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竹芝とヴァンテアン

 近年ではソフトバンクの本社も汐留から移転、WBSなどでも取り上げられるなど、経済的な方面からも関心の集まるこの地域。東京諸島の玄関口にして、ヴァンテアン号を語る上でも欠かすことのできない街、それが竹芝です。今回は、ヴァンテアンが見守り続けた、浮き沈みつつも成長を続ける竹芝の街について見ていきます。竹芝ふ頭の港湾施設にフォーカスを当てた『ヴァンテアン号の母港:竹芝ふ頭』も投稿しているのでこちらと併せてお楽しみください。


竹芝の概要

 竹芝は世界貿易センタービルや文化放送本局が置かれる浜松町に隣接し、芝離宮や浜離宮、旧築地市場、大門、芝公園、東京タワーといった著名なランドマークに囲まれています。北側に隅田川の河口が見られることは比較的知られていますが、南側にある古川(天現寺橋より渋谷川)の河口が渋谷から流れていることはあまり知られていないのではないでしょうか。
 しばしば千代田区の竹橋と混同されることもありますが、竹芝という地名は駅名やターミナル名にもなっており、一定の知名度があります。ですが、客船ターミナルの住所を見てみると「海岸一丁目」という町域で、竹芝という地名は見当たりません。それもそのはず、現在の港区には竹芝という町域は存在しないためです。竹芝という地名は1927年の隅田川河口域埋め立てによってできた埋立地に「竹芝町」という町名がつけられたことが始まりです。誕生からもうじき100年という比較的新しい地名ですが、その由来は更級日記に登場する竹芝伝説から取られていると言われています。


竹芝客船ターミナル

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インターコンチネンタルホテル(第三期区画)

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隅田川の河口

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竹芝へ注ぐ渋谷川の終点付近

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世界貿易センタービル

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東京タワー

 竹芝伝説は、竹芝寺という寺の由来を地元の男から聞くという、伝聞調の物語です。武蔵国の竹芝の坂に住んでいたある男が京に召し上げられ、火焼屋の衛士として仕える先で故郷を偲んでいると、それを聞いていた姫宮がその故郷を見てみたいと申し出、誘拐同然に故郷武蔵国に二人で戻ります。姫宮はその地を大層気に入り、連れ出した男の罪を放免させ、永く暮らしました。姫が亡くなると、住んでいた家を寺にして、竹芝寺としたという話です。衛士の男が住んでいた竹芝の坂、竹芝寺の場所は諸説ありますが、現在の聖坂、済海寺の辺りであるとも言われています。芝区(港区の前身)にまつわる伝説ということで、そこから取られたのが竹芝という地名というわけです。また旧区名でもある芝という地名はその名の通り芝が生い茂っていたことに由来するので、竹芝伝説に登場する竹芝の坂が実際に聖坂を指しているのだとしたら、芝に加えて竹も生えていたのかもしれませんね。
 竹芝町は1936年に浜崎町と合併して消滅しますが、その少し前の1933年に竹芝桟橋が開港したことから、桟橋の名前を通じて今でも竹芝という呼び名が随所に用いられています。
 脱線に脱線を重ねるようですが、ヴァンテアンの写真業務を請け負っていた写真会社の本社は市原市更級、これまた更級日記に関係のある土地にあります。ヴァンテアンと更級日記には不思議な縁を感じずにいられません。

竹芝開発の黎明

 当時はまだ竹芝客船ターミナルはおろかレインボーブリッジすら完成しておらず、フジテレビは河田町、日本テレビも麹町という時代。今の臨海副都心の姿とはまるで違うものでした。竹芝、ひいては東京港において、平成という時代は発展のフェーズに当たります。港としては他の港湾都市のサブ的な位置付けと捉えられ、正直パッとしなかった東京港。13号地のような埋立地も、当時のドラマなどでは「空き地」呼ばわりされ、世間の評価も相違無かったことでしょう。今でも中央防波堤の先にある新海面処分場では埋め立てが行われており、東京最後のフロンティアとなっています。かつてはアクアラインにかけての海を丸ごと埋め立てるネオ・トウキョウ・プランという計画が立てられており、AKIRAのネオ東京や機動警察パトレイバーのバビロンプロジェクトといった作中都市・計画の元ネタとなっています。手狭な東京にとって無限の可能性を秘めた東京湾岸部の開発は、平成における東京のテーマの一つ。その最初の再開発こそ、ここ竹芝で行われたのです。

