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シリーズ第1作『ライブハウス殺人事件』第1話


プロローグ

僕の部屋で杏(あん)が眠っている。ドラマなのか、バラエティーなのか、何某かのテレビ番組を見ている途中で眠りに落ちてしまったらしい。入浴を終え、髪を乾かし――この様子では明日の準備もばっちり済ませていることだろう――それから秋の夜長を過ごしていたようだ。

仕事を終えて帰ってきた僕は家族を起こさぬように電気を点けぬまま2階へあがった。滑るようにして己の部屋までたどり着き、努めて静かにドアノブを捻った。そして、そこで固まった。漏れ聞こえてくる学習塾のコマーシャル、そこに映されているはずの「THINKING FACE」のロゴマークよろしくの思案顔で。

主不在のはずの僕の部屋から軽快な音楽や笑い声が聞えてきたからだ。灯りまで細く廊下へ這い出してくる。一体どうしたことか。中を覗けば、これこの通り。年の離れた妹が僕のベッドで眠っており、テレビだけが起きていたというわけ。

やれやれだ。誰が見ているわけでもないけれど、僕は肩を竦ませた。これでは風邪をひいてしまうだろうに。そんな心配とは裏腹に口元が綻んでしまう。まったく妹というものは可愛いものだ。

目を上げれば部屋の中央の丸テーブルにメモが置かれていた。杏の丸い字で「明日の約束は忘れてないよね?」と書かれている。もちろん覚えている。予定は午後からで、今はまだ深夜2時。何の問題もない。眠る時間はまだたっぷりとあるのだから。


第1話

杏の顔が見えない。照明が当たっているのはステージ上だけ。その光量すら乏しいので対面する客席側は真っ暗闇だ。小さな箱に詰め込まれたティーンエイジャーの群れが、逆巻く夜の海のように影をうねらせ、地面を揺らしている。

Pokerface(ポーカーフェイス)―—会場内の月に唯一照らし出される4人組

杏から人気があるとクドい程に聞かされていた。とはいえ「インディーズのロックバンドだろう?」と僕はそう高を括っていた。しかし、どうだ。随分な盛り上がりじゃあないか。

もちろんここは40000人も収容できるナゴヤドームや豊田スタジアムとは違う。浜松アリーナの8000人にだって遠く及ばず、その40分の1も収容できれば良いところ。そんなこぢんまりとしたライブハウスだ。

けれども繰り広げられる演奏は圧巻のスケールで、僕はその想像を上回るパフォーマンスに圧倒されていた。さすがにメジャーデビューが決まったバンドだけはある。彼らは来月には大手レコード会社からデビューするそうなのだ。演奏開始前にボーカルの男が自慢気に叫んでいた。

「これがインディーズとしての最後のライブだ!!」

どうやらサプライズだったようで、それもあってのこの異様な盛り上がり。熱心なファンらの今の胸中や如何に。念願が叶った彼らへの祝福と、遠い人になってしまった寂しさが綯い交ぜになっていることだろう。そうした感情が混じり合い、せめぎ合って、この狂気じみた熱を生んでいる気がする。

そんな空間で、言うまでもなく、僕は浮いていた。

知りもしないバンドの—―しかも期せずして大きな節目となってしまったー—ライブに連れて来られた男の頭は、周囲の影の上下動に一つだけタイミングが揃わない。なまじ長身であるため余計に目立っていないかと心配になる。どうにも居心地が悪くてかなわない僕の隣で、久々の非番の兄を足代わりに引っ張り出した妹が、皆と同じリズムで小気味よく跳躍している。

最近はこういうのが流行っているんだなぁー。

多感な中学生の妹とは異なり、多忙を極める兄はただでさえ流行とは無縁だ。加えて彼女らとの間には10代と20代という年代の壁に加え、学生と社会人という大きな隔たりがある。

浦戸晴明(うらと はるあき)、25歳。

大まかに括れば僕もまだ若者の枠に入るだろう。50代や60代の瞳には同じように映るかもしれない。けれどそこには年嵩の者には分からぬ、確かな価値観の相違があった。

かくして20代を後半へと折り返している僕からすれば、ステージ上で披露される彼ら4人の音楽性や演奏技術はさておき、ライトに浮かんだ あの白い顔はどうにも理解できなかった。

