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シリーズ第1作『ライブハウス殺人事件』第2話


第2話

「……あの、刑事さん?」
白岩と亀田から受け取った情報を元に僕が廊下であれこれ調査にあたっているとポーカーフェイスのリーダー『S』こと黒葉種三がドアから顔を出した。
「もうこんな時間ですし。その……」

――そろそろ帰ってはいけないでしょうか?

時刻は22時を回り、あれから4時間も経っていた。犯行の爪痕を追って齷齪していた僕たちと違い、彼らはずっと窮屈な部屋で待機させられていたのだ。体感時間は何倍にも膨れていることだろう。

開け放たれたドアの向こうでは相変わらず波良戸が泣き崩れている。黒葉は彼女に気遣うような視線を投げ、それからもう一度僕へ向き直った。皆を代表し、23歳、年長者である彼が進言してきたようだ。彼らへはまだ本件の殺人の可能性は伏せている。

「ああっと、そうだね。もう遅いし、ちょっと……上司に聞いてみるね」

視線で隣の安部警部を示すと彼は自分たちのバンド名でもあるポーカーフェイスを忘れ、目を見開いて驚愕した。当然のリアクションだろう。誰もこんな扇情的な格好の警部がいるとは思わない。

瞬きを繰り返す彼を控え室へと一旦戻らせ、僕は女帝の顔色を窺った。
「あの、警部……その、ですね……」
「嫌よ」
ぴしゃり。取り付く島もない。彼女は、その後、僕が続ける言葉を聞きたくないのだ。
「そこを、どうにか……」
僕は手を合わせ、拝むようにして頼む。
「嫌だってば」
「まだ証拠が見つかっていないんです。犯人を逮捕するどころか、今はまだこれを殺人事件だと証明することすら難しい。もう少し時間が欲しいんです。だから今日はひとまず解散を――」
「絶っ対に、嫌っ!」
叫んだかと思えば、警部はそのまま控え室に踏み込もうとした。どうやら我慢の限界だったようだ。僕はすぐさま手首を掴み、波良戸に手錠をかけに向かう女帝を廊下に引っ張り戻す。
「離してよ! 何よ! 何なのよ!」
「警部、深呼吸しましょう。深呼吸!」
「何よ、それ! 子ども扱いしないで! いい? 私には殺人だってわかってるんだから! 本当よ! これは殺人なの! あの女による殺人なのよ!」
「わかってます! ええ、それはわかっています。僕もそう思います。でも逮捕はまだです」
「何でよ! 本当なんだから! 犯人は輝美なんだから!」

控え室の内外が防音壁で遮られていることが救いだった。まるで駄々をこねる子どもだ。僕が家庭教師や塾講師として勉強を教えていた小学生にも、こういう女の子が1人いたことを思い出した。

思い通りにならないと癇癪を起こす。「そういう子は往々にして何かを恐れているんだよ」とは還暦を超えた先輩講師の言葉だ。「その恐怖を怒りで塗り潰しているんだろうね」

僕の静止を振り払おうとして警部がさらに声を荒げる。
「これは殺人事件なの! 輝美が犯人なの! 本当なの!」
「ええ、これは事件です。そして波良戸による殺人です。少なくとも僕はわかっています。証拠を揃え、みんなにもわかってもらいましょう」
「もうわかってるわ! これは事件なの! 嘘じゃないの!」
「ええ、これは事件です。殺人事件です」

一体、安部警部は何をこれほど恐れているのだろうか?