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近年帰属が決定した令和島・海の森

 竹芝再開発で建設されたのはニューピア竹芝という、高層ビル、公園、客船ターミナルの複合施設でした。竹芝地域開発が臨海副都心に先駆けて手掛けたこの物件は、オフィスのみならず、ホテルや結婚式場、ホールなどを併設。東海汽船の本社も、ニューピア竹芝サウスタワーの5階に入居することになりました。バブル期にあって創業1世紀を迎える東海汽船としても、ウォーターフロントとして成長する竹芝のポテンシャルには期待があったのだと思います。当時の田町方面には芝浦GOLD(1989~1993)ジュリアナ東京(1991~1994)があったと言えば、ウォーターフロントに対する期待の高さがおわかりいただけるかと思います。

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ノースタワーと竹芝ふ頭公園

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東海汽船が入居するサウスタワー(第三期区画)

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駐車場として使われる旧ジュリアナ東京

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マンションが建つ芝浦GOLD跡地

 こういった最中に就航した船こそヴァンテアンです。創業100周年記念事業にして、21世紀のウォーターフロントにふさわしい船として建造されたヴァンテアンは、竹芝を構成する風景の一つでもありました。
 バブル末期の日本社会には新余暇時代という展望があり、平成元年はクルーズ元年とも呼ばれました。この考え方がヴァンテアンのベースになっています。港内でレストランシップを営む他社と対比してヴァンテアンはトラディッショナルであると、山崎氏(現東海汽船社長)は語っています。高級志向で心の豊かさを満たしつつも、主婦・OL・ビジネスマンをターゲットに見据えることで、手に届く非日常の提供を目指し、またビジネス街として発展することを見越した潜在顧客の発掘も視野に入れるなど、竹芝に合わせたビジネス展開も強く意識していたことが伺えます。
 東海汽船の本業はあくまでも諸島部と本土を結ぶ海運で、生活航路を最優先としていますが、ヴァンテアン建造の10年以上前に社長を務めていた尾上氏は、「日本を一周するような大きな船を造りたいんだ」「無目的な航路って、素晴らしいことじゃないか」という夢を語っていました。古くから納涼船などの周遊航路も手掛けてきた東海汽船。ヴァンテアンは大きな船でこそありませんが、初の本格的な周遊特化の船として建造されました。この時には既にその芽が出ていたのかもしれません。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

開発後の竹芝の実情

 かくして臨海副都心開発の魁となった竹芝ですが、お台場の計画とは独立して開発されたことから臨海副都心とは別の扱いとされ、語られることはあまりありません。実際のところ寂れた街という印象を持っている方も多いかと思います。私がヴァンテアンに勤めるようになった2016年はちょうど新しい再開発が始まるころでしたが、催事の終了時や船の発着時こそまとまった人が行き来があるものの、それ以外はほとんど人気のないエリアという印象を受けました。
 竹芝の開発が終わる頃にはバブル経済が崩壊し、この地域の開発を担当していた竹芝地域開発もオフィスが思うように入居せず赤字の一途をたどります。東京都が出資する第三セクターともあって世間の非難を浴び、最終的には東京臨海副都心建設と共に株式会社東京テレポートセンターに一元化されました。竹芝の施設と言えば桟橋、ホール、式場、ホテル、オフィス。楽しいレジャーというよりは、一つの施設に目的があって訪れるエリアです。ヴァンテアンはたしかにレジャー施設としてカウントされるかもしれませんが、ゲストにとっては東京湾が目的地であり、竹芝に来たくて来ているというわけではありません。他の施設も同様で、何かイベントがなければ素通りされるのが竹芝でした。
 一方で13号地は東京テレポート構想を元に情報を扱う港(Tele Port)を目指し、東京都下7番目の副都心として竹芝に続き開発が始まりました。バブル崩壊によって企業誘致が進まず、都市博の中止など振るわない時期もありましたが、レインボーブリッジやりんかい線、ゆりかもめなどが相次いで開通、フジテレビ本社屋の移転を皮切りに一大レジャータウンお台場として急成長し、レインボータウンと名付けられ今に至ります。

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お台場(レインボータウン)

レインボーブリッジ

レインボーブリッジ(東京港連絡橋)

 ヴァンテアン号は就航後ある程度の集客に成功しており、第二ヴァンテアンの計画も上がっていましたが、建造が決定する直前にバブルが崩壊し白紙となりました。当時の社長新村氏は「次の船に踏み切らなくてよかった、命拾いした」と、造船側にこぼしたそうです。