アイスホッケーマスク―—それもホラー映画さながらの。

彼らは一様にそれで素顔を隠しているのだ。ギターやベースの代わりにチェーンソーでも持てば、さながら13日の金曜日だ。バンド名『ポーカーフェイス』とはよくぞ言ったもの。あれでは確かに本心を読まれる心配はない。

彼ら4人はその白い面の上にそれぞれ異なった模様を描いていた。どうやら喜怒哀楽―—JASH―—を表現しているらしい。髪型や体型から察するに楽しげにリズムを刻むドラムと哀しげに低音を響かせるベースが男で、喜々として旋律を紡ぐギターが女の子だ。そしてその3人の中央で怒れる男がシャウトしている。

それにしても、あんな格好で動きづらくないのか?

老婆心ながら僕が心配を寄せたのは、JASHの『A』こと、ボーカルの『Anger』だ。マイクを握ってステージ上を所狭しと駆け回る彼はダブついた黒のローブを引き摺っていた。死神のように頭からすっぽりと黒の一枚布に覆われていて、その白い仮面だけが闇から浮き出るようにしてライトの光を吸っている。

―—よりにもよって僕の、そのつまらない危惧が的中し、死神然とした彼が本物の死神に誘われてしまったのは 最初の曲の演奏を開始して間もなくのことだった。

妹思いの兄としてはファンである杏が悲しんでしまうではないかという心配があったし、出だしでそれなりに気に入った彼らの曲がもう聞けないのかという落胆も少なくはない。けれども 今 僕の胸中の90パーセント以上を占める思いは1つだ。

勘弁してくれよ! 今日はせっかくの非番なんだから!!


「ったく、今夜は寒いわね。あら? そのひょろっと長いシルエット、晴明くんじゃない? どうしてあなたがここにいるの? まさかお休みを返上してまで私の邪魔をしにきたのかしら?」
「警部……僕がいつ、あなたの邪魔を―—」
「薄暗いライブハウスで男が死亡。殺人ね。決まりよ」

まったくもって、いつものことだ。こうして彼女が、部下の―—特に僕の―—話を聞かないところは。自然と溜息が漏れる。それと重なるようにして彼女が一言つけ足す。

「そうであってもらわなくちゃ困るしね」
「いや、そうであってもらっちゃ困りますよ!!」

僕は盛大に2つ目の溜息を漏らした。当たり前だけれど、殺人なんて、いつ起きてもらっても困る。起こらないに越したことはない。特にそれが、僕の非番の日に、僕の目の前で、なんて絶対に。しかもそれが1ヶ月ぶりの休みともなれば尚さらに。

だから、もうほとんど諦めてはいるのだけれど、僕は最後の抵抗を試みる。

この件は このまま事故として処理を……
いや、さすがにそれは無理か?
となれば、他に方法は……

どうにか しれっと退散できないものか と画策する。しかし、そんな僕へと眼前の女帝が燃えるような眼差しを寄越す。「逃がさないわよ」と暗に牽制される。彼女はそのまま僕から視線を切らさず、立てた人差し指をくるくるっと回した。長い指の先がマニュキアで深紅に飾られていた。

「さあ、張り切っていこっか?」 

僕は今日3つ目にして最大の溜息を落とした。


安部樹里(あべ じゅり)。僕より5つ年上のジャスサー、アラウンドではなくジャストのサーティだ。見た目はそれより3つは若いだろうか。肉厚の唇に爪と同色の濃い赤を引き、線の通った鼻梁の先は高く、それを跨ぐようにして左右対称。目元の黒子だけがその例に漏れ、左にのみ配されている。エキゾチックで攻撃的な印象を受ける美人で、実際その通りのアグレッシブな女性だ。18歳までを英国で過ごしたという帰国子女でもあり、そのため英語が堪能で、そのせいか 時折 日本人離れした物言いをする。