犯人を逃すこと。それがそんなに怖いのだろうか。僕はまだ、警部のことを深いところまで知らない。
「犯人はわかっているの! 輝美よ! だから捕まえるの!」
「ええ、犯人は波良戸です。でも捕まえるのは証拠が出てからにしましょう」
「犯人は輝美なのよ! 何でよ! 何で証拠が見つからないのよ! 晴明くん、ちゃんと調べてないんじゃないの! 本当に輝美を犯人だと思ってるの? ねえ、どうなのよ!」
「すいません。本当に必死に探しているんですが……」

何せ『勘』だけで殺人事件と判断しているのだ。他に手掛かりはなく、つまり取っ掛かりが掴めない。時間がかかるのも当然だった。

「でも僕はこれが事件だと思っています。波良戸による殺人事件だと。だからしっかり捜査していますよ。心配いりません。手掛かりは、そのうちきっと見つかるでしょう。それは今夜ではありませんが、しかし、そのうち――」
「今日じゃなきゃ嫌よ! 何で今日じゃないの! 私が犯人は輝美だって言ってるのに!!」
警部の声がヒステリックに裏返る。

「もう少し待ってもらえると僕は嬉しいです。警部も知っての通り、僕は心配性なんですよ。犯人を捕まえる前に万全を期したいんです」
「そんなの晴明くんの勝手じゃない! これは殺人事件なのよ! わかってるの!」
「ええ、そうです。これは殺人事件です。わかっています」

その後も彼女は「これは殺人だ」と何度も繰り返した。「犯人は輝美だ」と。「私にはわかっているのだ」と。僕は何度も彼女の言葉を肯定し、反復し、頷いてみせる。

「これは殺人なの!」
「ええ、これは殺人です」
「犯人は輝美なの!」
「ええ、犯人は波良戸です」

吹き荒れる女帝の嵐が過ぎ去るまで、心を静めて気長に待つ。なんだか少し懐かしい。塾で教えていた女の子にも、よくこうして接したものだ。

「……これは、殺人、なんだから」

肩で息をしながら、警部が物言いたげな、それでいて憎らしそうな目を向けてくる。けれど、それ以上は何も言わず、踵を返してトイレの方へと消えていった。ようやく落ち着いたようだ。最期の台詞は、発した言葉こそ先程までと同じだったけれど、トーンは普段のものに戻っていた。

……ふう、やれやれ。

僕は一人廊下で肩を竦め、それから控え室のドアを潜った。解散を待ちわびる黒葉たちにそれを伝え、こうして初日の捜査が終わった。


明けて翌日―—

「どうだ陰陽師?」

SOUND 35での捜査は依然続行中で僕もこれから現地へ向かうところだった。頬を撫でる爽籟とは裏腹、どうにも気持ちが晴れてくれない。なにかを感じ取ってか、胃もきりきりする。安部警部は自宅から現場へ直出するらしい。僕の方は陽進署で朝一の雑務――もちろん安部警部の分もあわせて2人分――をこなし、駐車場へと向かっていた。そこへ後ろから野太い声をかけられたのだ。

「……ちょっと勘弁してくださいよ。その呼び方は」
「どうしてだ? 良いコンビじゃないか? 安倍晴明――」

平安時代に希代の陰陽師と呼ばれ、未来を読めたとも いわしめた男も、よもや令和の世で、自らの名が、2人の警察官を総称するコンビ名に使われようとは思っていまい。

「いや、本当に……勘弁してくださいって」

そんな僕の様子を見て、熊のような巨漢、鈴森正太郎(すずもり しょうたろう)が大口を開けて笑った。如何にもな現場上がりの、警部補然とした警部補だ。42歳で子どもは3人。見た目通り大雑把な性格で、犯人を一睨みで竦ませる強面であるが、気さくで面倒見の良い人である。

「上手いことやってくれよ。なあ、ウラット?」

そういって再び豪快に笑う。この鈴森にはきっと悩みなどないのだろう。むしろ、そうであってほしい。ちなみに僕のことを、名字の浦戸 と かのハリウッドスターの名前をかけて『ウラット』と呼ぶのは彼だけである。

