もっとも、趣味を優先する者もなくはないですけど。
炉鼎は文字通り器であり、道具です。字面からして受け入れる側を指すのが自然ではあるけど、挿入側を指す用例もなくはありません。ただ挿入側が性奴隷になるケースは稀なので、あまり一般的ではありません。
また、合意のもと双方に利益をもたらす双修とは対照的に、采補は人を道具扱いし、一方的に力を吸い上げる行為であるため、あまり褒められた修行法ではありません。
ただ、炉鼎側に全く利益のないシステムかというと、必ずしもそうでもありません。
炉鼎を飼う修真者というのは、財力と武力の少なくとも片方は持っているものです。これに対し、炉鼎になる修真者というのは、十分な財力と武力を持っていないものが多い。
要するに炉鼎というのは、自由を売り渡す替わりに、安全に修行を続ける環境と修行に必要な資源を主人側に提供してもらう立場になり得るのです。
厳然な力関係が存在する以上、いつ一方的に断ち切られてもおかしくない関係ではありますが、それでも様々な事情でこれを受け入れることを選ぶ者も多い。もっとも、否応なしに炉鼎にされる者も少なくありません。そして、合意の有無に関わらず、炉鼎は軽蔑の対象となります。
采補は片方にしか利益が出ないのに、炉鼎も修行できるのか、と疑問に思われるかもしれませんが、修行法は「コレ」しかないわけじゃないので、普通に霊気を吸ったり、丹薬を呑んだりして修行すれば問題ありません。それに、主人よりあまりに修為が離れていては、采補の効率も落ちるので、使い捨てにするつもりでもなければ、普通に修行させたほうが合理的です。
また資金に困らないような後ろ盾のある修真者なら、金のコスパより時間のコスパの方が優先されるので、自分一人に資源を集中させて自力で修行するより、複数の炉鼎に資源をつぎ込んでその上前をはねた方が速いというものです。霊気を直接取り込むのは時間がかかりますし、丹薬にしても弊害がないわけじゃありませんから、通常の方法だけで修行していてはどうしても効率が頭打ちになります。
ただ采補の目的は単純にエネルギーを得るためとは限らず、傷の治療や特殊体質による恩恵、または特殊な功法の修行のためなど、効率だけでは片付けられない部分もあります。
では炉鼎を持つのは普通のことかというと、そうでもありません。まず武力か財力が必要なのは先述の通りですが、采補というのはそもそも褒められた修行法ではないので、まわりから干渉されないか、干渉されてもこれを退けられるだけの立場も必要です。つまり炉鼎を持てるのは魔道や邪道の人間か、正道の長老などの一部の権力者くらいのものです。また、正式な道侶を持つ正道修真者が炉鼎を持つケースも今のところ確認できていません。
ひとくちに正道と言っても様々な道があるわけですが、正道修真者は基本穏やかな心境を保ち、修行のことだけ考えて、自らの道を極める生き方が良しとされています。俗世に混じって人間らしい暮らしや感情を体験することが必要とされる場面もなくはありませんが、それが済んだら素早く気持ちを切り替えなければありません。そうでなくとも、執着は心魔を呼ぶので、誰かに執着するのも、恋をするのも望ましくありません。ただ、無理に抑え込むのもまた心魔を助長してしまいかねないので、自然に任せるしかありません。
さらに、修真者は「純潔」を保つことで、修行効率は多少上がりますので、よほどのことがなければ生涯独身な人も多いし、その手の経験のない人がほとんどです。おまけにここでいう「純潔」というのは男女それぞれ「元陽」と「元陰」と呼ばれ、男性の場合だと初精もNGなので、大変です。女主人公の作品はあまり読んでないので、アレ以外の縛りがあるかどうかは分かりませんが、気になる方は各自調べてみてください。
さて、初精もNGという話でしたが、修真者は身体に対する制御力が高いので、小さい時から修行している人であれば、特に不都合はないと思われます。存在は確認されていませんが、おそらくこれによって生じる不都合を、解消できる方法もあるでしょう。ちなみに、前に『一人之下』のアニメをちょっとだけ覗いてみましたけど、そこにも似たような設定がありました。
そんなわけですから、双修というのは修真者に性行為を行わせるための装置と捉えることも可能です。これがなければ性行為より元陽/元陰ボーナスを取る人のほうが多いでしょう。
さて、元陽/元陰があるとボーナスがつくわけですが、元陽/元陰が残ってる相手と交わる場合にも、大きな利益をもたらしてくれます。つまり双修も采補も初回だけとびっきり効果が高いです。これ目当てに一般人や弱い修真者を食い散らかす輩もいるわけですが、無理やり采補されたほうは何も得られないばかりか、経験値ボーナスまで失ってしまうわけですから、たまったものではありません。なので、いわゆる貞操などをさほど気にしないような修真者でも、性行為に関しては慎重になるものです。
そして、双修も采補も互いの霊力を混ぜ合わせて行うものであり、とくに双修だと場合によっては繊細で傷付きやすい精神力まで触れ合わせることもあって、実力差がありすぎる場合を除けば、よほどの緊急事態か、互いに信頼し合っていなければ、大怪我をしかねないリスクの高い行為になりますので、ただの性行為以上に慎重を要するものになります。
また、双修は2種類の霊力が混ざり合って、そのまま両者の体内に残るわけですから、その混ざり合って霊力が薄まらないうちは見る者が見れば誰かと双修を行ったことがバレてしまいます。もっとも、誰でも分かるというものではなくて、少なくとも当事者より一段階上の修為が必要と思われます。このネタはこれまで一度しか見てませんが、非常に納得のいく話なのでついでにシェアしておきます。
炉鼎と双修については以上です。
最後にこいつを見てほしい。言いたいことは分かりますね?
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