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Cocktail: フレンチ・コネクション

こちらのツイートに敬意を込めて。


「ヌナ知ってますか?牡蠣100グラムには、リポビタンD一本分と同じ1000ミリグラムのタウリンが含まれてるんですよ!タウリンって身体に良いって聞いたんですが、牡蠣フライの追加頼むべきですかね?」
向かいの席に座った部下が、口いっぱいに牡蠣フライを頬張りながら言う。韓国人の彼は、教育係でペアになってしばらく経った頃から、私のことを“ヌナ”と呼び始めた。彼の説明によると、韓国語で年上女性に対する呼び名らしい。
「それなら、食べ終わってからリポビタンD飲んだ方が早いんじゃない?揚げ物食べ過ぎるのは身体に良くないと思うよ」
私は塩鮭を飲み込んでから言った。金曜日の夜には似合わないかもしれないが、ここは定食屋だ。お互い一人暮らしで栄養が不足しがちだからと、金曜日の仕事終わりに和食を食べに来るのが毎週の定番になっていた。それに、華金の定食屋は空いている。

「それにしても、何でそんなに色んな豆知識を知ってるの?」
彼は「ヌナ知ってますか?」と突拍子もない豆知識を披露することがよくあった。仕事は丁寧に教えればすぐに上達するが、もともと頭の回転が早いタイプではない。それなのに、妙に博識なのがずっと気になっていた。
「あー、韓国にいる仲の良いヒョンが、何か色々知ってるんです。雑学王みたいな人で」
「ヒョン?」
「あ、“ヒョン”っていうのは“ヌナ”と同じで、韓国語で年上男性に対する呼び名です」
「へー、じゃあその“ヒョン”に教えてもらってるんだ」
彼は照れ笑いを浮かべながら得意げに頷いた。相変わらず口はもぐもぐと動いている。

「今週忙しかったけど、今日もこのあと飲みに行く?」
旺盛な食欲で食べ続ける彼を眺めながら尋ねる。以前までは定食屋だけで解散だったが、ここ最近はそのあと居酒屋に移動して飲む流れになっていた。
「行きましょうヌナ!」
答えて彼は勢いよくお茶を飲む。
「じゃあ行こうか。席が空いてる店、すぐに見つかると良いけど」

華金の居酒屋は混んでいる。三軒目でようやく空席があった。
「一週間お疲れ様」
「お疲れ様です!」
とりあえずビールで乾杯する。つきだしのツマミを食べながら半分ほど飲んだところで、また彼が唐突に言った。
「ヌナ知ってますか?コアラはユーカリに含まれる猛毒のせいで一日中寝てるんです。僕もさっき食べたツマミに何か入ってたのかも…」
え、食中毒?と焦ったが、よく見ると普段は大きくてまん丸な彼の目が瞼で半分隠れている。
「眠いなら素直に眠いって言えばいいのに。今週忙しかったから疲れてるでしょ。今日は解散ね」
コアラの豆知識もきっと“ヒョン”が教えてくれたんだろうな、と思いながらビールを飲み干す。彼は不満げだったが、反対する気力は無いようだった。

駅まで歩く。家までの電車はそれぞれ反対方向だ。改札を通ったところで
「一週間お疲れ様、また月曜日にね」
と別れを告げると、また彼が言った。
「ヌナ知ってますか?」
眠いからなのか、めずらしく言葉の歯切れが悪い。
「僕がヌナって呼ぶのは、ヌナだけなんです」
「え、どういう意味?」
「…いや、なんでもないです。おやすみなさい、また月曜日に」

 ✳︎

あの日帰宅してから私は、
『韓国語 ヌナ 意味』
で検索してみた。
『男性が、親しい年上の女性を呼ぶ言葉。家族の姉も、家族でない年上女性もヌナと呼ぶ。好意がないと使わない言葉だが、恋愛感情があるかどうかは断言できない』
確かに彼が一人っ子なのは聞いたことがあるが、私以外を“ヌナ”と呼ばないのは何故だろう。単純に私以外に親しい年上女性がいないだけだろうか。それならなぜわざわざあのタイミングで、私にああ言ったのだろう。

