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短編『夜風のラジオ』

「夜の一時三十分をまわりました。十一月九日木曜日、ここからは、『夜風のRADIO』のお時間です。パーソナリティは、わたくし、室山風花が担当させていただきます。よろしくお願いします〜」


 勉強机の上のポータブルラジオが、肌寒い夜に彩りを与える。僕はそんな放送をバックミュージックに、大学入試の過去問とにらめっこをしながら、手元のルーズリーフにシャープペンシルを走らせている。

 大学入試を二ヶ月後に控えた僕は、内心、それなりに焦っていた。古文の単語は未だに語呂合わせの域を出ないし、英語の長文だって毎回時間に追われる格好だ。そんな焦りを落ち着かせるように、僕はマグカップのミルクココアに息を吹きかけた。


 空気を入れ換えるために自室の窓を開けると、レースのカーテンが夜風に小さく舞った。パジャマの上に羽織った薄いカーディガンのボタンをとめる。


「十一月に入ってからは気温もぐっと下がってきましてね、私も新しくですね、ダッフルコートをおろしてしまいました。少しくすんだホワイトのものを。やっぱり、新しいものを身に着けるとなんだかテンションも少し上がったりするんですよ。いつもの街並みなんかも、少し色味を増して見えたりして」


 ペンがルーズリーフを削る音の背後、角のない柔らかい女性の声が、当たり障りのないトークを繰り広げている。



 一方で僕は、机に肘をつきながら、頭を抱えている。この長文問題、苦手なタイプの形式だ。頭で体系化しにくいタイプの。一旦そんなことを考えてしまうと、英文の内容なんてまったく頭に入ってこなくて、アルファベットの羅列をただ目で追うだけの意味のない行為を、無意識に続けてしまう。一番たちが悪いのは、そのことになかなか気がつかないことだ。いつも、数行進んでから、やっと気がつく。


 完全に集中を切らした僕は、本の最後のページを閉じるときのように丁寧に、シャープペンシルを机に伏せた。それと同時に、ラジオの向こうでは、パーソナリティが本日のお便りテーマを発表し始めた。


「『夜風の囁き』のコーナー。本日のメールテーマは、最近密かに困ったこと、です。番組のメールアドレスの方に、皆さんぜひご応募よろしくお願い致します。夜も大分深くなってまいりまして、皆さん眠くなっている頃かとは思いますが、本当にどなたでも、素朴なことでも良いのでね、こんな事に困ったよ〜なんてのを、ぜひお願いします!番組公式アドレスは、── 」


 パーソナリティが、メールアドレスを慣れた様子でリズミカルに口ずさんでいく。アルファベットの文字一つ一つが、その丁寧且つはっきりとした発音とともに、あたまに残っていく。


「それでは一旦。お聞きください。リクエスト曲で──」


 リクエスト曲と言われたその曲。アコースティックギターのシンプルな音色にボーカルの掠れた声が乗って、それがかえって夜の静けさを助長していく。僕は、そのメロディに耳を傾けながら、ただキャスター付きチェアの背もたれに寄っかかっていた。体重を軽くかけて背もたれが少し後ろに沈むのを待ってから、その力を緩めるのを繰り返す。そうして、アンティークなロッキングチェアに身体をあずけているような、そんな錯覚をする。

 

 僕がこのラジオ番組を聞き始めたのは、ここ数ヶ月のことだ。勉強中に不意に耳の寂しさを覚えた結果、埃を被ったポータブルラジオに手が伸びたのがきっかけだった。そこで最初に流れていたのが、この番組だった。後で調べてみると、地方局の放送なのだそうだ。当時の僕は何も知らず、ただ女性のパーソナリティの喋る柔らかい声に惹かれて、気付けば、決まった時間にはこの番組を流すようになっていた。のんびりとしながらもしっかりとした軸のあるトークは、暗闇に一抹の彩りを与えてくれるのだった。

 

 最近密かに困ったこと。今回のメールテーマとなったお題を、頭のすみっこに小さく浮かべてみる。勉強に手をつけるべきだと訴える理性の比重はみるみるうちに少なくなってゆき、終いには、夜風に巻かれてどこかへ行ってしまった。頭の中で、大小の困ったことがぐるぐると渦をまく。


