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Cocktail: シャディ・グローブ

こちらのツイートに敬意を込めて。


ふぅ。小説の第一章を読み切った私は、文庫本を閉じて息をついた。休日の午後、窓から差し込む明るい日差しが少し傾いてくる時間。私はリビングのソファに寝転がっていた。ぱらっ。頭の上の方で、ページをめくる音がする。ソファの端に深く腰掛けた彼が、膝の上に広げたハードカバーの本を読み耽っている。

彼は眉間に軽くしわを寄せ、大きな手を口元にあてて、小説の世界に集中していた。文字を追って、二つの瞳が左右に動く。アーモンド色の三白眼。白いページに反射した日差しを受けて、時々きらりと光る。どれだけ見ても見飽きることのない、大好きな瞳。

彼が本から顔を上げ、ふぅと息をつく。小説に切りがついたようだ。しばらくぼんやりと本の世界に想いを馳せていたが、私がじっと見ていることに気がついた。彼と目が合う。一秒、二秒、三秒経ってようやく
「どうした?」
と彼が言った。
「ん?好きだなぁと思って」
私が答えると、途端に彼はぎゅっと照れ笑いをする。ああ好きだなぁ、と思いながら見つめ続けていると、彼が大きな身体を丸めて、私の唇にキスを落とした。

「コーヒー、そろそろ飲む?」
私は起き上がって尋ねる。
「うん。お願いします」
「はーい」
私は立ち上がってキッチンへと向かった。コーヒー缶から豆を二杯すくい、コーヒーミルへと入れる。手動のミルをごりごりと回すと、部屋に芳ばしい香りが広がっていく。彼はその香りに微笑むと、また本の世界へと戻っていった。

コーヒーの粉を膨らませるように、熱湯をゆっくりと注ぐ。休日の午後は、二人で読書をして過ごす。途中で私がコーヒーを淹れる。同棲を始める時に決めた、私たちだけのリラックスタイム。

色違いのマグカップにコーヒーを注いで、リビングへと戻る。青色のマグカップを彼の前のテーブルに置き、黄色のマグカップを持ってソファに座る。本に集中している時は、声は掛けない。夕ご飯は何にしようかな、と考えながら、淹れたてのコーヒーを飲んだ。

「ありがとう」
彼が顔を上げて青色のマグカップに手を伸ばす。
「うん。夕ご飯、何がいい?」
「うーん、何かきみが簡単に作れるものかな。野菜炒めとか?」
そう言いながら、彼は顔をこちらに向けて私の目を見た。
「夕飯を食べたら、久しぶりに飲みに行かない?隣駅のバーなんだけど」
彼がめずらしい提案をする。
「隣駅?良いバーを見つけたの?」
「うん、そこに飲みたいカクテルがあるんだ」
彼がカクテルを飲みたがるなんて、相当にめずらしい。理由が気になったが、休日の夜に彼と二人で出掛けるのはとても魅力的に思えた。
「いいね、楽しみにしてる」
私がそう答えると、彼は満足そうに笑った。

夕ご飯を食べて、外に出る。私がドアに鍵をかけて振り返ると、彼が左手を差し出していた。その大きな手に、私の右手を滑り込ませる。夜の住宅街を、二人並んで歩いていく。

隣駅のバーに入ると、二人掛けのテーブル席に案内された。彼と向かい合って座る。お酒を飲むのは久しぶりだった。壁に掛けてあるメニューを眺めてみる。ジントニック、カシスオレンジ、この辺りは私にも分かる。シャンディガフ、モスコミュール、聞いたことはあるがどんなお酒かは分からない。ベルベットハンマー、ナップ・フラッペ、なんだか魔法の呪文のようだ。彼の飲みたいものはどれだろうか。夕ご飯の時に聞いてみたのだけれど、結局教えてくれなかった。

