去年の冬に死んだ友達の話

※注意 本記事は自殺についての記述があります。

 十二歳ごろから二十年近くほぼ毎年紅白歌合戦を欠かさず観ていたのだけど、去年は年の瀬に友人が自裁して亡くなったことで落ち込んでとても観る気が起きず、夜更けまで平時から使っているコワーキングスペースで文芸誌に向けた小説を書いていた。
 原則的には、自分は紅白歌合戦の音楽性よりあの共感性羞恥を煽るような滑稽な演出を優先するあり様を、現代日本社会の表象の定点観測として愛好しているのだが、気分が落ち込んでるときにはとても見れたものではない。これまでもカウントダウンフェスに行ったりすることでリアルタイムでの紅白を見逃すタイミングは何度もあったが、その場合は後日録画やオンデマンド配信を観ていたが、今年はそんな気もとても起きなかった。友人は若く、二十歳になったばかりだった。居住地もお互いに関東と関西と距離もあり、常に頻繁にやり取りをしていたわけではないが、節目節目には結構近しいやり取りをしていた。ネット上での付き合いも長かった。
 ある日、僕が東京でちょっと大きめの地震があったことに気づかず世界崩壊もののSF小説の話をTwitterでしていると、突然「大丈夫ですか? ヤバいですか?」と連絡がきた。
「なにがっすか?」と僕は返した。
「そっち地震あったじゃないですか」
「え、そうなんすか。ぜんぜん気づいていなかった」
「なんだ、なんかヤバい状況で、あえて高度なギャグを言ってるのかと……」
「俺はヤバいとTwitterでネタツイートせず、普通に避難します」
 正月気分を味わうのも嫌で、アルバイト先の社員さんに別日に決まっていたシフトを正月に動かせないか頼んでみたら、幸い入ることができた。「助かります」と言われたけれど、助かったのはこちらの方である。バイト先は特に催事に関わる要素がないので、つつがなく、淡々と年末年始を仕事に集中して過ごせた。と、言いつつ、なぜか駅伝だけは観た。専修大学がギリギリのところでタスキを最終ランナーに繋げない場面を、アナウンサーがエモーショナルに実況していた。
 少し前に不穏なLINEがその友人から来ていたが、文筆仕事に追われてキャパシティに余裕のない僕は、それほどは心配していない返信をした。
 と、言うのも僕の三十一年の人生で関わったなかで、少なからぬ友人知人が自ら命を絶ってきたが、そのどれもが些か無礼な言い方だが起こるべくして起こったという風情が強かった。今回の友人に関して言えば、相手の現状がなかなかポジティブなものと僕には映っていたので、従来気分が不安定だったこともあり、ほんの気まぐれと油断していたのだ。もちろん、その時点で察したところで自分になにか出来たかと言うと極めて怪しいが。けれど、メッセージに既読が付かなかった以上、その時点で鬼電をするくらいはできたかもしれないという後悔はやはり残る。
 その友人は漫画を描いていた。そして、それがなかなか軌道に乗っていた。非常に有名な出版社のヒット作を手がけた敏腕な編集者が担当につき、読みきり掲載に向けて努力していた。友人は作品を送り続け、担当編集者はそれに改善点を添えた丁寧なリアクションを返していた。
 漫画と小説と部門は違うものの、たまたま僕もその出版社に仕事の打ち合わせで訪れたことがあった。
 そのことを話すと、「まずビルのデカさにビビりません?」と友人は言った。
「ビビったすね」と僕は同意した。
「ナンボクさんもあの、ほら、一階の受付で記入用紙書きました?」
「書きましたよ」
「内線かけてもらうとき、ドキドキしませんでした?」
「俺はまぁ一応出版社行くのもう何回目かだし……いや嘘っス、イキりました。普通にめっちゃ緊張して喉からっからになりました。会議室で編集者が引くくらい飲み物もらいました」
「あの来客用カードを首から下げるのも緊張しません? 社会不適合者としては」
「なんなら記入用紙の用途のところに『打ち合わせ』と書くのも緊張したっすね」
「ビビらなくなりてぇー、いつくらいからビビらなくなるですかね? 〇〇(ある中堅漫画家)くらい?」
「連載持てたら打ち合わせ行くのが普通だから、それくらいじゃないすか?」
 その他にもその出版社の売り出し中のコンテンツのポスターがどこにどう貼っていたかなどで盛り上がった。
 担当編集者の望む作風と、友人自身が今描きたい作風がなかなか嚙み合っておらず、その愚悩みやら相談もときどきは聞いていたものの、「一度デビューしてからやりたいことをやればいい」という目論見を抱いて、上手く切り替えられているように映っていた。友人には確固たる野心があった。その野心は年を重ねるごとに立体的になり、同時に現実的にもなっていっていた。