「アンジーはな、あのボン・キュッ・ボンの中に犯罪者は許さねえっていう並々ならない気迫を閉じ込めてるんだ。それがまあ、たまぁに、本当にたまぁにな? 抑えきれずに理性の外にこぼれちまって、いろいろと――ってことはある。でもな、それは正義感が強いからこそだ。お前なら、わかるだろう? なあ?」
「それは、まあ。でも外にこぼれるのは、たまにではないですよ?」
「だからお前がいるんだろうが。しっかり頼むぞ。陽進署のMRブレーキ。ウラットくんにしかアンジーちゃんのコンビは務まらねえんだからよ。さながらMR&MRS――」
「スミスじゃないですってば、僕は!」

遮るように言えば、熊のように大柄な彼がまた快活に笑う。

「そうツンツンすんなって。アンジーにはアクセルしかついていないからな。お前の苦労も、そりゃわかるってもんだ。それから適正もな。さすがは元先生様だよ」
「いや、先生って……学校のじゃなく、塾のですよ?」

鈴森警部補が僕が勤めていた有名学習塾の名前をコマーシャル調に歌う。

「いいか? アンジーはな、前に現場経験を積みに出された署でも、本庁でも、絶えず問題を起こしていた。それがここ半年は不祥事を起こさず、それどころか次々に犯人逮捕の手柄をあげている。これは一重にお前のサポートが有効であることを意味している」
「いや、鈴――」

今度は僕が言葉を遮られる方だった。突然背中が爆ぜたかと思えば、紅葉マークがつくほど勢いよく、巨大な彼の手で張られていた。そうしてまた豪快に笑うと警部補は僕を追い越し、先に自身のランボルギーニに乗り込んでいく。

「杏ちゃんによろしくな!」

言うなり彼は地鳴りのようなエンジン音を轟かせ、秋の空気を震わせては切り裂いて、瞬く間に見えなくなった。

……鈴森警部補、安部警部は今も現場では不祥事『未遂』を起こしてばかりですよ。

返そうと思った言葉が宙に浮いてしまった。冷たくも爽快な秋の空に輝く太陽を見上げ、僕は一つ、白い息を吐く。冬が近いからか、今日は一段と寒くなりそうだ。シートベルトを締め、ボタンを押し、僕は自身の軽自動車のエンジンを温める。


「さあ、行くわよ!」
SOUND 35に着いて車を降りるなり安部警部の声が後ろから飛んできた。ちょうど彼女も到着したところのようだ。振り返れば今日もまた合コンにでも臨むかのような衣服に身を包み、好戦的に滾る表情であの不遜な女帝のポーズを決めている。まさしくの仁王立ち。事務処理を済ませてきた僕と同じ時間に現れ――本来であれば先行していなければおかしいだろう――それを悪びれる様子は一切ない。
「今日こそ捕まえるわよ! 絶対に!!」
言い放つや合戦にでも臨むかのように荒々しく先陣を切っていく。女帝がこれほど犯人逮捕に躍起になるのは、本当になぜなのか。いくら正義感が強いとはいえ、いささか異常だろう。後ろに続きながら僕は内心で首をひねる。

警視への昇進の手土産に1つでも多くの成果を挙げたい。たとえばそういう気持ちであったなら僕にも理解できなくはない。鈴森のような叩き上げと違い、彼女たちキャリア組は、勤続8年目で自動的に警視に昇進する。安部警部は今年で7年目、ここらでそれに見合った手柄をもう1つ、2つ、そう考えるのは自然だろう。

けれども彼女は昇進を意識しているようには見えなかった。だからこそ謎なのだ。一体何のために、何を求め、あるいは何がしたくて。なにが安部樹里を、女帝を、突き動かしているのだろう。

――ッ!?

あれこれ物思いにふけりながら控え室のドアを開くと、そこには目の覚めるような事態が待っていた。早くも想定を上回られたカタチだ。朝イチから。

おいおい、昨日の今日だぞ? それなのに……これは……まさか?