ついたアダ名は―—アンベリーナ・ジュリー

スタイルも かのハリウッド女優顔負けで異性の目を惹くこと申し分ない。けれども その勝ち気な性格と奔放さが仇となって、人生を寄り添ってくれる東京ドーム級に心の広いブラッド・ピットには未だ巡り会えていないらしい。

そんな僕の上司は いつも 陽進(ようしん)署の―—いや、どこの署であってもなのだけれど―—警部とは思えない身なりで現場入りしてくる。今夜もあたらボディラインを強調するピタッとした白のニットに足の長さをこれ見よがしに強調する同色のミニ丈のスカート。前を全開にして羽織るコートは赤く、どこぞの夜の蝶といった出で立ちだ。まだ本格的な冬を迎える前の秋とはいえ、夜は冷える。寒くはないのだろうか。なにより これで天下のキャリア組というのだから、まったくもって信じられない。

「さあ晴明くん。さっさと私の邪魔を初めてちょうだい」

そしてこの不遜な態度だ。これこそが彼女のお馴染みだった。もはやトレードマークに等しい。両手を腰に当て、豊かな胸を突き出すようにして背を反らし、足幅を広く取る。口元には不敵な笑みを湛え、事件現場だというのにその表情はなぜか嬉しげ。剛胆でちまちましたことを嫌い、正義感が強く、直情的。その自由奔放な振る舞いと全身に漲る自信から、裏で『女帝』という二つ名でも呼ばれている。これが俺の上司、安倍警部だ。

ふうっと大きく息を吐いてから僕は己の見た今回の一件のあらましを述べる。
「それでは報告します。今回の事故―—」
「事件よ」
「……事件があったのは17時頃。こちらのライブハウス『SOUND 35』で、男性が1人死亡しました。男はポーカーフェイスというロックバンドのボーカルです。1曲目を演奏中にステージ上から客席に飛び込んだのですが、運悪くそのまま床に落ち、後頭部を強打したもよう。すぐに救急搬送されましたが、病院に着いた時には既に息を引き取っていました」
「へえ、なるほどねぇー」

滾る野性をぎゅっと閉じ込めた切れ長の目が、何かを言いたげに細められる。彼女は第一印象そのままの、本能の趣くままに捜査するタイプの警察官だ。そんな彼女がひとしきり首を左右させ、再びその強い眼差しを僕へ戻してくる。まだほとんど説明をしていない。けれど、早くも先の報告に感じるところがあったのだろうか。

「っで、彼女はどこなの? 1人でライブに来たわけではないでしょう?」
「はい? 彼女? 彼女……って? まさか恋人……という意味の?」

今ここで、その質問を? なぜ?

「……あの、残念ながら僕には、今、交際している女性はいません。こう忙しくては……異性とお近づきになる時間なんてないんですよ。だから今日は妹の付き添いで来ました」
「杏ちゃんの? そう、晴明くん、彼女いないんだ? 残念ねぇー」

欠片も残念そうに見えない。言わずもがな、安部警部はポーカーフェイスの対極に位置する人間だった。安堵したようなその心の内がハッキリと透けてみえる。「私に彼氏がいないのに、あなたに彼女がいていいわけがない」と、そんな具合に。

外見こそ色香漂う大人の女性なのに警部は時に杏よりも幼いと感じさせるところがある。その成熟した揺れる胸には、猛る獅子の心と共に、年端もいかない少女の心を詰め込んでいるのだ。それも酷く負けず嫌いな少女の心を。

「杏ちゃんはどうしたの?」
「先に帰らせましたよ、タクシーを呼んで。僕は職業上、残らないわけにはいかなかったもので。帰りが遅くなってしまう場合もありますから」

最悪を想定しつつ、最善を願う。それが僕のモットーだ。いつもならブーブーと文句を言うはずの妹も、さすがに今夜の一件は衝撃が強かったのか、大人しく帰っていった。

「なあんだ、つまんない。ちょっとぐらいお話できるかと思ったのに」
そう言い終えるや眼前の女帝が唐突に眉根の間に不快さを刻んだ。たちまちライブハウスが猛獣の檻のように感じられる。
「っで、そんなことはいいから、さっさと詳しい話を聞かせてちょうだい。晴明くん、これは殺人事件なのよ? いつまでも遊んでいないでくれるかしら?」