週末に色々と考えてしまったせいで、会社で彼と顔を合わせるのが気まずいように思えた。ところが、月曜日に会った彼は至って普通だった。そして、何事も無いまま気付けば金曜日になっていた。

いつも通り、定食屋で向かい合って和食を食べる。この一週間で彼が教えてくれた豆知識は、『ワニの脳はオレオより軽い』『喉が痛い時にマシュマロを食べると痛みが和らぐ』それに『日本の歯医者の数はコンビニの数より多い』だった。甘い物を食べ過ぎて虫歯になったんだろう。分かりやすくて微笑ましいな、と思わず笑ってしまう。

「何笑ってるんですか?」
蒸しカボチャにかぶりつきながら彼がこちらを見ている。
「いや、なんでもない」
「あ、ヌナ知ってますか?カボチャは英語でスクワッシュっていうんです。パンプキンだと思いました?パンプキンはハロウィンでよく見るオレンジ色のカボチャだけを意味するんです!」
こちらが何を考えていたのか知らないはずなのに、また豆知識が出てきた。
「それは聞いたことある気がする。それ教えたのも“ヒョン”でしょ」
あ、バレました?とでも言うように、目をまん丸に見開いた後イタズラっぽく笑う。やっぱり口はもぐもぐしている。

「今日の眠気はどう?居酒屋はなしで解散する?」
私がからかう口調で言うと、
「今週は仕事も落ち着いてたし元気ですよ!」
と少し拗ねた声で返ってきた。
「ごめんごめん、じゃあ飲み行こうか」
「それなんですけど… 今日は、居酒屋じゃなくてバーに行きませんか?」
やっと口の中のものを全て飲み込んだ彼が、心なしか小さい声で言った。
「バー?いいけど、どうしたの急に」
「…実は、もう予約してあるんです」
「えっ?」

それから私は、バーまでの道を彼にエスコートされながら歩いた。彼は落ち着いているふうを装っていたが、緊張しているのが伝わってくる。私の頭の中に、先週の「ヌナだけなんです」という言葉が浮かんで消えなくなった。

バーに着くと、奥の二人席に案内された。彼が店員と何かを話し、店員が「かしこまりました」と下がる。

金曜日の夜のはずなのに、店内に人は多くなかった。照明を絞った空間にシャンデリアの灯りだけが輝き、私が座っている椅子は高級な革張りのようだ。まともなスーツを着ていてよかった、とふと現実的なことを思う。店内の雰囲気と彼の緊張が相まって、二人は無言で時間を過ごした。

「お待たせしました。フレンチ・コネクションでございます」
テーブルに、カクテルが一つだけ置かれた。どっしりとした雰囲気のグラスに、丸くて大きな氷が一つ入っている。琥珀色の液体が、艶やかに光っている。

「ヌナ知ってますか?花に花言葉があるように、カクテルにもカクテル言葉があるんです」
テーブルの上のグラスに目線を落として、彼が言った。
「そうなんだ、知らなかった。それも教えてもらったの?」
「…まあ、カクテル言葉があるっていうのはヒョンから教えてもらいました。でも、このカクテルを選んだのは、僕です」
「このカクテル?」
「フレンチ・コネクション。カクテル言葉は、“秘めた心”です」

彼が大きく息を吸う。
「僕は、ヌナのことがずっと好きでした。でも、上司としてもとても尊敬しているし、仕事で迷惑をかけるようなことは絶対にしたくないんです」
私の目の前には、いつもの天然な部下ではなく、大人の男性の真剣な眼差しがあった。
「上司としてだけでなく、僕のヌナとして、僕とお付き合いしてもらえませんか」
声が少し震えている。
「受け入れてもらえなければ、僕がこれを飲み干して、今日のことは無かったことにして、来週からも部下として精一杯仕事を頑張ります」

溢れそうなほど大きな彼の瞳が、涙で潤んでいた。私はそっとグラスに手を伸ばす。持ち上げると、二人の間に杏の甘い香りが漂う。フルーティーでほんのりと甘い味のお酒が、ゆっくりと私の喉を潤していった。

フレンチ・コネクション
〜秘めた心〜

使わせていただいた元ネタ
牡蠣の話
コアラの話
ワニの話
マシュマロの話
歯医者の話
カボチャの話

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