なんと、昨夜同様、関係者全員が集められていたのだ。まるで探偵ものの「犯人はあなたです」の場面だ。それが準備されていた。事態はおそらく僕が察しているとおりだろう。それでも、一応、聞かずにはおれない。

「あの、警部? これは……一体?」
「言ったじゃない。逮捕するのよ。今日、ここで。今から」

さながら空腹の肉食獣だ。今すぐにでも獲物に飛びかからんばかり。そんな女帝の様子に僕は開いた口が塞がらない。確かにこれは殺人事件なのだろう。そして波良戸の犯行だ。けれども、ここ令和の日本では いくら犯人がわかっていようとも有罪にするには証拠が要る。つまりは それが見つかるまで、こうしたことには慎重にならなければいけないのだ。

昨夜、僕は『待ってくれ』と頼んだ。しかしそれは昨日1日だけ我慢すれば、今日はOKと言うことでは もちろんない。証拠が見つかるまで待ってくれ、そう頼んだのだ。それなのに……

後難を恐れず爛々と瞳を輝かせ、捕食者の風貌を醸す彼女とは裏腹、僕は巨大な不安に押しつぶされて小さくなる。喉の奥に石に詰めこまれたようだ。既に女帝の口端が荒ぶる正義感に歪んでいて、それも一層、僕の不安を加速させる。

……本当の背水の陣って、こういう気持ちのことなんだな。

これで何としても今日中に事件を解決せねばならなくなった。しくじれば確実に問題沙汰だ。フィクションの世界では よく『市民は警察に協力する義務がある』とか言うけれど、しかして この日本には そういった法令が定められている という事実はない。

事件発生現場は ともかくとして、それ以降にこうして一般人を呼びつけ、拘束し、あげく「お前が犯人だろう」と難癖をつけ、それで「証拠は何も見つかりませんでした」などと言う、そんな失態を晒したならば その後のことは推して知るべし。

「あの、安部警部、1つお願いがあるのですが……」
他の者に聞かれぬよう廊下に引き戻した彼女へ努めて潜めた声で懇願する。
「次からは先に証拠を抑えてから こうしたことに踏み切ってください」
無理であろうとは分かっている。毎々のことだから。しかし、それでも何度でも言わねば。これも僕の捜査における通過儀礼の1つだ。


「――安部警部、諸々言われたとおりに!」
波良戸に喰いかからんばかりの勢いで、いざ控え室に踏み込もうとする女帝を見つけ、廊下の向こうから慌ただしい足音が駆け寄ってくる。鑑識の亀田だ。後ろに白岩も続いている。彼らは昨夜同様に彼女の前に跪いた。驚いたのは、そのくたびれた姿だ。目の下に濃厚な隈を浮かべる大先輩たち。どうやら あれから ずっと寝ずに働いていたらしい。
「ありがとう。じゃあ、今日はもういいわよ」
女帝が軽く手を振ると 彼らはその疲労の色濃い中年の顔に おもちゃを買ってもらった少年のようなハツラツとした笑みを浮かべ、精神と肉体 の どうにもアンバランスな様子を浮かべた。そして再び しかと傅き、彼女の手の甲へ口付けをして去っていった。

……ここはいつから中世ヨーロッパに?

哀愁を漂わせて小さくなる2つの背は これからそのまま本日の通常勤務へ直行するはずだ。僕には到底理解できない価値観だった。彼らいわく ご褒美残業。僕の中でサービス残業の概念が覆されていく。

「それじゃあ捕まえるわよ」
「だから、それは待ってくださいって! まだ証拠がないんです!!」
僕が言うなり彼女は「また邪魔をするの」と批判的な目で睨んでくる。

薄々気づいていたけれど、やはり今回もこうなるのか……

犯人はわかっている。しかし犯人しかわからない。犯行方法も動機も一切不明で手掛かりなし。そのうえタイミリミットは本日中、いや眼前の安部樹里が暴走を始めるまで。おそらくは空腹で彼女のお腹が減り始める昼前までが勝負だろう。