なんという理不尽か。恋人云々と聞いてきたのは安部警部の方なのに。さておき、悲しいかな、そんな彼女の横暴は元より、既にこれを事故でなく殺人だと受け入れてしまっている己がいる。そんな自分にこそ驚きを隠せない。まったくもって信じられなかった。改めて1時間前を振り返れば、僕の目から見た本件は紛うことなき事故なのだ。それなのに僕はもうこれが殺人であることを疑っていない。己の目よりも安部警部の言葉を信じているということになるのか。そんな自分に軽い目眩を覚える。


あらためて今回の事件のあらましをまとめれば、僕の目から見た限りでは、後述のとおりである。

Anger と呼ばれるポーカーフェイスのボーカル。本名を定岡高男(さだおか たかお)という。19歳。死神めいた黒のローブに隠れていた身体は、歌い手にしては少しばかり腹まわりが弛んでいた。

そんな彼がライブ会場で、僕の目の前で、死亡した。

死因となった客席へ飛び込むパフォーマンスはこのバンドのお約束だったようで、ファンも重々承知していた。あの曲の、あのタイミングで、Anger がダイブする、と。

それではこれまで幾度となく披露してきたパフォーマンスが、今回に限って、なぜ失敗したのか。

もちろん食欲の秋によって膨張したボーカルの体型が災いしたものではない。居合わせた僕が見たところ、ウエディングドレスよろしく引き摺った黒の衣装が足に絡んだか、あるいは月明かりのように心許ない老朽化した照明の不調のせいか。そのどちらかだった。

あの時、定岡はいつものように歌いながらステージを後方へ下がっていった。そして、いつものように照明が消えたことを確認するや暗闇を一気に駆け抜けた。十分に取った助走からムササビのように客席へ飛ぶ。その背をJASHの『H』こと、須藤一直(すどう かずなお)のドラムが追いかける。曲にあわせて一際大きな一発が鳴る。

ドンッ―—っと、そこで照明が瞬いて宙で大の字を描く Anger の姿が照らし出される……はずだった。

定岡が飛び出すタイミングが早すぎたのか、あるいは照明の点灯が遅れたようだ。それはほんの一拍のズレだったのかもしれない。しかしそれでも本日再点灯した明かりが照らし出したのは、客席の床に仰向けに倒れた死神の姿だった。定岡は最期まで変わらず憤怒の面をつけたまま、夢を掴もうと腕を伸ばしていた。天を掴まんとするその左手が痙攣している様を僕も絶句しながらこの目で見た。

不足の事態に真っ先に動いたのはメンバーの紅一点 Joy だった。彼女の後ろに、すぐさま Sadness が続いた。波良戸輝美(はらと てるみ)と黒葉種三(くろば たねぞう)。2人は150センチはあろう高台から飛び降り、呆然とするファンの波を掻き分けて定岡へ駆け寄った。そして大慌てで彼を抱えてステージ裏へ消えていった。取り乱した彼らが落とした2つの面がフロアに転がり、月明かりにその表情を不気味に浮かべていた。ドラムの須藤は1人だけステージに残り、仮面を外して Happiness とは対照的な沈痛な面持ちでファンの応対にあたった。


「―—うん。間違いなく、他殺ね」

今の説明のどこに事件性があったのか。そうは思うのだけれど、安部警部が殺人と感じたのなら本件は殺人だ。惜しむらくは自信溢れる彼女の台詞にはいつも根拠が伴っていないこと。

もしかすると女帝の中では確たる何かがあるのかもしれない。けれども、それだけでは事件解決には至れない。端的に言えば彼女のそれは勘なのだ。一切の裏付けのない、純度100パーセント、混じり気なしの勘。残念ながら我が国では勘だけで犯人を有罪とすることはできない。

「それで警部……犯人は?」
「輝美よ」
彼女は迷うことなく言い切った。

―—波良戸輝美。

17歳の女性ギタリスト。あの小柄な女の子が犯人とは にわかに信じられない。しかし、それが事実なのだ。安部樹里が言うのだから犯人は波良戸で決まりだ。

捜査とは確たる証拠を積み上げていくこと。

そう教わってきた僕としては、これを受け入れられるようになるまで随分な時間を要した。けれど今ではもう理解している。どうにか許容できている。三流占い師のインチキな予言とは違うのだ。警部の勘は絶対に外れない。

しかし、まさか波良戸だって? 一体どうやって犯行を? それに動機は?

