トルーマン・カポーティ著 小川高義訳『ここから世界が始まる―トルーマン・カポーティ初期短篇集―』

 トルーマン・カポーティ著 小川高義訳『ここから世界が始まる―トルーマン・カポーティ初期短篇集―』を読んだ。
 コンセプトそのものが「偉大な作家のデビュー前夜の習作集」で、作家としてのカポーティの歩みが悲劇的――傑作と引き換えに絶えず自己破壊があった――なので帰納法的に"そう"読まれることを狙って編まれてるんだけど、それを差し引いてもなお表題作の「学校で馴染めず先生に叱責され、空想に逃げ続ける少女」の掌編が十ページそこらなのに圧倒的なイマジネーションと孤独が炸裂していて凄まじい。
 学校で先生からお説教を受けつつ、空想の世界ではサインをねだられるハリウッド・スターや、将校を色仕掛けで引っかけるスパイ(主人公はマタ・ハリもかくや、と表現する)になったり、最後は沈没船で取材を続けるジャーナリストとなるのだけど、その空想世界の文章がどれもそれっぽくて、色んなジャンルの小説の文体練習的な部分もあったのではないかと推測する。
 それにしても、最後の文章は惚れ惚れする(名訳だと思う)。

"突然、サリー・ラムは笑い出した。カーター先生も、Xも、数字も、みんな遠くなった。はるかに遠い。ここまで来れば幸福だ。髪に風が吹きつける。まもなく死神と出会うだろう。"

トルーマン・カポーティ『ここから世界が始まる』(小川高義訳)

 まもなく死神と出会うだろう! なんという締めくくりの一文だろう。学校で怒られ、クスクス笑われる青少年の夢想と孤独を肯定的に、空想こそを讃美するようなテイストで進みつつ、最後にこう落とす。カポーティのデビュー後の短編には実際に「死神」が登場するものもあるし、それ以外の作品でも夢か現か判然としない不穏な亡霊のようなもの、あるいは極めてリアリスティックな形で唐突であったり、じわじわなぶるような「死」が登場する。
 この文章の天才性について、二つ考え方がある。一つは「偉大にして悲劇的な作家はその天才性によって、十代か二十歳そこそこの習作で後の自分の歩みをすべて予見するような作品を書いた」ということ。つまりすべては運命的であるということ。もう一つは「天才的な作家は十代か二十歳そこそこで書いた習作の段階で、“偉大だが悲劇的な作家の人生を予見させ得る余地のある作品”を書けた」ということ。天才の作品にはいろいろな形の人生を見出せるということ。運命に導かれる存在が天才なのか、何気ない歩みにまで運命を見出してしまいたくなるような存在こそが天才なのか。そういうことを考えました。

 他の作品も佳品揃いで、偏屈な老婆の悲劇とそこに宿る一瞬の美しさ(同時にそんな老婆を嘲笑する人々への冷めた目線を)書いた『ミス・ベル・ランキン』。
 犬を飼いたい孤独な少年と恐らくは息子を亡くした母親である女性とその飼い犬にまつわるセンチメンタルな(温かいようで、もの悲しい。最後に母親はどうなったのか、そもそも、その息子は実際に存在したのか?)『これはジェイミーに』なども心に残った。
 二人の婦人が死んだ夫と、死んでほしい夫、そして夫がいなくなった自分たち二人だけの生活について夢を見るように語り合う『似た者同士』は若干百合を感じた。
 ところで、後の代表作『ティファニーで朝食を』で小説家志望の青年である主人公(もちろんカポーティが重ねられている)が、ヒロインのホリーに初めて自分の小説を朗読して、「それでおしまい?」「中年のレズビアンの話だとして、一体何の話?」(たぶん物語がないというようなニュアンスの苦言なんだと思う。元の文章はそこだけ抜き出すとちょっとキツイので、要約)という感じで酷評されるシーンで読む小説についてなんとなく本作の『似た者同士』を想起して、これをセルフサンプリングしてるんじゃないか? と、改めてティファニーを確認するとぜんぜん違う話だった。
 ただオープンリー・ゲイであることを強く公言していたカポーティの代表作『ミリアム』が老婆と(実在の怪しい)美しく不気味な少女の話であることなんかはそういう観点から読み直しても面白いのではないか、とちょっと思った。


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