デッド・オア・アライブ――逮捕か、謹慎か――

冷たいライブハウスの廊下で僕は大きく息を吐いた。時間はない。しかし焦ってもどうにもならない。隣であからさまに焦れる警部をまずは無視し、僕は努めて地に足をつけて捜査にかかる。ヒールの爪先で神経質そうな音を立てる彼女は まだ恨めしそうに僕を睨んでいる。

「何ですぐに逮捕しちゃダメなのよ。邪魔しないでよ」
「警部だってわかっているでしょう? 今はまだ罪に問えないんですよ」
「またこれなの?」 警部が吐き捨てる。
「またこれです」 僕が宥める。

理解できないと彼女が苛立つ。けれど、僕にすれば、むしろ警部の行動をこそ理解できない。

昨日の今日でなぜ逮捕に踏み切れると?
朝イチでどんな風に状況が変わっていると?
このまま手錠をかけて本当に波良戸に罪を問えると?

「犯人はわかってるんだし、必要そうな情報はここに揃えてあるんだから! これで捕まえられなかったら晴明くんのせいだからね! 私は何も嘘は吐いてないんだから!!」

抑えきれない衝動を爆発させるように一息で言い切って、女帝が下の唇を噛む。視線は僕ではなく控え室の方向へ。八つ当たりを恥じているようでも、ドアの向こうにいる波良戸を睨んでいるようでもあった。

安部警部の言う『必要そうな情報』とは2部用意された この分厚い紙の束のこと。もちろん あのベテラン2人が徹夜でまとめてくれたものだ。僕たちは、否、僕は、女帝が勘で割り出した犯人まで この玉石混交の情報を精査して辿り着かなければならない。しかも事の全容を解明するだけでなく、その仮定で動かぬ証拠まで抑えなくてはいけない。

安部樹里式は『凶器 + 犯行 ⇒ 犯人』でなく『犯人 ⇒ 凶器 + 犯行』

隣で鳴る靴音はみるみるその間隔を狭めていく。飢えた肉食獣の辛抱が切れるのは時間の問題だろう。そのうえ苦々しげに資料を眺めるその様子から彼女自身は何も掴めていないことが知れる。

僕まで焦るな。じっくりいこう。

自らに言い聞かせ、もう一度深呼吸する。そうして僕も手元の資料へと目を落とす。


ライブハウス殺人事件
そうタイトルのある表紙を1枚捲れば、続くページに目次がついていた。

僕がまず目を止めたのは『照明の操作機器について』の項だ。記された15ページまで捲ってみると、あのターンテーブルのような装置の操作方法や それが故障していなかったこと。スイッチをONにしてから照明が点灯するまでの間隔が平均0.5秒であり、都合1000回の点灯試験から それを算出していることが記されていた。また その試験の仮定で、明かりがつくまでに1秒以上かかったことは一度もなかったことも。それらが整然とまとめられている。

……ご、ご苦労様です。白岩さん、亀田さん。

あまりの資料の見事さに脱帽した。これに2人が費やした労力の大きさが窺える。ひとまず気になる項から読み込んでいくしかない。僕が次へと資料を読み進めようとしたところで、安部警部が控え室のドアを開こうとする。咄嗟に腕を掴み、僕はそれを止める。

「ちょっと、違うわよ。久井一恵(ひさい かずえ)って子に聞きたいことがあるの」
彼女は僕の眼前に資料を突きつけ、蠍の尾のように赤く尖った爪で、その一部を指し示す。18ページの最後に『当日の照明操作者 久井一恵』と記載されている。
「照明操作の、担当者?」

警部の代わりに僕が呼び出し、廊下で話を聞いてみれば 久井はポーカーフェイスの数少ない専属スタッフの1人だった。肩書きはマネージャー。今日までは まだアマチュアであるため、彼らのバンドにはスタッフが少なく、彼女は照明操作まで兼ねていた。