現場にいた僕にして事故にしか思えない今回の一件、中でも波良戸の犯行は最も考えにくい線だった。なぜなら彼女は、あの時、ステージの上にいたのだから。しかも定岡のダイブの瞬間、その女性ギタリストは、舞台の端で演奏していた。中央のボーカルとは一番距離があった。

「あの……」(本当に波良戸なんですか?)

ついつい挟もうとした疑問を飲み込んだ。視線の先で清々しいまでに凜と立つ女帝の姿に今回もまた僕の中の何かがひれ伏した瞬間だった。

「わかりました。波良戸……ですね? その線で追ってみます」

犯人はわかった。しかし逆に言えば、犯人しかわからない。

波良戸がもちいた凶器も、その殺害方法も、動機も、その他すべてが一切不明。一体どこにこんな珍妙な捜査があろうか。毎度のことながら僕はこの異質な状況に顔を顰める。

「それじゃあ捕まえよっか?」
「えっ? 待ってくださいよ! ちょっ、警部!!」
「なによ?」
「まだ証拠がないじゃないですか!?」

止めるなり彼女が「邪魔しないでよ」と睨んできた。その斬りつけんばかりの眼光に思わず仰け反りそうなる。それをどうにか踏み留まる。女帝の視線を真っ向から受け止める。

僕としては、ここは絶対に引くわけにはいかない。ここで僕が折れれば大問題に発展することは過去経験から身に染みてわかっているのだ。視線を外さず無言のまま目顔で主張する。絶対にダメだ、と。僕の断固とした態度に警部が小さく舌打ちする。

「……証拠なんて後から捏造すればいいじゃない? 犯人はわかっているのよ?」
「ええ、犯人はわかりました。しかし、犯人しかわかっていません。証拠がなければダメです」

彼女の中で逡巡があった。その大きな瞳が左右に揺れた。それから一拍おいて僕の肩がばしっと叩かれた。今度は警部の方が目顔で「何で捕まえたらダメなのよ」と訴えてくる。けれど彼女にも分かっているのだ。今はまだ逮捕できないと。だから唇を噛んでいる。

「さあ、考えましょう。波良戸の殺害方法やその動機を……」
女帝が再び舌打ちし、僕にくるりと背を向けると、尖った爪先をカツカツと鳴らして歩き出した。
「っとにもう、面倒ね! そこは晴明くんがどうにかして! 早くしてよね!!」


古びたライブハウスの暗い廊下で僕は大きく息を吐いた。

ここから、犯人から、『証拠』と『殺害方法』を手繰り寄せなければいけない。しかもいつもどおり悠長なことは言っていられない。捜査に何日もかけられるほどの時間はないのだ。眼前の女帝は気が短いから。

「すみません、警部……波良戸が犯人だと思った理由はなんですか?」
「勘よ」

それをさも当然と言い切る。僕にもわかってはいた。けれども念のために確かめてみたのだ。これはもう捜査にかかる前の通過儀式のようなものだ。今回も予想通りの答え、それ以上でもそれ以下でもない。つまりは他に手掛かりはなかった。

それにしても理由を一切抜きにして犯人が分かるとは何という特異な才能か。

—―don't think feel(考えるな、感じろ)

彼女はそれを地で行く。

警察官としての勘か。はたまた野生の勘か。あるいは女性としてのそれか。どれであっても決まって困ることになる。絶対に当たるとはいえ、安部警部の勘は、他の何か—―例えば殺害方法やその動機など—―に結びつくことがないのだ。

