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向日葵の日々【小説】



 常人であれば居酒屋の厨房内くらいでしか見る事のないであろう四リットルのボトルに詰められた焼酎を、これも常人であれば見る事のないプッシュ式のディスペンサーからグラス内へと落とし入れる。注ぐ、というよりは、落とす、という表現のほうが正しかった。グラスの半分ほどまで焼酎が満たされると、そこに一リットルの紙パックに入った緑茶を注ぐ。元が二十五度の焼酎であるから、十二三度の緑茶割りが完成した事になった。酔いが回り始めていた事で注ぎ口がグラスから外れ、テーブルの上に酒が溜まった。僕はそれを気にする事なくグラスに口をつけ、包装を解かれテーブル上に散乱したカニカマを頬張った。テレビ画面には今季のなかで最も気に入っているテレビドラマがサブスクリプションアプリにより映し出されていた。僕は画面を眺めながら、流れるシーンが既に観た場面である事に気付いた。リモコンを操作し早送りすると、覚えのないシーンが流れ、僕は早戻しをやめた。仕事を終え帰宅し、シャワーを浴びる前に晩酌をするのが僕の日課だった。明日も六時には起きなくてはならなかったから、一時には寝てしまいたかった。シャワーを浴びる時間を考慮すれば、この日の晩酌はあと一時間足らずで切り上げなければならなかった。今観ているものを含め、二話分が観れれば良いほうだろうと思った。物語は佳境を迎えていた。ドラマはミステリーとタイムリープものを足した、良く言えば続きが早く観たくなるような心を惹きつけるもので、悪く言えばメッセージ性などといったものは皆無な、その時だけを楽しめれば良い、といったような類のものだった。幼馴染である女の子を殺された大学生の主人公は何度もタイムリープを繰り返し、女の子の救出、そして真犯人を突き止めるといった展開だった。ようやく犯人の尻尾を掴み、殺害計画を阻止しようといったところで、突然タイムリープ能力を主人公が失ってしまうという場面だった。僕は物語に夢中だった。酒のせいもあり、僕は多幸感に包まれていた。ドラマは次のエピソードへと移った。
 翌日の朝、スマートフォンのアラームによって目覚めたベッドの上の僕には、そのエピソードの中途以降の記憶が無かった。僕は寝起き直後である事と酒が残っている事で上手く回らぬ頭のままにシャワーを浴び、昨晩にコンビニで買っておいたおにぎりを頬張ると、マンションを出た。

 僕の足取りは毎度のように重かった。ブルートゥースイヤホンから流れるお気に入りのロックバンドの曲も、僕の感情を一切動かさなかった。流れる音楽を気に留めていられないほど、僕の心には余裕といったものが無かった。今日もまた労働をしなければならないという事実が、僕の心一杯を負の感情で満たしていた。急行電車に乗り三駅ほどが過ぎれば勤める会社の最寄駅だった。駅に着くと僕は毎度のようにそのまま下り電車に乗り自宅に引き返してしまいたい衝動に駆られた。幾度となく実行に移そうと試みたものの、やはり最後の踏ん切りがつかず、僕の足は会社へと向かった。その一瞬の、諦めのような感情が僕を思考停止させるのだった。逆に言えば、思考停止するからこそ会社に向かう事が出来るとも言えた。
 八階建てオフィスビルの六階に位置するオフィスへとエレベーターで上がった。ドアを開けると、数人の社員が既に作業を始めていた。僕はデスクに着き、勤怠管理ソフトの出勤ボタンをクリックすると、やり掛けであった作業に再び取り掛かった。僕はシステムエンジニアであった。依頼を受けたハウスメーカーのホームページを刷新する為、その基盤の設計を任されていた。勤める会社は中堅企業と言って良かった。給料も今の僕の年齢からしては平均的なものであった。
 大学に在学中、いよいよ就活活動というものに手を出さなくてはならなくなった僕は、自身がコンピュータ関連の技術には他の学生より多少の自信を持っていたこともあって、IT関連の企業に絞ってエントリーシートを提出し、面接を受けた。多くの企業に弾かれ続け、初めて採用通知を受けた会社が僕の勤める会社だった。この会社より志望度の高い企業を目指す事も可能ではあったが、就職活動というものに甚だ嫌気が差していた僕は採用を受諾した。このとき僕は、自らの人生がとてつもなく空虚な、詰まらないものになることを確信した。これからの人生に嫌気が差した。そしてそれは現実となった。
 僕は現代社会人として最低限の生活が出来るのであればそれで十分だった。それなりのマンションに住み、それなりの物を食べ、それなりの服を着て生活した。それ以上を求めなかった。というよりは、それ以上の何かが自分にとって何であるかがわからなかった。きっと多くは、そこに女を求めるのだろうと思った。しかし僕にはその欲求がまるで無かった。性的な意味では無論興味はあるが、それ以上を求めようと思えなかった。つまり、性的な関係を持ちたいといったような欲求はあるが、交際にまで発展させたい、とは思えなかった。気が向いた時に風俗にでも行けば、女に対する欲求というものは満たされた。僕は風俗店で働く女との関係性が好きだった。互いに干渉し合う事もなく、自身の欲求を満たす事の出来る関係が僕には合っていた。
 最後に女と交際したのは恐らく十年ほども前の事で、大学生の頃だった。最後であり初めての交際だった。その頃はまだ良かった。初の交際だったからこそ良かったのかもしれない。交際する女だからこそ許される特権といったものを行使するのが堪らなく楽しかった。それは性的な事は勿論、日常的な俗な事もだった。しかし一年も経つ頃には僕はその特権の行使といったものに飽きを感じ始めていた。要するにそのような関係に慣れてしまった。そうなってからは彼女と過ごす時間が無意味で退屈であるように思った。僕は彼女との、交際相手であるからこその関係そのものに惹かれていただけだったのだろうと思った。彼女自身を愛していた訳ではなく、関係性を愛していたのだった。僕は彼女に別れを告げた。
 それから三年ほどが過ぎた頃、僕は知人の紹介を通じ、再び女と交際する事となった。当時仕事に追われ精神的に余程参っていた僕は、女との関係性を再び求めたのだった。大学時代の彼女には性的な魅力を感じたものだったが、その女に対してはそういったものは一切感じなかった。ただ、相手が僕に好意を持っているという事を知人から聞き、それならば、と交際を始めた。容姿も精神的な性質も並なものである僕の何処に好意を抱いたのかを聞いたとき、彼女はまず顔がタイプである、と言った。
 彼女とも一年ほど交際を続けたが、やはり関係性というものに飽き、別れた。僕は女そのものを愛した事が無かった。女を愛す事が出来れば僕の人生は少なからず華やかなものになるのではないか、と夢想した。しかし現在に至るまでそのような経験はなかった。女を愛する能力が欠如しているのか、そのような女にただ出会えていないだけなのかはわからないが、なかった。そしてやはりそのような僕の人生は空虚であった。
 女が全てではない、という論も僕には理解出来た。男女問わず、そういった異性間に生じる幸福感など無くとも、それ以外に幸福を求め、それを掴む事に成功している者が存在する事も、無論知っていた。仕事の達成度にそれを感じる者、それによる報酬により感じる者、趣味などに感じる者もいるだろうと思った。しかし僕はそのどれにも該当しなかった。最も近いもので言えば晩酌をしながらのテレビドラマ鑑賞であろうが、それがあるから充実した日々を送れているかと言えば、そうとは言えなかった。やはり、空虚な人生、という言葉が僕には最もしっくりと来た。
 昼休憩の時間になり、僕は財布とスマートフォンを手にすると一人ビルを出た。昼食はほとんど近くの牛丼チェーンで済ましてしまうのだが、この日は久しぶりに違う店に行ってみようと思い立った。初夏の快晴の空がそう思わせたのかも知れなかった。
 僕は恐らく数ヶ月ぶりにその店の暖簾を潜った。老夫婦が切り盛りしている蕎麦屋だった。夫のほうが厨房に立ち、妻のほうがホール業務を担当していた。狭い路地に控えめな店構えで鎮座したその店は、厨房を除けば十畳ほどの小さな店だった。僕を含め四組が入店していて、あと一組でも入れば満席と言った具合だった。にこやかな老婦が冷やを僕の着いたテーブルに置くと、僕はざる蕎麦をひとつ頼んだ。老婦はにこやかに去っていった。運ばれたざる蕎麦は美味かったが、喜びを感じるほどでも無かった。それはざる蕎麦の味がその程度だったと言う訳では無く、僕は食に対してもさほど興味関心がなかった。口にするものは不味くなければ良い、と言った程度の考えだった。以前はそうではなかった。美味い食べ物は好きだったし、それを食す際には幸福感を得たものだった。いつからか、僕はそれを失った。やはりとにかく、僕の人生は他者のそれと比べ、満足度のようなものは低いのだろうと思った。
 昼食を終え仕事に戻ると、僕は二十時に退勤するまで無心でパソコンのキーボードを打った。ただデータを入力する訳ではなく、思考しながらでなくては出来ない仕事であるから、無心と言う表現は間違っているのかもしれないが、僕にはその表現が最も適切であると思えた。思考しながら無心で、仕事を終えた。



