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ボート小屋の少女【短編小説】

 窓から照り付ける陽光のせいか、僕はいつもより数時間も早く目を覚ました。
 僕は寝る前の習慣として、毎回きちんと部屋の全てのカーテンを閉めることにしているのだけど、昨日はたまたま忘れてしまっていたらしい。たまの休日なのだからもう少し寝ていようと思ったけれど、こんなに早く起きることも珍しいのだし、僕はそのまま身を起こすことにした。
 外からは、窓を通して耳をつんざくような蝉の鳴き声が聞こえてくる。八月ももう半ばだというのに、僕はこのとき初めて夏の到来を実感した。仕事の忙しさのあまり、季節感というものが、僕の観念からすっかり抜け落ちてしまっていたのだった。
 僕はエアコンの電源をつけると、洗面台へと向かう。鏡に写る酷く浮腫んだ顔に、昨晩、仕事帰りに一人家で酒を幾分多く飲んだことを思い出した。仕事で普段しないようなミスをしてしまって、苛ついていたのが原因だと思った。昨日はなぜ自分があんなに簡単なミスをしてしまったのかわからなかったけれど、鏡の中の顔を見て、少し疲れているのかもしれないと思った。
 同期が次々と結果を出しているなか、なかなか結果を出せない自分への焦りから、最近の僕は過剰と言ってもいいくらいに仕事に熱を上げていた。上司はそんなに焦らなくてもよい、と言ってくれはしたが、そんな訳にもいかなかった。
 僕には結婚を考えている彼女がいた。彼女はIT関連の仕事をしている。具体的にどのような内容の仕事をしているのかは、お互いによく知らない。僕たちは、仕事の話はほとんどといっていいくらいにしなかった。ただ、お互いの給与だけはそれとなく知っていて、僕が思うに彼女は僕と同等か、もしくはそれ以上に稼いでいると、会話の流れから推測した。僕のプライドがそれを許さなかった。過労してしまうまで仕事をしてしまうのは、必然のことだった。
 本来なら今日は彼女と昼から僕のマンションで一緒に過ごすはずだったのだけれど、急な仕事が入ったらしく、休日出勤になったとのことだった。僕はそこまで嫌な気にはならなかった。今は一人で、ただゆっくりとしていたかった。
 せっかくの早起きだったというのに、僕は昼過ぎまでソファに横になりながら、ただテレビを観て過ごしていた。流行りのアイドルが自身の私生活について自虐的に話すと、会場にどっと笑いが起きた。あまりの下らなさに、僕はテレビの電源を消すと、そのまま仰向けになって天井を眺めた。天井に施された幾何学模様を、僕は何を考えるわけでもなく、ただひたすらに見つめていた。

 目が覚めた頃にはもう夕方だった。窓から淡く差し込む斜陽が、それを僕に伝えた。いつ間にか眠ってしまっていた。ふと空腹を感じ、僕はこの日なにも食べていなかったことに気づいた。期待薄に冷蔵庫の扉を開けたが、やはりまともな食べ物は入っていなかった。仕方なしに僕は部屋着からTシャツと短パンへ着替えると、サンダルを引っかけアパートを出た。

 昼の逆光線の余韻を残す、スーパーマーケットまでの道のりを僕は歩いた。ヒグラシの鳴く声が空気中に響いた。蝉の鳴く声を意識的に聞いたのも、今年になって初めてのことだった。
 ふと、視界の横に目がいった。木々が茂るなかに、見慣れない、そこにだけは木が自生できないかのように道が続く、トンネルのようなものがぽっかりと開いてた。その中はまるでどこまででも続いているかのように、暗闇に包まれていた。この道はもう幾度となく通っているが、果たしてこんなものがあっただろうかと思った。僕はおもむろにトンネルへと近づく。すると、中からひんやりとした冷たい風が吹き抜け、僕の全身を撫でた。僕は、吸い込まれるかのようにトンネルをくぐった。