犯人は波良戸輝美である。

女帝の勘からは、それ以上には決して広がらない。可能であれば、その凄まじいまでの鋭さの勘で、凶器の在処や殺害方法まで突き止めてくれると助かるのだけれど。

—―無罪と無実は違う。

彼女と捜査するようになって僕が嫌というほど感じたことだ。『無罪』とはあくまで罪が証明されなかっただけであり、『無実』すなわち犯罪の事実がなかったということではない。

令和の世では神様でない人間が同じ人間に罪を問うにあたっては確たる証拠が必要とされるのだ。だから僕らは躍起になって現場検証をし、アリバイを調査し、科学分析を行なう。そうまでしなければならない。しかるにそれは証拠がなければ罪には問えない、ということの裏付けだった。

証拠がなければ逮捕はできない。

否、逮捕しても無罪とされてしまう。

それがそれほど黒に近い灰色であったとしても。犯人は無実にはならないが無罪にはなるのだ。しかもマスコミが大仰に『無罪』を『冤罪』と報じる世とあっては尚さら慎重にならざるを得ない。

だから、今、状況証拠だけで逮捕に踏み切るなんてことは、テレビドラマの世界ですら許されない。99パーセントの確率で犯人だと知れている者を前にしても、僕たちは証拠がない限り手をこまねく。

そんな世にあって裏付けの『う』すら用意せず、本人を前に堂々と犯人だと言ってのける。己の勘一つで果敢に手錠をかけにいく。そんな警部はまったくもって希有な存在だった。もちろんその結果、犯人を罪に問えないことも多く、それが度々問題になってもいる。

派手な外見と奔放な性格も悪影響して、こう見えて安部樹里は何度も屈辱的な辛酸を舐めさせられているのだ。ある時、偶然、打ちひしがれる彼女の姿を目に留めてしまい、僕はそこで始めて無罪と無実の違い、その苦い味を知ったのだ。それ以降ひょんなことからコンビを組むことになり、さらにその苦さを思い知らされているというわけである。

しかし驚くべきは彼女だった。そんな目にあって、尚、めげない。変わらない。曲げない。折れない。その胆力に僕は少なからず尊敬の念を抱いている。真似のできない無謀さは時に僕の目に眩しく映る。

「ちょっと晴明くん! 早く何か見つけてよ!」

これでもう少しだけ性格が軟化すれば、より尊敬できるのだけれど……


なにはともあれ事情を聞いてみようとロックバンドの控え室へ入る。まずは僕だけで。「私も行く」と喚く安部警部には廊下で待機願って。

あえて言うまでもないけれど警部はせっかちで堪え性がない。先程もずっと尖ったヒールの爪先で苛々と気忙しい音を立てていた。特攻型の直情型。犯人を前にして手錠をかけずにはいられまい。ゆえに波良戸と対面させては間違いなく問題を起こす。

証拠がない中での早計な逮捕は、無罪—―加えてトラブル—―を生む。散々の不名誉な経験から彼女もそれを分かってはいる。しかしそれでも沸き上がる正義感を抑えることができず、問題を起こしてしまうのだ。最近は僕が口うるさく止めるため、どうにか大きな問題だけは避けられているけれど。

安部警部にとっては、証拠を手にする前に犯人が分かるという現象は、空腹時にご馳走を並べられ、お預けを喰らうに等しいのかもしれない。御せない正義感に翻弄され、己が苛立ちに己が身を焼かれる彼女を見ると、誰より早く犯人がわかってしまうその力が彼女に与えられてしまったことが不憫にさえ思えてくる。

そんな警部をどうにか廊下に留めて部屋に入ると、そこには仲間を失い、憔悴した若者たちの姿があった。

波良戸はソファーに崩れて泣きじゃくっており、それをスタッフの1人—―どう見ても交際している彼氏—―大矢満家(おおや みちいえ)が肩を抱いて慰めている。リーダーの黒葉は腕を組んだまま壁にもたれて立ち、須藤はパイプ椅子に座って足下の一点をじっと睨んでいた。他の者も何かに寄りかかるか地面に座り込み、一様に押し黙っていた。

……波良戸、あの子が犯人か。

殺人犯の姿を目の端に捕らえながら僕は静かに控え室を一回りする。部屋は狭いながらも録音スタジオまで兼ねていた。防音仕様でライブを行うホールへはもちろん廊下にだって音漏れしない。