 マンションに帰るとスーツから部屋着へと着替え、グラスに氷を放ると焼酎と緑茶を注いだ。明日は土曜日であったから、いつもより深酒する事が出来ると思った。サブスクリプションアプリではドラマを最終話まで視聴した事になっていた。再生を停止しなかった事により自動再生でそうなったのだろうと思った。僕は記憶を頼りに何話の、どの箇所まで観たのかを探した。早送りや早戻しを繰り返し、ようやくそれを探し出すと、僕はグラスに口を付け、続きを視聴した。三時を回る頃には最終話まで視聴する事が出来た。記憶も一応は保っていた。ドラマは良作と言って良い出来であると思った。酒による多幸感が僕を包んだ。虚無たる幸福感である、と僕は曖昧な意識の中で思った。

 アラームが鳴り目を覚ました。額に触れ、指先につく皮脂が少ない事を感じ、記憶はまるで無いが昨晩シャワーを浴びていた事に安堵した。僕は身体を起こすと、残った仕事を午前中には終わらせてしまおうと思った。午後は買い物に出たかった。以前ネットで目にし気になっていた観葉植物を買おうと思った。予定通り午前中には仕事を終え、僕はTシャツとチノパンに着替えるとマンションを出た。予め目星をつけていたグリーンショップへと電車で向かった。僕は植物が好きだった。生命を感じるものを生活の拠点に置いておきたかった。動物も嫌いではないが、一人の時間を邪魔される気がしてペットを飼いたいとは思わなかった。それは水槽に閉じ込めた魚などであっても同じだろうと思った。
 車内、実家で暮らす母から電話があった。僕は後で掛け直そうと思った。

 初めて来る店だった。店内には所狭しと鉢に植えられた様々な植物が置かれ、それは店外にも溢れていた。僕は目的の植物の場所を店員に尋ねた。その植物の元へ案内され、ネットで見たイメージ通りである事を確認すると、購入したい旨を伝えた。来週には配送してもらえるとの事だった。僕はその他の様々な植物も見て回った。もう一本くらい買っても良いように思ったが、二つの植物が置かれた部屋を想像し、辞めた。生命力を過度に感じてしまうように思った。僕は店を出ると母に電話を掛けた。最後に母と話したのは年末に帰省した時であるから、六か月ぶりであった。母はすぐに出た。母はまず僕の体調や近況の心配をした。僕は特に問題のない事を伝えた。多少の他愛もない話を終えると、母は出し抜けに本題を話した。
「ミナたち、今年で結婚して十年になるらしいのよ。早いものだよね、ソウタ君だってもう今年で三年生になるって」
 三年生。まだ小学生だったよな、などとぼんやり考えた。
「ヨウジさん、夏に一か月間長期休暇を取る事にしたって連絡が来てね。結婚十周年の記念に、ミナと二人でヨーロッパを横断する旅行に出るらしいの」
 それでなんだけどね、と母。
「その間、うちでソウタ君を預かってくれないかって言うのよ。私、言ったのよ。ソウタ君が寂しがるんじゃないかって。元々は勿論、ソウタ君と三人での旅行を考えていたらしいんだけど、あの子、せっかくだから二人だけで行ってきなよ、なんて言ったらしいの。確かにあの子、海外があんまり好きじゃないらしいのよね。前に三人でグアムに行った時なんて、僕は日本のほうが落ち着くから好き、だなんて言ったらしいから。それにもしかしたら、あの子なりに気を遣っているのかもしれない。それで一か月、うちで預かるっていう話になっていたんだけど、お父さん、また体調を崩して入院したでしょう。私がついていてあげないとどうしようもないのよ」
 僕は、なんとも嫌な予感がしたのだった。
「ソウタ君、シュウイチのところでお世話してもらえないかな、ってね。お願い出来ないかしら。あなたも仕事があるから難しい事だとはわかっているんだけど。無理だって事なら、ソウタ君にも旅行に行ってもらうしか無くなるんだけど」
 僕は答えた。
「うん、それでいいんじゃないかな。確かに記念旅行な訳だから、姉さんたちも二人きりのほうが良いのかもしれないけど、母さんたちが預かれないのなら、仕方ないよ」
「まあ、そうよねえ」
 姉さん達もきっと本当は二人での旅行がしたいのだろうと思った。僕もそうしてもらいたいという気持ちはあるが、それにより一か月もの間、甥っ子を預かる気など、とてもなれなかった。姉さん達には悪いが、三人での旅行となってしまうのは致し方ないと事だと思った。
「ごめんね、無理言っちゃって。じゃあ、ミナにそう伝えておくわね」
 そして母はまた、僕の体調や仕事を労い、電話を切った。