 ちょうど僕は二〇一九年に短編小説がアンソロジーに掲載されてデビューし、その三年後の去年に初単行本を出版していて、我々はちょっとした創作の同士でもあった。
 友人は「このマンガがすごい!で一位を取れたら、対談相手にナンボクさんを呼びますからね!」と言っていた。
 僕は「そんな大物になってまで俺を覚えていてくれたらね」と返した。
 自裁する要因についても聞いたのだが、「どうして目の前にこんなチャンスがあって、あれほど努力していたのに、そんな些細なことで……」と絶句した。そこで自分は大きな勘違いをしていたことに思い当たった。
 これまで目の前で死を選んだ者たちがある意味ではわかりやすく、真っすぐと死に向かっていたことで、自分は自死とはそういうもの……ほとんど闘病後の病死に近い、兆候と予後不良が目に見えるもののようにいつしか思っていたのだ。けれどもちろん病死のなかにだって突然死は含まれる。つまり死というのは圧倒的に暴力的かつ速やかに、人間一人の予断やら予想やら見立てやらはまったく介在不可能な、絶対性を携えた深淵なもので、その穴を覗き込んで底が浅いように感じていたのは実に愚かな思い違いだった。助けられなかったという感情はないが、自分の甘さのようなものを思うと、今でも寒気がする。ようするにそれは自分自身の生の持続可能性への甘さでもある。端的に言ってしまえば人間の脆さのようなものを舐めていて、人生への不遜さに直結していた。僕は自分の名前がクレジットされた本が紀伊國屋書店やジュンク堂に平積みされたということで、ずいぶんと傲慢になってしまっていたのだ。そのことは現時点ではデビュー作というある種のボーナス状態における出版社の営業担当者の努力の成果や、あるいは新人ということで期待をしてくれている書店員の気持ちであり、自分自身はまだなにも成し遂げていないというのに。去年、二〇二二年は自分にとって祝賀する年というよりかは反省すべき点の方が多い年だった。
 友人の話に戻る。元々家庭が上手くいっていないというかほとんど虐待を受けていたというのはよく知っていた。数年前、地方に住む友人が中学生のとき突然「家出して新幹線に乗って東京に向かってる」とツイートしてるのを見たとき、大丈夫か? いや、大丈夫じゃないよな……と結構心配になって若年支援NPOのサイトをダイレクトメールで送ったりしていた。幸か不幸か、友人は東京駅についたところで警察に速攻で補導されていた。ただそこについてもずいぶんと努力し、給付奨学金を勝ち取り、関西のマンガを教える学科に進学して一人暮らしを始めていた。マンガを描き、そのことで奨学金を得て専門の大学に進み、在学中に大手出版社の敏腕な担当編集者がついた。ここまで十八歳か十九歳までの出来事。負の環境から抜け出し、さぁこれから未来に希望に満ち溢れているとも言えるけれど、もちろんそれは先述したように人という存在の脆さへの楽観視でしかない。
 友人はもともと絵が上手かったとか、気がつけば絵を描いてたタイプというわけではなく、というより意識的に絵を描き始めたのは確か高校二年生の終わりか三年生くらいのことで決して早い方ではなかった。
 なんらかの物語創作をしたいと考え、「映画は集団作業で無理。小説だとなかなか売れないから漫画にした」と言っていた。僕は一応小説家ということになってるがそれには苦笑しながら頷かざるを得なかった。
 けれども友人は小説についても幻想文学を中心にかなりの読書家で、たとえば山尾悠子を強くリスペクトし、僕に最近訳されたばかりのシャーリィ・ジャクスンを勧めてくれたりした。
 たまたま友人の憧れの一人である小説家が僕の担当編集者の上司の担当編集者で、僕は自分が小説家として本を出したことと、友人がデビュー寸前であることでお互いにテンションが上がり、というか、気が不必要に大きくなり、いつの間にか「デビューして連載までできたらどうにかしてその作家に会ってもらえるよに交渉してみるよ」などと安請け合いしていた。
 友人と担当編集者とのやり取りがどんどん真に迫っていくに連れ、適当なことをほざいたことをなかなか真剣に後悔し、というのも担当編集者の上司の担当作家というのは別に繋がりでもなんでもなくただただ向こうが大御所で、自分は吹けば飛ぶ新人に過ぎず、なにをどうして紹介などできたものだろうかという出版界の力学がわかり始めてきたころだったからだ。
 けれどもかかる学校や家庭での苦しみをサバイブして創作者して飛び立とうとしている若者に対してそんなことを言ったのだから、これはもう駄目で元々で土下座するしかないと考えていた矢先の出来事だった。僕が出版社で土下座して担当編集者が「無理ですよ」と引きつった顔になる滑稽な未来が来れば良かったのにと思う。