細かい事務作業と照明を この久井が受け持ち、そこからあぶれた力仕事と車の運転云々を同じスタッフの大矢が、そこさらにあぶれた雑務と音響操作全般を金駒勇二(かなこま ゆうじ)という男が担当しているようだ。メイクと衣装についてはメンバー個々の自前とのこと。

久井一恵、21歳。
長身短髪でスリムなジーンズにトレーナーという姿。けれど一切ボーイッシュな印象は受けない。仕草か、纏う雰囲気か、安部警部よりも女性らしい女性だ。いや、女性というより女の子だ。綺麗よりも可愛いに傾いている。つまりは安部警部が非常に嫌いなタイプだ。

「ライブの時はあなたが手動で照明を操作してたの? どうなの?」

やっぱりだ。語調が厳しい。好ましく思っていないのは明らかだった。安部警部は久井の目の前に仁王立ちし、切れ長の目を眇めて問う。いつも以上に女帝然とした高圧的な態度だった。問われた彼女は すっかり萎縮してしまい何も答えられない。僕が間に割って入り、警部の攻撃的な眼差しを背中で遮る。そして穏やかに同じ質問を投げかけた。久井が今度はゆっくりと頷く。僕の背後で安部警部がひときわ殺気立つのが分かる。

肯定。ってことは、あのとき、照明は手動だったってことか?

ああいうもの は てっきり自動なのだとばかり。もちろん ここの装置にも自動運転機能が付いている。

「なんで、わざわざ手動で?」

手動であったなら、ダイブの時、点灯のスイッチをわざと遅らせることも可能だ。鑑識の大先輩方の調査では機器に異常はないと出ている。それなのに点灯が遅れたのだ。であれば、それは『操作者がミスをした』あるいは『意図的に遅らせた』ということになる。

ステージ上から定岡が飛んだ瞬間、あえて照明をつけない。久井にはそれが出来た。しかしその場合に問題が1つある。それでは犯人が波良戸ではなくなってしまうということ。

「一瞬だけ点灯を遅らせる? ……って、えっ? そんな、そんなこと私にはできません!」

言葉の裏を理解するや久井は顔を真っ赤にして叫んだ。己が犯人だと疑われている。その恐怖を怒りに転化し、言葉を震わせる。

彼女が言うには、手動だったのは臨機応変な対応を行なうためだそうだ。彼らのパフォーマンスにはアドリブがつきもなのだから、と。

「私はやってません! 私には……そんなこと……できない」
「ああ、ごめん。違うんだよ。そういうことが可能かどうかって、それが知りたかっただけなんだ。君を疑っているわけではなくてね。本当だよ?」

確認までに尋ねただけで、これだ。しかも、こうならないよう努めて穏やかに質問したにも関わらず。間違いなく安部警部のせいだった。警部が後ろで凄んでいるから、普通に質問するだけで、必要以上に容疑をかけているように思われてしまうのだ。

「私は……やってません。私……は……」
久井がとうとう泣き出してしまった。
「ああ、本当にごめん。君を疑っているわけではないんだ。だから大丈夫だよ」
膝を折って彼女の目線まで屈み、高さを揃えて笑いかける。この半年、僕はこういう役回りばかりを担っている気がしてならない。
「私はやって……いません。本当に、私にはできないんです。そんな……」
「ああ、大丈夫。君はやっていな――」
「分かっているわよ、そんなこと!」

せっかく宥めているというのに脇から乱暴に言い放つのは、もちろん後ろにおわす暴君だ。僕の努力をないがしろにするのは本当にやめてほしい。おかげで久井が僕の胸にしがみつき、恐怖に大泣きを始めてしまった。

震わせる彼女の背をさすり、耳元でとにかく大丈夫だと囁く。同時に警部の方を見て、無言で目で抗議した。女帝はもう こめかみを痙攣させ、今にも叫びださんばかり。それを どうにか落ち着いてくれと、手の動きで伝える。

