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【短編小説】花火




 僕はずしりと伸し掛かる重い夜の下にいた。蒸す暑さは、夜になってもしぶとく残り続けた。
 僕の足は僕を前へ進ませる為だけに動いた。意志などといったものはまるで無関係だった。
 すれ違う人々は様々だった。友人と二人して歩きながらからからと笑う、恐らく僕と同じ年頃であろう青年、野球帽を浅く被り、顔にまるで感情を浮かべずに歩く四五十代であろう男、学校帰りと思われる、大学生らしき女。僕にはその一切が醜く、下らない存在に思えてならなかった。この時の僕であれば、浮浪者が通り過ぎようと、僕の全く好みの容姿をした女が通り過ぎようと、関係なしにそれらを侮蔑の目で見る事だろうと思った。そういう心持ちだった。
 僕の足はようやく意志を持った。駅周辺を避けるべくして動いた。五分ほども歩けば人通りはほとんどなくなった。そうなると僕は否が応でも視界に入る、建ち並んだ住宅にさえ先のような感情を抱かずにはいられなかった。軒先に並べられた花壇を蹴り飛ばしてしまいたい衝動を抑えた。全く持って下らない、罪悪の心などといったものが邪魔をしたのだった。僕の足は再び意志を失っていた。
 ふと、輪郭を強く持った満月が目に入った。僕はついにそれにさえも苛立ちを覚えた。暗雲にでも隠れてしまえばよい、などと思った。しかしもしそうなったとして、僕はその雲にすら嫌悪を抱くのだろうと思った。
 僕はこのままいくら歩いたところで自身の気分が晴れぬことを悟り、家に帰ろうと思った。
 道中、開け放った窓から漏れ出すテレビの音声や、風呂場から漏れる湯気に乗った石鹸の匂いが僕をかすめた。僕はそれらに対し敵意にも似た感情が芽生えるのを感じた。その感情はすぐと花を咲かせ実を生らした。
 僕は家に戻る他なかったが、戻ったところでどうなるのだろうとも思った。この夜の徘徊と呼ぶに相応しい散歩は結局、僕に一切の価値をもたらさなかった。むしろ今の自身の心中を夜空に照る月の如く浮き彫りにしてしまったように思った。僕は心底がっくりと来た。一層に肩を落として歩いた。
 家までもうすこし、といった所で、微かな硝煙の匂いが鼻腔を突いた。右路地のほうから薄白い煙が上がるのを見た。子供、恐らく少女が小さく笑う声を聞いた。路地に近づくにつれ、細かな火薬の爆ぜる、か細い音が耳に入った。僕は路地に着くとそちらのほうに目をやった。周囲の家々に比べ一回りほど小さい家の、門の奥にある四畳ほどしかない庭が、手持ち花火の光によって点滅していた。五六の頃合いであろう少女は腰を落とし、激しく噴き出す光を見つめながら僅かな笑みを浮かべていた。少女の横には腰に両手を置いて立つ少年の姿があった。歳は十くらいであろうと思った。光は淡い緑色からピンク色へと色を変えた。少女の顔がより鮮明に浮かんだ。光が変わったことによる為か、少女は口角を大きく上げ、小さな歯を覗かせた。少年は遠くに止まる僕に気付いたが、すぐにまた花火の光に目を戻した。
 僕は、再び歩みを進めた。僕は先の瞬間に限り、持ち合わせていた感情を忘れる事が出来たように思った。

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