 先述のように絵を描き始めてそれほど時間があったわけではないので、正直、最初に完成したという『ブレード・ランナー』に影響を受けたというSF漫画を送られてきて「忌憚のない感想をお願いします。キツめで」と言われたとき、激賞するわけにはいかなかった。僕は自分は絵や漫画を描く身ではないが読者として、三千字ほどわりあい真剣に意見を書いた。物語だけではなく、コマ割りや構図についても意見した。当たり前だが最初に描いた作品がケチのつけどころがないほどの天才というのはそうそういない。
 けれども友人の感心すべき点は、その一週間後くらいに自分の意見をフィードバックした改稿作が送られてきたことだ。似たようなやり取りを経て、その読みきり短編漫画は自分の知る限りでも十稿くらいになり、見違えるほど磨きがかかっていった。本人の手元の描き直しならもっとだろう。不遜を承知で言えば、これほどの作品に自分の意見が反映されていることが誇らしくなるくらいだった。しかし渾身のその一作は友人の担当編集者の気に入るところではなく、むしろ息抜きでwebにアップしていたギャグ漫画を描いて欲しいとのことだった。
 友人は「これでデビューすることは諦めて、売れっ子になってから更にブラッシュアップして出します。自分の処女作にして原点作品として。かっこよくないですか?」と言った。
僕は「すげーかっこいいっす」と頷いた。
「ナンボクさんも二十歳の頃に書いた短編で世に出たし、かっこよくないですか?」
 僕のデビュー短編は昔同人誌に書いたものを、あるweb小説コンテストに応募したものだった。
「かっこいいかなぁ……本当は二十歳で世に出たかったすよ」
「かっこいいと思うけど、世に出ることについてはそうですよね。なので自分は上手くやって、二十歳で世に出て、全盛期に二十歳の作品を世に出します。あの子たち(漫画の登場人物のこと)は思い入れありますから」
「再確認だけど、それはすげーかっこいいっす。どんどん良くなってるし、あの作品はポテンシャルありますよ」
「ナンボクさん、最初の読者として後でイキれますよ」
「じゃあ遠慮なくイキり散らかします」
 その作品は日の目を、いや、完成形を見ることなく、僕のスマートフォンのフォルダに眠っている。
 友人と最後に会ったのは、まさしくその大きな出版社で担当編集者と打ち合わせるために上京した、帰りの羽田空港でだった。ちょっとお茶しつつ話せないかと連絡をもらったのだ。
 空港の適当なカフェに腰を落ち着けたところで「首尾はどうでした?」と僕は訊ねた。
「うーん、なかなか。〇〇さんは厳しい。さすが××を世に出しただけありますね。いつの間にか出世してましたし」
「逆に言うと、〇〇さんに認められるようなものを描けば、力入れてくれるだろうし、役職がついたなら意向が通りやすいんじゃないです?」
「まさに。それを狙ってます。待ってろよー! 〇〇! 唖然とさせてやるからな! このマンガがすごい一位になってやる!」
「その意気っすよ」
 そこで友人は不敵な笑みを浮かべた。
「前に話した約束覚えてます?」
「なんでしたっけ」
「ナンボクさん記憶力いいから絶対覚えててしらばっくれてますよね?」
「このマンガがすごい!で一位になったら対談ってやつですかね」
「そうです。あれまだ有効ですから。ってかそれまでにナンボクさんもなんか賞取っててください。山本周五郎省賞とか」
「まぁ善処します……」
「このマンガがすごい!一位の漫画家と山本周五郎賞作家が昔から友人で対談したらアツくないですか」
「アツいっすね、それは」
「それになりましょうよー!」
「お互いにがんばりましょう」
「やるぞー! 藤本タツキになるぞ!」
 僕はそこで爆笑した。
「いま日本で一番才能ある漫画家じゃないですか」
「やるからにはテッペン目指さないとですよ、ナンボクさん誰になりたいですか?」
「えー、考えておきます」
「小川哲とか即答してくださいよ!」
「えー……」
 搭乗時間が近づくと、僕は友人を出発ゲートまで見送っていった。
「じゃあ気をつけて」と軽く手を振ると、友人はまた不敵な笑みを浮かべた。
「ラッパーみたいな別れ方しません?」と拳を掲げる。
 僕も笑って拳を掲げて、お互いに「ウェーイ!」と拳を合わせて我々は別れた。
 帰宅中にLINEで『恥ずかしくて言えなかったですが、待ち受けにまだ使ってくれているの、めちゃくちゃうれしいです』とメッセージが来た。
 それはいつかの誕生日、友人から「拙い絵ですが、お誕生日祝いにどうぞ」と送られてきた羽根の生えた少女のイラストで、僕は『後々イキれるように準備してるんですよ』と返信した。スマートフォンを持ち続ける限り、待ち受け画面をもう変えられないかもしれない。