照明操作の類いもこの部屋で行うようだ。ライブホールと接する西側の壁は署の取り調べ室のように一部がマジックミラーだった。向こうからこちらは覗けないが、この控え室からホールは見えた。

そのミラー部分のガラスの前に壁に沿うようにして巨大な照明機器が置かれている。DJが使うターンテーブルの兄貴分のような装置だ。音響操作の機器も同じような形で隣に仲良く肩を並べている。この兄弟のような2つの装置で控え室のかなりのスペースが占められている。

そして対面の東側には楽器が乱雑に積まれていた。その山が狭い室内をこれまた一層圧迫している。リサイクル品置き場で、不要となった楽器を自由に置いていって良いのだそうだ。オーナーの伊西泰司(いさい たいじ)が月に1度回収しては業者に持っていくのだという。

見れば古ぼけた壊れたギターもあれば、まだ使えそうな綺麗で真新しいベースもある。明らかに壊れているもの、そうでないもの。それらが入り混じっていた。新しそうでありながら、明らかに壊れている楽器まで捨てられており、赤や黒、色も取り取りだ。

本日の主役たちの楽器がどこかといえば、それは隣の鑑識送り。黒葉と須藤の2人からは予備として持ち込んだ楽器まで預からせてもらっている。他にも彼らの所持品は片っ端からだ。気が引けるけれど、今のところ実質的な手掛かりが一つもないのだから仕方がない。まずは同じバンドのメンバーから。次いで関係者の持ち物を虱潰しに洗い、それでも波良戸の犯行を示すものが出てこなければ、この室内の何から何まで丸洗いだ。場合によっては、彼女の自宅も漁らなければならない。

ふっと溜め息をひとつ。今回は事件の手掛かりを掴むまで何日かかるだろう。それまで、あの女帝の我慢は持つだろうか。鬱々とした気持ちで捜査を始めるなり、外側から僅かにドアが開かれ、掠れた声が滑り込んでくる。

「浦戸巡査、こちらへ」

廊下へ出てみれば2人の男、白岩虎雄(しらいわ とらお)と亀田敏玄(かめだ としはる)が女帝の美脚を前に跪いていた。どちらも鑑識の男で、前者は45歳、後者は42歳だ。

僕が片っ端からむやみやたらに押収した品々について、ホールの一角を間借りした臨時の鑑識所で、指紋採取やら何やらと科学的な観点から調査をしてくれている。両名ともベテランで、加えて非常に優秀だ。警察内でも、その名が大いに知られているくらいに。

そんな両名だけれど、安部警部にはこうして手駒のように扱われている。どちらもそれを喜んでいる節があって、僕にはそれがまるきり理解できない。他にも同様に骨抜きにされているベテランが数名いると聞く。一体何が悲しくて、と そう思うのだけれど、これもいわゆる年代の壁というものなのかもしれない。大先輩たちの価値観は僕のそれとは大きな隔たりがあるようだ。

「もう終わったんだって。相変わらず良い仕事するわよね、虎雄と敏玄は」

安部警部はそれを僕へ向かって言う。こちらは 当然 言葉を返すことができない。しがない巡査の僕が彼らのようなベテランに一体なにを言えようか。誉めることすら失礼に値しよう。そんな僕の困惑を余所にベテラン勢が各々勝手に警部の賞賛に応じていく。

「安部警部のためであれば、これくらいどうということはありません」
「私も、お安いご用にござります」

えーっと、ここは一体……何時代なのでしょう?

「そう、ありがとう。じゃあ、あとの諸々のこともよろしく頼むわね」
「御意っ!」

返答は2人同時だった。白岩も亀田も競うようにして立ち上がり、素早い身のこなしで再びホールへ駆け戻っていく。鋭い目で、一瞬、僕を射竦めてから。彼らの睨むような視線からは、親の敵を見るような、否、娘の彼氏を見るような、否、それ以上の厳しさを宿しており、目顔で「お前も警部のためにもっと働けよ」と、そう迫られているような気がした。

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