 僕はその後、用も無く新宿の商業施設を見て回ったり、御苑内を歩いたりして、日が暮れる前にはマンションへと戻った。
 僕は市販のトマトソースを使った簡単なパスタを作り、ニュース番組を眺めながらそれを食べた。
 パスタを食べ終え皿とフォークを軽く濯ぐと食洗機へと並べた。そして食器棚からグラスを取り出すと、氷を入れた。グラスと焼酎ボトル、割材のペットボトル入り緑茶を手にしてテーブルに戻った。テレビのアプリを起ち上げ、ドラマの続きを再生した。三話分を観終える頃には、封の開いていなかった二リットルボトルの緑茶は尽きかけていて、僕は相当に酔った。こうしてまた休日を終えるのだろう、と思った。ふと、スマートフォンが鳴った。姉からのLINEだった。
『ひさしぶり〜!
お母さん、シュウイチのところにも連絡したんだってね。ごめんね。
家族旅行として楽しんでくるから、全然気にしないでね。
お土産、なにがいい?
やっぱりお酒?』
 僕は既読をつけたまま、ソファの背もたれに首を乗せて天井を眺めると、考えた。僕に姉を思い遣ろうとする気持ちが芽生えた。それは、きっと酒のせいでもあった。
 そして、こう返した。
『いいよ。
こっちで預かっても。
ソウタ君がそれでも良いって言うのだったらだけど。』
 僕はその直後、思い直して送信を取り消そうとしたが、送ったメッセージには既に既読が付いてしまっていた。姉からは、感謝のメッセージが返った。



 僕は昨晩のメッセージを悔いていた。酒を飲んでいなければ、決して送る事のなかった内容であったと思った。
 勿論、姉夫婦の為には良かったのだろうが、こちらの負担が大き過ぎると思った。彼の分の生活費は、感謝も込めて多めに送ると言っていたが、そういう問題では無かった。そもそも金の心配などはしていなかった。仕事は在宅勤務に切り替える必要があると思った。勤める会社は出社しようが在宅勤務であろうがどちらでも構わないといった方針だった。過半数の社員は在宅勤務を選択していた。僕を含めた出社組は、在宅での勤務だとどうも仕事への気持ちの切り替えが難しかったり、一日中家に籠る事への嫌悪が強かったりした。要は心持ちの問題だった。僕は上司に七月の後半から八月の終わりに掛けて在宅勤務を希望する旨を伝えた。いよいよなんとも憂鬱な夏を過ごさなければならないのだと思った。
 僕は、彼と最後に会ったのはいつであっただろうか、と考えた。五年前の年末に久しぶりに帰省した際、姉夫婦も帰省していて、恐らくその時以来だろうと思った。彼は実に三歳児らしい振る舞いをしていたように思った。戦隊もののおもちゃの剣を振り回していた映像が思い出された。僕が話し掛けても、恥ずかしそうにそっけの無い返事をして母親のほうへと走って行ってしった記憶が蘇った。五年もの時が経ち、彼はどのような少年に成長したのだろうか、と考えた。姉夫婦の子供であるのだから、きっと良い子ではあるのだろうと思ったし、そうであって欲しいと思った。それは彼の事を思ってでは無く、一月後の僕の為だった。

 相変わらずな日々を送る僕にとって、一ヶ月という月日は瞬く間に流れた。いよいよ明日から彼を預かるのだと思うと、僕は辟易した。彼の分の布団や歯ブラシといった、生活用品は一通り揃えた。足りないものがあればその時に買おうと思った。明日からの一か月間は心が休まる日といったものはきっと無かった。僕の犠牲によって姉夫婦の旅行が良いものになる事だけを願った。



 いよいよ彼を受け入れる日となり、僕は姉夫婦と彼を待った。彼を僕に預けると、そのまま空港へ向かって日本を発つという事だった。約束の時間より十分ほど早く、インターホンのチャイムが鳴った。僕は仕事を中断してノートパソコンを閉じると玄関のドアを開けた。そこには姉夫婦と、二人の後ろに隠れた彼の姿があった。随分と背が伸びたと思った。二人は僕に感謝と謝罪のような言葉を並べた。しかしこれからの旅の楽しみが顔からは滲み出ているように思った。姉は一月分の彼の生活費と謝礼が入っているという封筒を僕に手渡した。そして彼の着替えやらが入ったキャリーケースを受け取り、僕は玄関に上げた。今回の礼と暑中見舞いも含めて、と高級果物店の名が記された礼物も受け取った。
「ほら、ソウタ、おじさんに挨拶しなさい」
 姉が相変わらずに二人の後ろに隠れたままの彼に言った。彼は姉の後ろから姿を見せると、
「こんにちは、今日からよろしくおねがいします」
 と言って、ぺこりと頭を下げた。僕は彼を玄関へと上げ、姉夫婦に選別の言葉を送った。姉夫婦は感謝の言葉と、彼に向け、僕に迷惑を掛けないようにだとか、良い子にしていなさい、などと言った。彼は俯きながら、うん、と頷いた。僕は姉夫婦と別れの挨拶を交わし、玄関ドアを閉めた。彼を見やると、彼は相変わらずに俯き、黙っていた。僕はおいで、と彼に言いながら片手に礼物を、もう片方でキャリーケースを引きリビングへ向かった。彼は僕に続いた。
 僕はテーブルに礼物の箱を置き、キャリーケースを横にすると開けた。中には衣類と、過剰なほどの生活用品が隙間も無いほどに詰め込まれていた。彼はリュックサックを背負っていて、生活用品以外の物はそこに入れてあるのだろう、と思った。彼は何処かに座る様子もなく、きょろきょろと室内を見渡した。
「ほら、そこのソファーにでも座りな」
 そう声を掛けると彼はリュックサックを肩から降ろし、三人掛けのソファーにちょこんと座り、リュックサックを両手に抱いた。
「そう言えば、朝ごはんはもう食べたのか」
 僕は訊いた。
「うん。車のなかで、おにぎり食べた」
「そっか。せっかく東京に来た事だし、どこか行きたい所とかあるか?」
「ううん」
「俺と何かして遊ぶ?」
「大丈夫」
 彼は表情を浮かべないままに手を遊ばせて言った。
「じゃあ、アニメでも観る?」
 僕はテレビのサブスクリプションアプリを起動し、彼にリモコンを渡した。好きなアニメのタイトルをリモコンに向けて話せば音声認識機能でそのアニメを観る事が出来ると伝えた。彼はいかにも小学生向けといったアニメを視聴し始めた。
 彼はアニメに夢中といった様子だったので、何かあったらいつでも呼んで構わない、と伝えると、僕は書斎へと入った。僕はオフィスチェアに浅く腰掛けると、背もたれを目一杯に倒し、大きく溜め息をついた。僕は再び、姉にあのようなメッセージを送ってしまった事を悔恨した。先ほど少し彼と話しただけでストレスを感じた自分がいた。僕は気を紛らわせようと、デスクに置かれたパソコンを開き、昨日から持ち越していた仕事に取り掛かった。僕はやはり在宅勤務には向いていないと思った。集中力がまるで続かなかった。気付けば休憩中に読むために置いた小説の文庫本へと手が伸びていた。会社勤務のときよりも、半分は作業効率が落ちていた。僕は仕事の邪魔になるような物をリビングへ持ち出そうと思った。本、スマートフォンを手にリビングへ出た。彼はアニメ番組に飽きてしまっていたらしかった。ソファーに腰掛けながら、なにやら本を開いて読んでいた。僕は持ち出した物をチェスト上に置くと部屋に戻った。作業を続けていると、ふとインターネットブラウザを起ち上げてしまいそうな自分に気付いた。誰の目もない状況下だと、どうしても気が散った。僕にはやはり在宅勤務というものは丸っ切り向いていなかった。
 それでもどうにか午前中までに一区切りをつけ、僕と彼は昼食を取らなければならないと思った。僕はリビングへ戻った。彼は変わらずに本を読み続けていた。背後からその本を見ると、それはどうやら小説のようだった。すっかり漫画本か何かだと思っていた僕は少し意外に思ったが、夏休み中であるし、読書感想文の為にでも読んでいるのだろうと思った。
「なにを読んでるの」
 僕は訊いた。
 彼は突然の背後からの声に驚いた様子で、肩をびくりと上げた。振り返り僕を認めると、本を閉じて言った。
「ゾロリ」
「ああ、俺も子供の頃によく読んだな。どう、面白い?」
「うん。でもハリーポッターのほうが好き」
「本が好きなのか」
 彼は、
「すき」
 とだけ答えた。
「お腹空いてきたろう。何処かへ食べに行こうか。なにか食べたいものとかある?」
 彼は答えなかった。
「遠慮しなくていい。お母さん達からソウタくんのごはん代はもらっているんだし」
 そう言うと彼は、
「ハンバーグが食べたい」
 と言った。