 最初に書いたように、自分は大晦日から正月にかけて、年末年始気分なく黙々と執筆とアルバイトをしていた。その最中、不意に『グレート・ギャツビー』の最後の一節について思い出した。自分にとってフェイバリットの小説で、友人も俺が頻繁に推してるので読んで感銘を受けたという話を結構長くしたことがあるからかもしれないし、ドイツのミステリー小説『犯罪』で、ある自殺した人間が、死ぬ前に朗読していた一節として引用されたからなのかもしれない。
 自分は英語はまったくの不得手なのだが、既訳と辞書をにらめっこしながら、最後の文章を翻訳した。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us.
It eluded us then, but that's no matter --- to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ..
And one fine morning-----

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly in to the past.

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。月日を重ねれば醒めてしまう、僕らの目前にあった陶酔に酔いしれる未来を。
あの時はそいつを捕え損ねたが……なに、大丈夫さ。明日はもっと速く走ればいい。今度は手をずっと遠くまで伸ばしてみせよう。そうだ、そうすればいつか気持ちのいい朝に――。

さぁ船に乗ろう。櫂を漕いで流れに逆らおう。そしていつも押し戻される、過去の方へと。


 友人は僕の初の単行本が出たほんの数日後に、小説の登場人物を描いたイラストを送ってくれた。心から嬉しかった。
 もっとそれが、どれほど初めて小説の単行本を世に出したものとして嬉しかったかと、伝え足りなかったように思えてならない。


気さくに応援しよう、俺の貧乏生活。