 自動販売機であたたかいドリンクを買ったら、まだ温まりきっていない、ぬるいドリンクが出てきたこと。学校に向かう際首元が冷えるが、マフラーを巻くほどの気温ではないこと。


 なにより、受験勉強が良いように進まないこと。


 

 気がつくと、僕はスマートフォンを手にとって、メールアプリの画面を開いていた。これまでは完全なる聞き専であった僕だったが、メールの形式くらいは、他の人のメールを繰り返し聞いていくうちに、なんとなくの感覚で覚えていた。


 


 宛先:◯◯


 件名:夜風のささやき


 RN. 受験生K


 室山さん、こんばんは!


 いつも楽しく聞かせていただいており、今回はじめてラジオ番組にメールを送らせていただきます。


 最近密かに困ったこと。それは、大学受験に向けた勉強が思うように進まないことです。室山さんは、集中したいときに行うルーティンなどはありますでしょうか。アドバイスいただけると嬉しいです!




 高鳴る胸の鼓動に乗って、一気に書き上げた。時間を少しでも空けると、思い切りを失うことを知っているので、そのまま送った。

 多少の推敲くらいすれば良かったと後悔したのも束の間、しばらく流れていた音楽がフェードアウトしてゆき、再び柔らかい声が姿を表した。


「今回のリクエスト曲は、先月メジャーデビューを果たしてシンガーソングライターの新曲、ということで。いやぁ、アコースティックギターの抒情的な音色や詩的な歌詞が非常に魅力的でしたね。デビューしてから活躍の場を広げ続けているということで、これからの活躍に更に期待です」


 流れていた曲への感想が述べられてから、話題は今回のお便りメールへと大きく転換する。 


「さて、ということで──、時刻も一時の四十五分をまわりましたが、本日もたくさんのメールをいただいきました。『夜風の囁き』のコーナー。早速いってみましょう。」


「ラジオネーム、鉄のコケシ、さん」

「室山さん、こんばんは。はい、こんばんは〜」


「この頃寒くなってまいりまして、そんな時期に困ってしまうのが冷え性です。よく女性が悩むと言われている冷え性ですが、実は男性の私も足先などの末端が酷く冷えたりします。そこのところを、世間のみなさんにも理解してほしいと思う今日この頃です────ということでね、いやぁ、わかります、わかりますよ。冷え性」


「私の先輩でもね、結構いるんですよ。男性の冷え性の方。調べてみると、腰痛とかにも繋がるらしくてですね。いや、本当に大変だと思います」


「私はですね、ありがちかもしれないでけど、生姜を入れた紅茶とか飲んだりします。体を芯から温める? というんですかね。スプーン一杯のハチミツとか入れてみても、結構美味しくて、それこそ今日みたいな夜とか、マグカップ一杯でひと息ついてからベッドに入るとか。翌朝すっきり起きれたりするんですよ」


「あとは靴下とかですかね? ともかく、ご自愛くださいね。鉄のコケシさん、メールお送りいただき、ありがとうございます! 」


 僕は、相変わらずチェアの背もたれに寄りかかりながら、ぼんやりと一人で繰り広げられるトークを聞いていた。ずっと小さく開けていた窓から夜風がそよぎ続けた結果、だいぶ身体が冷えてしまい、僕は背伸びをしてから、冷たくなった自らのふくらはぎを擦った。これが冷え性というやつの第一歩なのかもしれかい。


「さて、続いてのメールですね」


 その声を聞いて、僕は若干の前傾姿勢に戻った。体を固めたまま、ポータブルラジオに神経を集中する。その刹那、止まった秒針、マグカップのココアの湯気だけがもくもくとのぼり続けている。


「えー、ラジオネーム、受験生Kさん!」


 呼吸がとまった。真っ先に浮かんだ感情は、校正を行わなかったことへの後悔と、不安。


「室山さんこんばんは! こんばんはー」


「えー、いつも楽しく聞かせていただいており、今回、はじめてラジオ番組にメールを送らせていただきます」


「おぉ! はじめてのメールということで、いやぁ、ありがとうございます! 」


 僕の後悔の念に反して、校正なしの駄文はブレーキがかかることなく、どんどんと読み進められていく。


「最近密かに困ったこと。それは、大学受験に向けた勉強が思うように進まないことです」


「なるほど! 」


「えー、そこで、室山さんは、集中したいときに行うルーティンなどはありますでしょうか。アドバイスいただけると嬉しいです! ────ということで、いやぁ、受験生の方ですか。いや、ラジオネームにも書いてありましたもんね、当然ですよね」