彼女は怒りに唇を震わせながら、しかしどうにか声の調子を抑えてくれる。
――犯人を捕まえたいなら、情報を得たいなら、攻撃的な態度には出ないでください。
久井を呼び出す前に刺しておいた一言が少しは効いているようだ。
「……ちょ、ちょっと一恵、あなた、本当にあの時、照明を操作してたの?」
警部が言いたいことはすぐに知れた。
「ギターを弾いてたんじゃないの? そうなんでしょ? そうだと言っちゃいなさいよ? ねえ? 早く楽になりなさい」
何という強引な尋問だ。声音こそ警部にしては控えめだったけれど、これでは完全に誘導尋問だ。どうやら安部警部は波良戸と久井が入れ替っていた線を疑っているらしい。

それであれば確かに波良戸にも犯行が可能だ。幸いにもポーカーフェイスのメンバーはステージ上では仮面をつけているので、入れ替わりも容易である。けれど、その線は難しいと僕には思える。波良戸に照明操作が可能であっても、久井に Joy の、あの素晴らしいギターの演奏を代われるとは思えないから。

「警部……そんなに急がず、ここは慎重に……」

彼女は「もう無理! 私、ぶりっこが大嫌いなの!」と、今にも破裂しそう。首に巻かれた鎖を噛み切らんとする猛獣さながらだ。ここはもう、一旦、久井を控え室へ下がらせるのが得策だろう。

「怖がらせちゃってごめんね。でも別に君を疑ったわけではないから。それは本当だ。そこは心配いらない。だからもう少し控え室で待っていてね」

僕が告げると久井は控え室のドアを潜り――はしなかった。早く行ってくれよ。面倒はゴメンなんだ。そう切に願う僕を他所に、僕の袖を掴み、彼女が何かを言いたげに目を潤ませる。

安部警部の苛立ちを横目に気にしながら、しかしそれでも捨て置けず、僕はどうしたのかと耳を傾ける。
――そんなこと私にはできません!
驚いた。定岡の動きを見て取り、一瞬、ほんの一拍だけ、わざと点灯を遅らせる。久井はそれを感傷的にできなかったと主張していたのではなかったのだ。聞いてみれば納得だった。彼女には物理的に不可能だったのだ。

照明を消したステージの状況が控え室からは見えないのだから。

言われてみれば確かにだ。マジックミラーのあちら側の明かりが消えていたのでは定岡の様子が見えるわけがなかった。
「あれ? じゃあ、いつもはどうやって照明を?」
すると久井はこう言った。

――ドラムの音にあわせて操作していました。

話を終えて彼女を控え室に戻すと、警部がすぐさま「波良戸が須藤と入れ替わったのよ!」と無茶苦茶な主張を繰り広げる。それをどうにか宥めると、今度は嫌悪の表情を浮かべ「良かったわね、可愛らしい女の子を抱きしめられて。警察官の役得かしら?」だ。

……安部警部、できれば今は余計なことで時間を費やしたくないのですが。

どうにか言葉を飲み込んで、荒れる女帝を宥め賺し、僕は次の手掛かりを探すべく再び資料に目を落とす。もちろん須藤への聞き込みも行なってみたが、残念ながらこれも決め手に欠いた。

犯人は波良戸なのだ。けれども彼女が須藤に成り代わってドラムの合図を遅らせることは不可能だ。僕がこの目で見ているのだから。あの時のドラムは筋骨隆々の大柄な男であったことを。

資料にある『ファンへの聞き込み情報』の項でも、昨夜の演奏に違和感を覚えた という証言はない。いつもと同じ声、同じ音、同じリズムであったようだ。ファン達が わずかに いつもとの違いを感じたのは『演奏の曲順』くらいのようだ。大いに盛り上がった初っ端のあれは、いつもは終盤の山で使われる曲らしい。

