記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

西加奈子さんの『さくら』を読んで後悔した話

「映画化」。タイトルと同じくらい大きなピンク色の3文字が、文庫本の表紙を飾っていた。豪華なキャストで、大きなスクリーンで、東京事変の音楽で、この物語はより多くの人に届くのだろう。

だけど。と、私は思った。


*****


私は後悔していた。中程まで読み進めていた『さくら』はもう閉じて、さっさとベッドに入ってしまうことにした。

でも、その夜はなかなか寝付けなかった。その日は早起きして丸一日海で泳いでいたから、体は相当疲れているはずだったのに。ベッドにずっしりと沈んでいく身体とは裏腹に頭は妙にさえていて、私はぐるぐるぐるぐる考えていた。


どうすれば、兄ちゃんは死なずに済んだんだろうと。


主人公の兄「はじめ」は、つい数ページ前に、自ら命を絶っていた。

そのわずか1年ほど前まで、あんなに「陽」の塊だったのに。太陽みたいに眩しい、「僕」らの自慢の兄だったのに。

ミキが手紙を隠したりしなければ、あるいは修学旅行のあとに兄ちゃんが矢嶋さんに会いに行っていれば、そして矢嶋さんが今もはじめの側にいれば、結果は違っていたんだろうか。あるいはフェラーリがミキを見つめて空を見上げたあと、子供たちとちょっとでも仲良くなったりしていれば、兄ちゃんだって希望を抱けたんだろうか。

どうすれば、兄ちゃんはギブアップせずにすんだんだろう。どんなサポートがあれば、兄ちゃんは悪球を打ち返すことができたんだろう。兄ちゃんが絶望を乗り越えて明るさを取り戻せる世界線はなかったのかなと、私はずっと考えていた。


でもよく考えてみると、それって少し不思議な話だ。というのも、物語に初めて「兄ちゃん」が登場したその瞬間から、兄ちゃんが二十歳で亡くなることを私たち読者は知らされていたのだから。

この物語は、兄の死後4年が経ち、遺された家族が久しぶりに全員顔を合わせるところから始まる。私たち読者は、兄がいないことは最初から受け入れていたはずだったし、その亡くなり方にしたってヒントは与えられていた。


タイタニックに入り込めなかった私が、「兄ちゃん」の死に打ちのめされた理由

私は普段、亡くなることがわかっている登場人物の命に思い入れを感じたりはしない。

映画史に残る名作タイタニックでさえ、どうも入り込めなかった。おばあさんになったローズが、自分を助けて亡くなった青年を思い出しつつ語るオープニングシーンは、私にとって盛大なネタバレ以外の何者でもなくて。

沈みかけた船の中で水が激しく襲いかかってこようとも、「でもどうせローズは生き延びるんでしょ」。必死に逃げ回る主人公を見ても、「でもどうせジャックは死んじゃうんでしょ」。

そう、私は、死ぬことがわかっている登場人物に感情移入するのが苦手だ。


だけど、この『さくら』は違った。兄ちゃんがいなくなった喪失感で、私の心にもぽっかりと穴があいてしまっていた。私はいつの間にか、兄ちゃんや「僕」や妹のミキと一緒に育ってきたような気になっていたのだ。


そして気づけば、後悔していた。

兄ちゃんの死を食い止められなかったことを。


エッセイみたいな小説

なんでだろうと理由を考えてみると、西加奈子さんの文章がもつリアリティに行き当たった。

この作品を読みながら、私は何度も「これ、ほんとに小説?」と思った。この文章から伝わってくる感触は、フィクションというよりも、実在するだれかの自伝やエッセイに近かった。

新幹線で乗り合わせたおばちゃんたちの会話。胎児だった頃を覚えているという兄ちゃんの記憶力。晴れの日も長靴をはいていた妹。愛犬サクラがベッド代わりにしていた「アサヒウーロン茶」の段ボール。息子が初めて彼女を家に連れてくると聞いて、過去1度しか作ったことのないアップルパイを焼く母さん。靴の減り方が長男と似ている父さん。

神は細部に宿るというけれど、西加奈子さんの文章はそんなディテールの宝庫で。具体的なエピソードの数々に息を吹き込まれた登場人物は、作家の頭で捻り出されたキャラクターというより、大阪のどこかで実際に生きているリアルな人たちに思えた。


そうやって命を吹き込まれた「僕」らが織りなす大小さまざまな物語が、『さくら』という小説にはしっかりと織り込まれている。

兄ちゃんの事故やギブアップはもちろんその中でも一番重要な要素ではあるけれど、『さくら』の全てじゃない。これは「兄の死」と「家族の再生」の物語であると当時に、僕の思春期の物語であり、兄ちゃんやミキの恋の物語であり、サクラや薫さんやサキコさんや矢嶋さんのお母さんの物語であり、それから父さんと母さんのラブストーリーでもあるのだ。

でもあえて形容詞を一つ選ぶならば、それは「僕らが大人になっていく物語」だと思う。


僕らが大人になっていく物語

幼い頃の僕らは、たぶん自分たちは最強だと思っていた。その世界観の中では、広場で奇声を発する変質者はもちろん、ニキビだらけの顔になってしまった同級生や、ひょっとしたら罰ゲームみたいな化粧をした男の人だって、きっと境界線の「あちら側」にいた。

同性愛者に「偏見はないほうだ」と言いつつも、いざ自分の妹にその手の噂が立つとどうも小声になってしまったり、ニキビだらけの女の子と一緒に歩いているのを友達に見られたくないと思ってしまったりする「僕」は、自分が境界線の「こちら側」にいることを疑うことなく、この世の春を謳歌してきた。

だけど、その境界線はいつか揺らぐ。

それは猛スピードのタクシーに大事なものを奪われた兄の姿かもしれないし、卒業式の壇上で校長先生からマイクを取り上げた女子生徒のスピーチかもしれないし、妹のランドセルの中身かもしれないけれど、「あちら側の奴のことは指差して笑ってもいいんだ」みたいな感覚とか、自分のことだけは未来永劫守ってくれる気がしていた殻みたいなものを、いつか何かが揺さぶる。

境界線がにじみ、大事なものが損なわれ、疲れ切って、何かを考える気が失せて、退屈して、それでもやっぱり、世界の中に美しくて貴いものを見出していく。

そして「僕」は大人になっていく。


*****


「映画化」。タイトルと同じくらい大きなピンク色の3文字が、文庫本の表紙を飾っていた。豪華なキャストで、大きなスクリーンで、東京事変の音楽で、この物語はより多くの人に届くのだろう。

だけど。と、私は思った。

小説を読んでいると、「これは映像で観た方がよくない?」と思う作品もあれば、「これを文章で読めて良かった」と思うこともある。『さくら』は、間違いなく後者だ。

西加奈子さんの描写力・表現力のおかげで、私の心の中にも長谷川一家との思い出がリアルに刻まれている。

映画版をみていない私が言うにはちょっと偉そうなコメントにはなってしまうけれど、映画を通じてこの物語に興味を持った人もぜひ、小説版も手にとってみてもらえればと思う。




この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?