 パーソナリティの小さな笑い声が聞こえる。


 そこでやっとひと息をつけると思ったのも束の間、すぐさまトークが再開され、僕の呼吸は中止を余儀なくされた。


「それで、えーと、集中したいときのルーティンですよね。えーとですね、私は、そうですねぇ。んー、あ、でもコーヒーとかはよく飲みますね」


 解答が出るまでの空気の重みが、電波を伝って、身体にのしかかってくる。コーヒー、いまコーヒーと言っただろうか。そうかそうか、コーヒー。コーヒーなのだそうだ。


「胃が弱っているときとかはあんまり良くないんですけど、そういうときはミルクとかでまろやかにしたりして、基本はブラックで飲んでますね」


「あとは──やっぱり睡眠でしょうか。はい、この番組も比較的遅い時刻にやってますけど。やっぱり、しっかり寝ることも、遠回りなようで大切なんですよね」


 それから最後に、大事な時期を迎える方に適当なことは言えないですが、と笑った。


「さて、お時間も近づいてきまして──」


 そして、その日の「夜風の囁き」のコーナーは終わりを告げた。あっという間の出来事に、僕はただただ呆然としていた。

 

 そんなぷかぷかと浮かぶ僕の魂を、冷たい風が現実に呼び戻した。ラジオの時間から取り残された僕の胸には、ぽっかりと空いた空洞と、そこに確かにあった充足感の形跡が混在していた。充足感の跡は傷口のようにじんじんと熱くて、その傷を思うだけで息が詰まるようだった。





 僕は次の週も、また次の週もメールを送った。


 採用される日もあれば、採用されることのない日も当然あった。その度に僕は必要以上の一喜一憂を繰り返し、次の週の放送を心待ちにするのだった。


 しかし、次の週が来るということは、入試本番が近づいてきていることも同時に意味した。僕は、参考書とにらめっこをしながら、その日々を過ごした。


 次第に、受験生Kというラジオネームを覚えもらえるようになった。特に捻りもないラジオネームであったため、その点において僕は多少の後悔をした。でもそれ以上に、まるで顔見知りであるかのようにその名前を読んでくれることが嬉しかった。僅かながらも彼女の織りなす空間の隅っこに入り込めることが嬉しかった。



 そして、そのときはあっという間に来た。

 それまでの努力をぶつける、闘いの瞬間だ。


 その闘いは、準備期間の長さに反して一瞬で終わって、いつの間にか身の回りの様々があっという間に移り変わっていった。そして、どこからか菜の花の香りがするようになった。


 新たな芽吹きの、出会いの季節である。





 そして、新年度一発目の木曜。深夜一時半。僕はいつものようにポータブルラジオの前に待機している。

 

「夜の一時三十分をまわりました。四月四日の木曜日、ここからは、『夜風のRADIO』のお時間です。パーソナリティは、室山風花が担当させていただきます。よろしくお願いします! 」


 いつもの声が聞こえる。僕は手元のブラックコーヒーを啜った。勉強机の端には、昨年度使った参考書がきれいに揃えられている。


「さて、今回の『夜風の囁き』メールテーマは──四月、喜び季節ということで、最近あった嬉しかったことです。番組のメールアドレスの方に、皆さんぜひご応募よろしくお願い致します!番組公式アドレスは、──」


 もうそらで言えるようになったメールアドレスに、慣れた手つきで文字を並べていく。


 それからしばらくして、お馴染みのタイトルコールがされる。


「さて、それでは『夜風の囁き』のコーナーです。まずは──ラジオネーム」


「受験生Kさん! 」


 そら来たと僕は頷く。


 今年もこのラジオネームを使えることになった喜びを、今年度もよろしくお願いしますという挨拶を。


 小さく空いた窓の隙間。閉じられた改訂版の新しい参考書のページを、春の夜風が捲った。

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