 僕と彼はむせ返るような夏の中に出た。少しの薄い雲が斑に浮かぶだけで、ほとんど快晴と言って良かった。太陽が痛いほどに身体に照り付いた。僕と彼は近くのファミリーレストランへと向かった。それにしても彼はおとなしかった。僕が話し掛けても、一言二言を返すだけだった。僕は言った。
「お母さん達が旅行に行くって言ったとき、ソウタくんのほうから、二人きりで言って来な、なんて言ったらしいね」
 彼は少し置いて、
「うん」
 と言った。
「立派だな。ソウタくんくらいの歳だとまだ両親とは離れたくないだろうに」
 彼は黙っていた。

 ファミリーレストランに着くと、窓際の席に着いた。僕は彼にランチメニューを渡してやった。少ししてそれを僕に返した。
「決まったか」
 彼は、うん、と頷いた。
「どれにする」
「この、ハンバーグとチキンのやつ」
「俺もそれにしようと思ってたんだ。これを二つ頼もう」
 僕はテーブル端に置かれた呼び出しボタンを押した。僕は店員にハンバーグとチキンのセットとドリンクバーを二つずつ注文した。僕は彼の緊張をほぐしたい気持ちがあったが、きっと慣れの問題だろうと思った。
 僕はコーヒーと彼のオレンジジュースをドリンクバーで注ぐとテーブルへと戻った。
「この一か月、ソウタくんには何かやる事がないといけないな。宿題とかゲーム以外の、何か。勿論毎日家でゲームをしても本を読んでも良いんだけど、それだけだと息が詰まるだろう。自由研究は何をするか決めてるの?」
「ううん、まだ決めてない」
 僕は彼との会話に疲れを感じた。子供といえども多少の気を遣ってしまうのだった。僕はポケットからスマートフォンを取り出すとニュースアプリを起ち上げ、読んだ。特に気になるような記事は無かったが、彼と話しているよりは余程マシだった。僕はあと一か月もの間、彼と過ごさなければならないという事実にうんざりした。それは彼がどうこうという問題ではなく、無論、僕の問題であった。更に言えば、大人であろうと子供であろうと、長期間を他人と過ごす事はやはり僕には向かなかった。しかしもし美人の女であったならば、僕の心持ちは多少変わってくるかもしれないと思った。しかし、だとしても一か月は長過ぎた。数日間は楽しく過ごせても、それ以降はきっと僕の生活を脅かす存在となるだろうと思った。僕には他人と過ごすという事、それ自体が向かなかった。ハンバーグとチキンのセットが二つ運ばれると、僕達は食べた。その間、会話という会話はまるでなかった。彼がドリンクを飲み終えると、おかわりはいるか、などを訊いたくらいだった。二人して食事を終えると、店を出た。
 マンションまでの道中、僕は訊いた。
「俺は夜ご飯の時間まで仕事をしなくちゃいけないんだ。それまではソウタ君の好きな事をしてていい。宿題でもゲームでも、アニメを観ても本を読んでもいい」
 彼は頷いた。
「そうだ、本を買ってやろう。少し歩いた所に本屋がある。好きな本を、何冊でも買っていい」
 彼は俯きがちな顔を上げて僕を見た。
「いいの」
「勿論。目当ての本でもあるのかい」
 彼は頷き、
「好きなゲームのキャラクターのことが書いてあるずかんがあるの。でもぶあつい本だから、ちょっと高いかも」
「値段なんてどうでもいい。よし、それを買いに行こう」
 彼はようやく顔を綻ばせた。

 その本屋に彼の望む本は置いていなかった。店員に聞くところに寄ると、人気の本であって既に売り切れてしまった、との事だった。彼は残念がった様子で、他の本を探す、と言った。彼の表情からは落ち込んだ様子が見て取れた。僕は本を探す彼に目当ての本の名を訊いた。そして駅の反対側に位置するもう一つの本屋に電話を掛けた。その店にはまだ在庫が残っているという事だった。電話を切ると、彼に言った。
「もう一つの本屋にはまだ置いてあるらしいんだけど、行くかい。少し歩く事にはなるけど」
 彼は静かに表情を明るくさせると、うん、行く、と言った。