まあ、メジャーデビューを発表した直後の演奏だしなぁー。

一応、ファンであったという杏にも聞いてみている。すると、やはり昨夜の演奏に不審な点は感じなかったという。電話を切る間際、「それ、昨夜、他の刑事さんにも聞かれたよ。あっ、ごめん! そのことお兄ちゃんに伝えてなかったね」と告げられ、ベテラン勢の恐るべき働きに寒気すら覚えた。本当に隅々まで聞き込みを行っているのだ。帰宅後の客の1人1人にまで。

ここまでいくと亀田と白石、この2人だけの力ではないだろう。他のベテランも何人かも僕には見えないところで女帝のために骨を折っていたようだ。この安部樹里という警部は、今回、一体どれだけの者を使役させたというのか。まるで式神を操る安部晴明のごとく、だ。

「ショウちゃんも結構頑張ってくれたのねえー」

資料に目を走らせながら呟いた女帝のそれを僕は聞こえなかったことにした。黙殺だ。彼女の口から出た『ショウちゃん』なる人物が、鈴森の『正ちゃん』でないことを僕は切に願う。


半ばまで資料を読み進めたところで、気になる項が2つ出てきた。1つが『控え室の音響設備について』だ。防音の室内に聞こえる音は全部で3種類あるそうで、それを照明機器の隣の音響装置によって操作できる。

スイッチA――ホールの音
スイッチB――録音媒体の音
スイッチC――有線放送もしくはラジオの音

Aを押せばライブの音が聞こえ、Bは主にレコーディングの時に使うそう。

スイッチのBは録音した音楽を流すってことか……。

照明操作はこの控え室で行っている。部屋は防音。けれど室内に流れる音は切り替えることが可能。そしてスタジオで流れていた曲に不自然な点はなかった。

――不自然な点はなかった。それはスタジオで流れていた曲には、か!?

来た。何かが閃いたような感覚があり、僕は急いでその項を漁る。微かに見えた取っ掛かりを逃してはいけない。っと、それを敏感に察知した女帝が早くも動き出す。

「ちょっ、ま、まだです まだ! もう少し待ってくださいってば!?」

途端に燃えるような怒りの瞳が僕を穿つ。しかしそう言われても、いや そう見られても、まだなものは、まだだ。

「いつまでもたもたしてるの! 早くしてよ!!」
「いや、まだ仮説を組み立てている途中なんですよ。もう少し待っ――」
「私にも話してよ。その仮説を。ほら。早く!」

どうやら有無を言わせてはもらえなさそうだ。仁王立ち。そして腰に両手を当てて安部警部が凄んでくる。

「あらかじめ録音しておいたテンポのズレた曲を、控え室に流したのかも、と……」

いや、テンポをズラして普段通りの曲を流したのかもしれない。あたかもスタジオで演奏しているかのように見せかけ、事前に録音した同じ曲を一瞬だけ遅らせて流す。そうすれば、当然、ドラムの合図も一瞬遅れて聞こえることになり、照明の点灯も共連れで遅れることになる。

これであれば誰にでも犯行が可能だ。もちろん波良戸にも。

そうなると問題は どうやって音響を切り替えたのか。資料を読めば音響設備は遠隔では切り替えられないようだった。

「ちょっと晴明くん。あなた、大丈夫? 昨夜はライブだったのよ? それなのにCDかけてどうすんのよ。お客さんの声が入らないからすぐにバレちゃうじゃない?」
「一応それも考えました。っで、思ったんです。1つ前のライブの音を録音しておくとか、もしくはリアルタイムで録音した音を数秒遅れで流す、とか――」
聞くなり警部が再びドアノブに手をかけようとするので、僕は慌ててそれを制する。
「まだ仮説ですってば! それが犯行方法とは限らないですよ!!」
彼女は 心底 不服そうに舌打ちし、壁を蹴った。これはまずい。久井の件が影響してか、どうやら時間はそんなに残されていないようだ。

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