スマートシティとして蘇る竹芝

 長いこと寂れた港町だった竹芝ですが、都市再生緊急整備地域などに指定されたことを皮切りに都市再生ステップアップ・プロジェクトが提示、2015年に再開発計画が決定されました。国際競争力の高い都心と羽田を軸線上に結ぶ立地を評価しており、街が寂れる原因と考えられる都有施設の更新が主な内容となっています。この他JR東日本も社有地を中心とした竹芝ウォーターフロント開発事業(後のWATERS takeshiba)を発表、更に野村不動産の芝浦一丁目計画、世界貿易センタービル周辺の浜松町二丁目4地区A街区と、など、複数の開発計画が同時に進行することになりました。
 本開発の中心的存在となるのが、東京都立産業貿易センター浜松町館跡地に建設された東京ポートシティ竹芝です。産貿浜松町やソフトバンク本社などが入居する208mのオフィスタワーと、居住区のレジデンスタワーからなる施設で、カメラやロボット、データによりサービスと管理を行うスマートビルになっています。また浜松町駅~竹芝客船ターミナル間500mを結ぶ歩行者デッキ「ポートデッキ」は、首都高速都心環状線の上をまたぐ大規模なもので、津波発生時の避難所としての機能も有しており、竹芝への回遊性向上に寄与するものとして現在も駅方向への全通を待っている状態にあります。
 客船ターミナルに隣接する新名所「WATERS Takeshiba」は、主に商業施設が中心となっています。JR初のエキソトで展開されるアトレ竹芝、四季劇場、高級ホテルメズム東京によって構成されており、浜離宮方面には新たな船着き場を併設。東京水辺ライン、東京都観光汽船、アーバンランチ、羽田空港連絡実証航路が新たにウォーターズ竹芝を経由するようになりました。2021年3月までは東京駅から水素バスSORAを用いた無料シャトルバスも運行されています。新しい形の都市開発モデルとして、今後の動向が注目されます。
 客船ターミナル自体もリニューアルが行われ、サインやトイレが一新。照明とタイルも張り替えられ、非常に明るい空間に生まれ変わり、モニターを通じての様々な情報発信も始まりました。約5年ですっかり生まれ変わった竹芝ですが、それらの完成を待たずしてヴァンテアン号の事業撤退が決定されました。

2度生まれ変わった竹芝

 竹芝というエリアは平成、令和と2度の開発を経てきました。夢のフロンティアだった時代からスマートシティになるまで、そのすべて見てきたのがヴァンテアンという船でした。ヴァンテアンの運行が終了してから東京を離れるまでの半年は、まさに竹芝が完成された瞬間であり、皮肉にも東海汽船が夢見た21世紀のウォーターフロント竹芝が叶った瞬間でした。
 今後は地区内のオンデマンドモビリティサービスや、船運と公共交通機関を連携させるマルチモーダルサービスの実証実験も行われるほか、芝浦地区の開発や、世界貿易センタービルの建て替えなど、辺りの景色はまだまだ変わります。ヴァンテアンに込められた竹芝の未来予想図に思いを馳せながら、竹芝とヴァンテアンの結びとさせていただきます。

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リニューアル工事中の竹芝客船ターミナル

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リニューアル後の竹芝客船ターミナル

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竹芝通りを封鎖してのポートデッキ架橋工事

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東京ポートシティ竹芝とポートデッキ

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東京ポートシティ竹芝レジデンスタワー

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竹芝地区と東京駅を結ぶJR竹芝水素シャトルバス

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竹芝とヴァンテアン

 本誌ではヴァンテアン号に乗船した際の乗客目線での写真も募集しています。船内の写真、料理の写真、名所の写真などありましたらお寄せください。またヴァンテアンの広告ポスター写真(浜松町駅ホームから北口に降りる階段に出稿していたものなど)、竹芝の昔の写真なども併せて募集しています。ご協力頂いた方々に対しまして、PDF形式での献本、印刷版の割引頒布をさせていただきます。情報提供、写真の掲載をして頂ける方は、Twitterもしくはメール[nokuchi201@gmail.com]にてご連絡をお待ちしております。

ありがたくサポートをいただいた場合、Adobeソフトやフォントの維持、印刷費、ヴァンテアンに関連した資料や施設に対する取材費に充てさせていただきます。