メニューを下の方まで読んでいくと、一つ見覚えのある名前があった。“シャディ・グローブ”。一体どこで見たんだろう、と記憶を辿ると、何年も前に読んだ本の中に出てきたことを思い出す。あれは、花言葉とカクテル言葉がテーマの小説だった。シャディ・グローブのカクテル言葉はたしか…

「いらっしゃいませ」
マスターがおしぼりを持ってやって来る。
「ありがとうございます」
と言って受け取ると、
「あのさ、」
と彼がマスターではなく私に話しかける。
「本当は、きみにプレゼントしたいカクテルがあってここに来たんだ」
「私にプレゼント?」
「そう。きみにぴったりのカクテルを見つけたから」
私の目を見て微笑む。バーの照明を受けて、彼の瞳がきらりと光った。『涼しげな瞳』シャディ・グローブのカクテル言葉が、ぱっと頭に浮かんだ。

彼はスマホを取り出すと、マスターに画面を見せて「これを彼女にお願いします」とオーダーしている。
「かしこまりました。もう一杯はどうされますか?」
「何か飲みたいものある?あ、でも僕が飲む分か。じゃあジントニックで…」
「あ、待って」
私は咄嗟に口をはさんだ。せっかくなら、私も彼にプレゼントしたい。それに、偶然思い出した『涼しげな瞳』は、私が大好きな彼の瞳にぴったりだった。
「私もあなたのカクテル選んで良い?」
尋ねると、ちょっと驚いてから
「もちろん」
と嬉しそうに彼が答える。
「あの…」
とマスターを見て、「シャディ・グローブお願いします」と耳打ちで伝える。すると、一瞬の間をおいてから
「かしこまりました」
とマスターが笑顔で一礼して去っていった。

「素敵なところだね。連れて来てくれてありがとう」
店内を眺めながら、感謝の気持ちを伝える。
「きみが気に入ってくれるお店で良かった。SNSでカクテルを見つけてからお店を探したら、ちょうど隣駅にあったんだよ」
「どんなカクテルをプレゼントしてくれるのか、楽しみ」
「僕もきみが何を選んでくれたのか楽しみだ」
そんな話をしていると、「お待たせしました」とマスターがトレーにグラスを二つ乗せてやって来た。

「シャディ・グローブでございます」
彼の前にグラスが置かれる。どんな反応をするだろうかと顔を見ると、彼は片眉をくいっと上げた。あれ、どうしてだろう、と思った瞬間
「こちらも、」
とマスターが私の前にグラスを置く。
「シャディ・グローブでございます」

レモンの皮とピンク色の花びらが乗ったカクテルが、テーブルの上に二つある。マスターは
「ごゆっくりどうぞ」
と微笑んで下がった。

「ねえ、」
数秒間の沈黙を、私が先にやぶった。
「あなたがこのカクテルを選んでくれた理由って…」
「…カクテル言葉が『涼しげな瞳』だから。きみの笑顔も、優しくてしっかりした性格も、小さくて可愛い見た目も何もかも全部愛してるけど、きみが真剣に何かを見つめるときの瞳が大好きで… だからどうしてもプレゼントしたいと思って…」
「ふふふ」と私は笑い出した。
「ありがとう。私もあなたの何もかもを愛してる」
彼の目を見つめる。
「そして、あなたの涼しげな瞳が大好き」
「ははっ」と照れ笑いをして、彼が大きな両手で顔を覆ってうつむいてしまった。
「ねえ、ちょっと、私の大好きな目を隠さないでよ」
咎めるように言うと、ちらちらと上目遣いでこちらを見ようと努力するが、なかなか目が合わない。

「乾杯、しよう」
と私が言うと、ようやく顔から手を離してグラスを掲げた。
私の瞳が彼の瞳を捕らえる。グラスを合わせると、カクテルの氷が照明を反射してきらりと光る。一口飲むと、爽やかでスッキリとした、高級なレモンを使ったレモネードのような味がした。

瞳を合わせたまま、目を細めて笑い合う。二人の瞳が照明を反射してきらりと光った。

シャディ・グローブ
〜涼しげな瞳〜

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