 僕達はその店までの十五分ほどを歩いた。僕は仕事の開始時刻が遅れてしまうことを憂いた。急ピッチで取り掛からなければ夕食時までに終わらせられないと思った。とは言え、それは僕自身で決めた期日であって、三日後までに作業が完了していれば問題はなかった。しかし僕は自身で設定したその日のうちに、終わらせたいところまでは終わらせてしまいたかった。予定を狂わせるのは、極力避けたかった。初日からこの様子では、彼が帰るまで、僕が僕の望む時間を過ごす事は難しいと思った。彼の欲するその本が少しでも僕の時間を確保してくれたらよい、と願った。店に着き、彼は目当ての本を見つけたようだった。僕はそれを受け取ると、支払いを済まし彼に渡した。彼は、ありがとう、と言ってその本を抱きしめるように抱えた。
 マンションまでの道中も彼はずっと本を抱えたままだった。余程欲しかった本だったのだろうと思った。
 僕はまた、何かあったら直ぐに言いなさい、と彼に言い残し、書斎に籠った。僕は毎日でも彼の好む本を買ってやろうと思った。それにより彼が退屈する事なくこの一か月を過ごせれば良いと思った。時折共に外出して気分転換をさせれば良い、と思った。やはり僕は出来る限り自身の生活を脅かされたく無かった。最低限、とまではいかなくとも、それなりの一か月間を彼が過ごせればそれで良いと思った。僕は出来るだけ彼と干渉する事無く過ごしたかった。
 その日の晩、出来合いのパスタソースを使ってミートソーススパゲッティを作り、二人で食べた。簡単に手早く作れる事から、僕が普段からよく食べているものだった。僕はスパゲッティを頬張る彼に訊いた。
「買った本は面白かった?」
 彼は、
「うん。味方のワザの名前とか、てきの弱点とかがたくさん知れた」
 と言った。
「全部読み終わったの?」
「ううん、まだ最初のほう。文字がたくさんあるから、なかなかすすまないんだ」
 僕はその言葉に安堵した。暫くの間は、あの本に彼を任せておけば良い、と思った。
「ゲームはやっていないようだけど、やりたくなったらいつでも勝手にやっていいんだよ。」
 彼は、うん、と頷いた。

 食事を終えると彼に風呂に入るよう促した。僕はソファにだらり、と腰掛け、缶ビールを開けた。彼の起きている間は普段のように酒は飲めないと思った。僕は彼に早く寝てしまって欲しい、と思った。三十分ほどが経ち、パジャマに着替えた彼がリビングへと戻った。
「おじさん、ドライヤーはどこ?」
 と彼が訊いた。
「ああ、ごめん」
 僕は洗面台の戸棚の一つを開け、彼に場所を教えた。使い終わったら元に戻して欲しいとも伝えた。彼は了承し、髪を乾かし始めた。再び彼がリビングへ戻ると、僕はキャリーケースに入った歯ブラシを彼に渡した。歯ブラシとコップには人気アニメのキャラクターが印刷されていて、僕も昔はそのアニメをよく観ていた事を思い返した。彼はそれを受け取ると、洗面台へと戻って行った。彼は後は寝るばかりの状態となってリビングに戻った。僕は缶ビールを飲み終え、ソファで仕事に関するウェブ系のハウツー本を読んでいた。彼も少しの間、同じように例の本を読んでいたのだが、何やら落ち着かない様子が見て取れた。すると僕に、
「おじさん、すこしだけゲームしちゃだめ?」
 と訊いた。まだ二十時前であったし、構わないと伝えた。彼は顔を綻ばせると、リュックサックからゲーム機を取り出し、そそくさとテレビへと繋いだ。僕に遠慮をしていたのだろうと思った。彼は僕も知るシリーズのロールプレイングゲームを起動した。画面中央に位置したキャラクターが美麗なグラフィックで描かれたフィールドを駆け回った。キャラクターがモンスターに出くわすと、彼は手慣れた様子で斬撃を浴びせ、次々とモンスターを倒していった。彼はテレビ画面の中の世界に夢中だった。僕は最近のゲーム機の進歩に感心しながら、ぼうっと考えた。僕が彼の年頃だった時を回想した。その頃の僕は、テレビゲームは勿論、世界のあらゆる事に夢中だった。サッカーボールが転がれば必死で追いかけたし、珍しい虫を見つけただけで大喜びだった。自転車に乗れば何処にだって行けるような気がした。子供には子供の、大人には大人の良さというものがある、と言う者がいるが、僕にはそうは思えなかった。ただ生きる事への辛さが増していくだけなように思ったし、自身が実際にそうだった。僕はふと、彼のこれからを思った。不憫で仕方が無かった。彼が僕ほどの年齢になったとき、僕とは違う、生きる実感を持った人生を歩んでいく事が出来るのだろうか、と考えた。僕はソファに座り、ゲームの音をBGMに本の続きを読んだ。区切りの良いところで本を閉じると、テレビ上の掛け時計を見た。二十一時を少し過ぎた頃だった。僕は姉から二十一時台には寝かせて欲しい、と頼まれていた。
「そろそろ寝る時間だな。セーブ出来るか」
「うん、もう少しで次の村に着くから、そこでセーブする」
 彼の言う通り五分ほどでキャラクターは次の村に到着した。彼はキャラクターを宿へ向かわせると、データをセーブした。僕は彼を来客用の寝室へと案内した。このマンションに住んで三年ほどになるが、この日まで来客が来た試しは無かった。彼が初めての来客だった。その部屋はビジネスホテルの一室のようだった。テーブル上に鏡さえ置いてしまえば、まるそのものだった。僕はキャリーケースを室内に入れ、彼にリュックサックもこちらに置いてしまおう、と言った。彼はリビングへ戻りリュックサックを抱えて来るとテーブルに置いた。事前にエアコンを点けていたから、室内は寝冷えしないほどに涼しかった。
「眠れそうかい」
 僕は訊いた。
「うん」
「寒かったり暑かったりしたら、そのリモコンで調整するんだよ」
「わかった」
「じゃあ、おやすみ。七時頃には起こしに来る」
「わかった。おやすみなさい」
 僕は電気を消し、部屋を出た。
 どっと疲れた心身のままにソファに横になった。彼が寝てようやく心が解放されたように思った。彼が眠れるよう、最小限の音量でテレビを点けた。スポーツニュース番組を横になったまま暫く眺めた。ようやく風呂に向かえるほどに回復すると、僕は浴室へと向かった。

 風呂に浸かりながら、明日の仕事について考えた。予想していた通り、在宅での仕事は作業効率の低下が著しかった。僕は自身を奮い立たせなければならない、と強く心に決めた。白濁色の入浴剤が入った湯に、彼の短い髪の毛がゆらゆらと浮いた。