 中はまるで晩秋のように涼しかった。木々の隙間から微かにこぼれる木漏れ日を頼りに、僕は先へと歩いた。どれくらい歩いただろうか。トンネルのなかは、僕の時間の感覚を狂わせた。数分であった気もするし、数時間であった気もした。
 トンネルを抜けると、そこにはまるで、スイスの風景画を思わせるような湖と山々が連なっていた。この街にこんな場所があるはずもないのに、なぜだか僕はそれを不思議に思わなかった。肉眼でかろうじて判別できるほどの距離に、数隻のボートと小屋のようなものが見えた。僕は誘われるように、そこを目指し歩いた。
 それは貸しボート小屋だった。少し強い風が吹いただけで崩れてしまうのではないかと思わせるほどに年月を感じさせる小屋だった。扉に掛かった表札に、ところどころ剥がれ落ちた青いペンキで、「貸しボートあります。」と書かれていた。僕は、ノックをすると扉を開けた。

 ちりん、と乾いたドアベルの音が静かに鳴った。人はいなかった。木造の古びたテーブルと椅子、床に乱雑に散らばる洋書くらいしか、そこにはなかった。生活感というものも、まるで感じられなかった。僕は椅子にそっと腰を下ろすと、足元の本を拾い、ページを開いた。そこには蒸気船のメカニズムが、イラストと共に解説されていた。ところどころわからない単語はあったものの、大体の内容は理解できた。しかし、興味のある本でもないし、僕はテーブルの上にその本をそっと置いた。小さな窓から差し込むオレンジ色の光に、テーブル上のほこりがちらちらと舞った。
 そのとき、ふいに扉が開いた。そこには、おそらく十四五歳ほどであろう少女が、僕の存在に特段驚いた様子もなく、無表情に立っていた。僕はその少女の顔にどことない既視感を覚えたような気がした。彼女はまるで僕など気にも留めていないかのように、僕と反対側の椅子に腰掛けた。
 さらりとしたショートカットの黒髪に、タンクトップとショートパンツという格好だった。多く露出した肌は、小麦色にやんわりと焼けていた。
 彼女は、先ほどまでとはうって変わって、おもむろに意識を僕へと向けた。互いの目が合うと、彼女が言った。
「おじさん、なにしにきたの、こんなところまで」
 彼女は頬杖をつき、静かな声で聞いた。そんなこと、僕自身にもわからなかった。僕は正直にそう伝えた。すると彼女は、ふっと息を漏らして笑った。
「変だね、おじさんって」
 僕は返す。
「さっきからおじさんと言うけど、僕はまだ二十八だ」
 彼女はまた、息を漏らして笑う。
「なんだ、やっぱりおじさんじゃない」
 僕は話題を変えることにした。
「それはそうと、この店は君のご両親のお店かい? 今はお留守番を任されているとか」
 彼女はかぶりをふった。
「ううん、私の店だよ。誰のものでもない、私の店」
 彼女はふいに立ち上がると言った。
「せっかくだから乗っていきなよ。いいものだよ、ボートって」

 杭で留められただけの木製ボートに、僕は乗り込んだ。二人乗りの小さな手漕ぎボートだった。続いて彼女も乗り込み、慣れた手つきで杭からボートを離すと、櫂を漕ぎ始めた。
 あっという間に岸は離れていき、小屋は小さくなっていった。それにしても、太陽は一向に落ちる気配がなかった。斜陽のまま、時が止まってしまっているようだった。
 陽は彼女の露出した肌を鮮やかに照らしていた。
 「どう、乗り心地は」
 彼女は櫂を漕ぐ手を止め、両手を後ろにつくと、穏やかな顔をして僕に聞いた。
「気持ちいいよ、とても。ちょっと仰向けになってもいいかい」
「うん、勿論」
 僕は仰向けに寝そべると、静かに目を閉じた。

 目が覚めると、そこは小屋のなかだった。本を枕に、仰向けに床に寝そべっていた。僕はゆっくりと身を起こす。そこにはもう、少女の姿はなかった。代わりに、一枚の絵画が、美しい彫刻の施された額縁のなか、目の前の壁に飾られていた。恐らく先ほどまでは無かったものだった。
 その印象派を思わせる絵画の中には、僕と少女が描かれていた。それは先ほどまでの二人であった。彼女の服装も景色も、まるで同じだった。ただひとつ違ったのは、描かれた僕は彼女よりも年端の行かない少年の姿である事だった。

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