 普段使う事のないドライヤーの弱機能で髪を乾かした。いつもの二倍は時間が掛かった。僕はキッチンに置いた四リットルボトルの焼酎を手にリビングへ戻った。グラスに氷を入れ、ディスペンサーから焼酎を注いだ。そこにペットボトルの紅茶を注いだ。僕はそれを一息に飲み干した。点いたままのテレビから映画番組が流れた。家庭用の人型ロボットが普及した近未来を舞台に、一台のロボットと様々な人間との交流、ロボットの半生を描いたものだった。ふと、このロボットが現実に存在したならば、僕が彼を預かる事など無かったのだろう、などと思った。
 スマートフォンの通知音が鳴り、僕は画面を点灯させた。姉からのLINEだった。無事に現地に着いた、という事と、空港前で義兄と撮った写真の、二件が届いた。僕はそれに返した。
 彼を預かる事は僕にとってストレスでしかなかったが、預かって良かった、と思った。二人には存分に二人だからこその旅を楽しんで来て欲しいと思った。大分酒が回り、睡魔に苛まれながらもエンドロールまで映画を観た。時刻は三時を過ぎていて、僕は眠らなくてはならないと思った。



 アラームにより目を覚ました。ナイトテーブルに置かれた時計は八時丁度を示していた。映画を最後まで見終えたところまでは覚えていたが、その後の記憶がなかった。いつの間にかベッドに横になり、眠ってしまっていた。これは毎度の僕のルーティンと言ってもよかった。ベッドを降りるとトイレに向かい、便器に腰掛けた。溜まった尿意を便器内に放った。僕は彼を起こそうと客室へ向かった。ドアをノックし、部屋に入った。彼は既に起きていた。ベッドに足を垂らして座り、買った本を読んでいた。テーブルの上には特撮ヒーローのお面を形取った時計が置かれていた。寝る前にタイマーをセットしたのだろう、と思った。
「おはよう」
 と僕は言った。彼は本を閉じベッドに置くと、
「おじさん、おはよう」
 と言った。
「朝ごはんを作るから、リビングで待っていてくれるか」
 彼は頷くと、本を手に取った。

 久しぶりにキッチンに立ったと思った。僕は朝食をとるという習慣をいつからか消失させていた。温まったフライパンにサラダ油を敷き、ハムを四枚置いた。油と水分がぶつかり弾ける音が、続くリビングまで届いた事だろうと思った。ハムが薄茶色に色付くと、火を弱め、生卵を二つ落とし入れた。出来るだけ見栄えを良くする為に僕はフライパンを傾け回し、それぞれの白身はその身を白く現しながら固まっていった。僕はフライパンに蓋をし、黄身が固まるのを待った。僕は彼に黄身の焼き加減を聞き忘れていた事に気付いた。ソファに座り本を開いていた彼に聞こえるよう、声を張り訊いた。
「目玉焼きを焼いてるんだけど、固めがいいとか、半熟がいいとかあるかい」
 彼は、
「固いのがいい」
 と、恐らく言った。換気扇と油の音でしっかりと聞き取れなかった。僕は弱火にし蓋をしたフライパンを眺めた。眺めながら、やはり数日に一回は彼の為に時間を割かなければならないと思った。家に篭りっぱなしというのは気の毒に思った。僕は今日もやはり憂鬱だった。今回の一件で良い思いをしているのは姉夫婦だけだった。彼も本心は実家で過ごしたいに違いなかった。友達と遊びに出掛けたいのだろうと思った。それが親戚の叔父と二人での共同生活となったのだ。僕が彼の立場ならば、さぞ憂鬱だろうと思った。僕と彼の共通点と言えば、二人ともこの夏を憂鬱に過ごす事になるという事だろう、と思った。
 昨晩にスーパーで買っておいたカット済みのレタスサラダを皿に盛り、その隣に白身に二枚のハムが付いた目玉焼きを乗せた。木椀にインスタントの味噌汁の素を入れ、沸いたケトルの湯を注いだ。電子レンジにかけたパックごはんを茶碗に移し替えると、それらをダイニングテーブルへと運んだ。並べ終えると、彼にこちらに来るように言った。
 目玉焼きに僕はソースをかけ、彼は醤油をかけた。彼の為に買ったオレンジジュースを二つのグラスに注いだ。彼はナイフで切り離し半分になったハムを口に運び食べた。
「今日は仕事が忙しいから外に連れていけないかもしれない」
 と僕は言った。彼は黙って頷いた。彼は言葉にこそ出さなかったが、その表情からは落胆が伺えたように思った。僕はやはり気の毒に思った。僕は家の中で彼と遊べる何かはないだろうかと考えた。彼を一日中一人にさせるのは可哀想に思った。しかし共に外へ出てやろうという気にもなれなかった。二人で遊べる対戦型のゲームソフトでも買ってやろうかと思った。それならば僕も仕事の気分転換になるのではないかと考えた。僕は彼に二人で遊べるおすすめのゲームソフトはないか訊いた。彼は一つのタイトルを答えた。それは僕も子供の頃によく遊んだゲームだった。僕はそのゲームがリニューアルを繰り返しながら未だに新作を出し続けている事に驚いた。僕はそのゲームをネットで注文しようと決めた。彼は僕よりも先に朝食を平らげると、きちんとそれらを流し台へと運び、水に漬けた。そうしてまたソファへと戻って行き、本を開いた。僕は感心した。姉夫婦のしつけの良さが見て取れた。
 僕は自分と彼の食器を食洗機へ入れ、液体洗剤を指定の注ぎ口に流し入れると電源を入れた。昼食時まで仕事をしている、と彼に伝え、僕はリビングを後にした。
 やはり幾分作業効率を落としながらも僕はクライアントの要望に出来る限り沿ったホームページのシステム構築作業を続けていた。集中して仕事に掛かるまでには、出勤していた時よりも時間を要したが、一度集中さえしてしまえば時間を忘れて没頭する事が出来た。作業がひと段落し、モニター下に表示された時計に目をやると、十二時を回る頃だった。僕は作業データを保存するとモニターを閉じた。外食に出るのは億劫であった僕は、ネットの宅配サービスを使おうと考えた。店は彼に選んでもらおうと思った。
 書斎のドアを開けると彼はソファに座りテレビゲームをしていた。暗い洞窟らしき空洞内を、キャラクターがランタンを片手に歩いていた。ふいに暗闇から敵であるモンスターが現れると、彼は器用にキャラクターを操作し、剣で斬撃を与え、倒した。なにか青色に光る球体のアイテムがモンスターから飛び出すと、彼はそれを拾った。
「そろそろお昼にしようか」
 と、僕は言った。
 彼は振り向きこちらを見ると、こくりと頷いた。僕はスマートフォンを彼に手渡し、どこでも好きな店を選ぶように言った。彼は迷わず大手ハンバーガーチェーンを選んだ。
「こんなところでいいのか。もっと普段食べないようなものにしたほうがいいんじゃないか」
 しかし彼は、
「ううん、ここがいい」
 と言った。
 それならば、と僕はメニューから商品を選ぶように言った。彼からスマートフォンを返され、僕も続けて希望する商品を入力した。注文を確定すると、画面には二十分ほどで到着すると表示された。彼は再びキャラクターを動かし始めていた。空洞の先に光が差し始め、キャラクターは大きな湖の広がる丘に出た。

 チャイムが鳴ると僕は玄関の扉を開け、配達員から商品を受け取った。ダイニングテーブルへ袋に詰まったハンバーガーやポテト、ドリンクを並べた。彼はテリヤキバーガーで、僕はダブルチーズバーガーだった。Sサイズのポテトとコーラを彼の座る前に並べた。彼は包み紙を開くと齧り付いた。食事を終えれば彼はまた一人きりで本を読むか、ゲームを再開する事になるのだろうと思うと、何故だか心が痛んだ。しかし昨日の分を取り返す為にも、今日は仕事に専念する必要があった。僕は訊いた。
「何処か行きたいところとかあるか。明日は時間が取れそうだから、出掛けよう」
 彼は少し考えた後、
「どこでもいいの」
 と訊いた。
「ああ。勿論泊まりになるような遠い所は厳しいけど、日帰りで行ける所なら」
「遊園地に行きたい」
 と彼は言った。
「いいよ。遊園地って言っても色々あるけど、どこがいいとかあるかい」
 彼は、
「ここ」
 と、スケッチブックの表紙裏に鉛筆で書いた遊園地の名を指差した。その遊園地は埼玉県に位置する、開園から五十年は経つであろう歴史ある遊園地だった。
「そしたら明日、ここに行こう。でもどうして遊園地の名前を書いていたんだ」
「昨日、テレビでやってたの。いまゾロリとコラボしてるんだって。行けたらいいなって思って書いた」
「コラボ?」
「うん。ゾロリのなぞときゲームをやってるって」
「なるほど」
 僕は今更ながら、何故にこんな約束をしてしまったのだろうかと思った。出来るだけ彼には構わないようにしなければ、と思っても、いざ彼と顔を合わすと、慈悲の心が芽生えてしまうのだった。
 昼食を終えた彼は、自らの包装紙や空いたカップなどをきちんとビニール袋の中へ入れた。続くような形で僕もゴミを袋へ入れると、取手部分を縛りキッチンのゴミ箱へ落とした。
「俺は夜ごはんまでいつもの部屋にいるから、何かあったら言うんだよ。ソウタくんは今日、何をするつもり?」
「自由研究の続きをやる」
「自由研究か。どんな事をしてるの」
「おじさんの生態日誌」
「生態日誌?」
「うん。お母さんにすすめられたの。せっかくおじさんのところにお世話になるなら、おじさんの様子を観察したらどうかって」
「そうか。でも俺は毎日仕事しかしないから、変わり映えのない日誌になるかもしれない」
「でもおとといはレストランに連れて行ってくれたし、明日は遊園地に連れて行ってくれる」
 確かにそう言われると彼を預かってからの三日間の内、二日は彼の為に時間を割いていた。本来彼に割く予定だった時間を、大幅にオーバーしていた。父の看護があったとしても、母は少なくとも僕よりは彼に時間を割けるだろうと思った。母の元に居た方が、彼の為には良いように思った。それは今からであっても遅くはないと思った。

 宅配サービスで届いたピザを二人して食べた。僕はふと、彼の栄養バランス的にはこの日の食事内容はとても良いものとは言えないだろうと思った。そう考えると、宅配サービスも外食も彼の食事には適さないと思った。やはり自炊して彼に振る舞うのが適切であると思った。しかしそうすると、彼の為に今よりも時間を費やさなければならなかった。僕は様々な観点から言って、やはり彼は母に預けるべきであると思った。

 彼が寝た後、やはり僕は晩酌を始めた。テレビ画面では若手のお笑い芸人が大御所の芸人に芸についての悩みを相談しているようだった。僕は瞳孔のみで番組を視聴しながら考えた。想定よりも遥かに僕の仕事は捗らなかった。いい歳をした男が環境のせいなどにするのもどうかと思ったが、事実、そうだった。僕の為にも彼の為にも、今の状況は好ましいとは思えなかった。僕は明日の朝、母に電話を掛けようと決めた。恐らく、明日の遊園地が彼との最後の外出になるだろうと思った。



 彼と簡単に作ったピザトーストを食べながら僕は言った。
「今日中に済ましておきたい仕事があるから、遊園地は午後からでもいいかな」
 彼は頷き、オレンジジュースを飲んだ。彼はいつもよりも幾分頬が緩んでいるように見えた。彼は食事を終えるといつものように流し台に皿を置き、水で濯いだ。そしてリビングのカーペットに座ると、テーブルに置かれたスケッチブックに絵を描き始めた。恐らく僕の生態日誌だろうと思った。僕は自分の皿を濯ぎ、彼の皿と一緒に食洗機へ並べると、書斎へと向かった。
 スマートフォンの電話帳アプリから母の名を探し出すと、僕は発信ボタンをタップした。数回の発信音の後、母の声がした。僕は手早く要件を話す事にした。
「それで、ソウタくんの事なんだけど、やっぱりそっちで預かってもらえないかな。負担を掛ける事にはなっちゃうけど、こっちも仕事があって中々厳しかったんだ。一度引き受けておいて、申し訳ないって思う」
「そう、わかった。仕事に支障が出るようじゃ仕方ないね。うちで預かるよ。ソウタくんにはもう、話してあるの?」
 僕はどうにも言い辛い思いがあって、まだ話していなかった。
「ううん、まだ。今日中には話そうと思う」
「具体的な日にちがわかったら、また連絡ちょうだい。こっちも準備をしなくちゃならないから」
「わかった。ごめん」
「あなたが謝る事じゃないでしょう」

 僕は今日、遊園地で頃合いを見て彼に話す事にした。そうしたら直ぐにでも彼を長野の母のところまで送ろうと思った。
 相変わらずに作業スピードは落ちたまま、どうにか仕事をひと段落させると、書斎を出た。彼はゲームをポーズ画面にし、絵を描いているようだった。絵はそのゲームのキャラクターであった。
「そろそろ行こうか。お腹も空いたろう」
 彼は僕に気付き振り向くと、うん、と言った。やはり彼の顔からは嬉しさが滲んでいるように見えた。
 僕は彼に支度をするように言った。彼はテーブル上のスケッチブックを閉じ、散った色鉛筆をケースへとしまった。そしてリュックサックを背負った。どうやら彼の準備は整ったようだった。僕はチェスト上の小物入れに置かれた財布と鍵を手にすると彼に家を出るように促した。彼はどこか急足といった様子で玄関の戸を開けた。

 山手線を降り、新宿駅で西武線に乗り換えた。平日の下り電車は空いていて、車両には僕達以外に二人しか乗っていなかった。目的地までは三十分ほどかかった。僕はブリーフケースに仕舞ったノートパソコンを開くと、少しでも仕事を進める為に作業を再開した。再来月に開業予定の歯科医のホームページのシステムを作った。クライアントの歯科医は色々と要望が多く、中々に手を焼く作業だった。彼を見やると俯き黙っていた。スケッチブックに絵を描いたり、本でも読んでいれば良いものの、黙っていた。僕は液晶モニターに目を戻し、キーボードを叩いた。

 乗り越さないようにと予めセットしていたタイマーが鳴った。僕は彼と車両を降りた。
 駅から五分ほどで遊園地へと着いた。僕は四千円の大人用チケットと子供用の二千円のチケット買った。入り口の係員にチケットを見せると、彼女は僕達のチケットをもぎり、心底の笑顔のようなものを浮かべながら、
「ようこそ。楽しんでいってらっしゃいませ」
 などと言った。彼はチケット売り場に置いてあったパンフレットに目を釘付けにしていた。口角を上げながら、どのアトラクションに乗ろうかと迷っているようだった。平日だというのに、思ったよりも客は多かった。親子連れが八割、カップルが二割といったように見えた。
「とりあえず、ご飯にしようか。そこでアトラクションも選ぶといい」
 彼は、うん、と頷いた。

 園内に入って直ぐの一角は昭和の商店街を再現したものだった。この遊園地の売りの一つがその街並みだった。昭和レトロな雰囲気を味わえる事で評判であると、昨日調べたネット記事には記されていた。確かにその一角はざっと見ても他のエリアに比べ、質が高いように思えた。運営会社の力の入れようを感じた。食事処は商店街に集まっているようだったので、僕達はそちらに向かい歩いた。
 昭和を生きていない僕にも、造られた街並みはどこか懐かしさを感じさせた。それは映画でしか観た事のない、昭和レトロ特有のノスタルジーのせいであると思った。パンフレットを持つ彼に目当ての食堂は何処にあるかと訊いた。
「もうすこし歩いたところ。ちょうど商店街のまんなからへんだよ」
 と彼は言った。

 食堂の外観は街並み通りに昭和レトロを体現していた。僕には少し過剰過ぎるようにも思えた。入り口前は三組の待ちが列を作っていた。僕達はその後ろに並んだ。
 この先この遊園地に再び行く事などないだろうと思った僕は、自分なりにこの時間を楽しもうと思っていた。だが実際に来てみると、能動的に楽しもうと思わなくとも、多少に心が弾んでいる自身がいた。昭和の時代を舞台にした映画のワンシーンを思い出した。僕は彼をそっちのけでスマートフォンの動画サービスでその映画のワンシーンを観直した。比べて見ても、やはり街並みの再現度は高かった。
 彼を見やるとパンフレットをズボンのポケットにしまい、退屈そうな顔をしていた。僕は彼と何か話をしなくてはならないと思った。ゲームの進み具合だとか、今流行っているアニメはあるのかだとか、全くどうでもいいような話をした。そして話の流れのままに、僕は彼に伝える事にした。
「長野のおばあちゃんは好きか」
「うん。すき」
「もう少ししたら、ソウタくんをおばあちゃんのところで預かってもらおうと思ってるんだ」
 彼は仄暗くした表情で、
「どうして?」
 と訊いた。
「ソウタくんの為に、そっちのほうが良いと思ったんだ。俺、仕事ばかりで全然ソウタくんと遊べないだろう。おばあちゃんもおじいちゃんのお世話があるけど、少なくとも僕より遊んであげられると思う。それにソウタくんも知ってる通り、おばあちゃんの料理はすごく美味しいだろう? 俺の家みたいに、宅配の料理ばかりって事もなくなる」
 彼は喜びの表情を浮かべるものだとばかり思っていたのだが、僕の予想とは裏腹に、彼は一層に暗くした表情をして俯いた。
「……おばあちゃんのところ、嫌か?」
 彼は小さく、
「ううん」
 とだけ言った。

 二十分程待ちようやく店内に入ると、店員が壁際の席に座るように促した。やはり店内も、映画のように見事な世界観を再現していた。古めかしい掛け時計や、和服の女性が片手に瓶ビールを持ち微笑むポスターなどが飾られていた。メニューも壁に掛けられた木板に手書き調で書かれていた。彼は店内をきょろきょろと見回した。彼のような子供の目には、この商店街や店はどう映るのだろう、などと考えた。
「食べたいもの、決まったかい」
 彼は、
「カレーライス」
 と答えた。
「飲み物はどうする?」
「お水でいい」
 僕はホールに立った店員を呼び、カレーライスと中華そばを注文した。
 園内に入る前の、気持ちの高揚を感じさせる表情が彼から消えてしまっているように思った。どこか、沈んだ顔をしていた。
「お腹、あまり空いてなかったか」
「ううん。空いてる」
 と彼は言った。やはり彼は浮かない顔のままだった。
 少しして互いの料理が運ばれてくると、僕達は食べた。冷凍食品で食べた事のあるような味だった。実際、冷凍されたものを電子レンジにかけただけなのだろうと思った。僕達は特に会話を交わすわけでもなく、淡々と昼食をとった。

 彼は列車のアトラクションに乗りたいと言った。蒸気機関車を模した二両編成の列車に乗り、園内を一周出来るというものだった。僕は了承し、彼とアトラクションのある構内へと向かった。
 商店街を抜けると、ただの古びた遊園地だった。数十年前には大いに繁盛したのであろうアトラクションの数々も、ところどころ塗装が剥げ、色褪せていた。それらを横目に目当てのアトラクションへと辿り着くと、入り口を過ぎ、係員の居る乗り場で列車を待った。数組の待ちがあったが、彼らと共にすぐに乗車出来るとの事だった。数分が経つと列車が乗り場へと戻った。反対側に先客が降りて行くと、こちら側の扉が開いた。係員が乗り込むよう僕達を促し、数組と僕達二人を乗せた列車はゆっくりと走り出した。
 やはり寂れた遊園地であると思った。遠くに見える商店街は昔の建物を再現こそしているものの、新しかった。僕はそこに作り物のノスタルジーを見た気がした。むしろ僕には古くなったアトラクションのほうにこそ懐古感を覚えた。
 それにしても、彼は沈んでいるように思えた。園内に入る前の彼の表情が浮かぶ事はなかった。予想していたよりも古ぼけた園内に落胆してしまったのだろうか、などと僕は思った。

 その後も様々なアトラクションに乗ったが、やはり彼は浮かなかった。僕がそれを指摘しても彼は、
「そんなことないよ」
 としか言わなかった。
 一通りのアトラクションを乗り終え、小休憩の為に僕達はベンチに腰掛けた。時刻は十八時を回る頃だった。
「夕飯、どうしようか。ここで食べるか、ここを出てよそで食べるか」
 彼はポケットに仕舞ったパンフレットを取り出すと、一ページ目を僕に見せた。そこには、「大花火祭り」の文字が、幾数の花火が上がる写真を背に大きく記されていた。
「ぼく、これが見たい」
 と彼は言った。僕は彼からパンフレットを受け取り、詳細を読み取った。先月末から来月初めに掛けて開催される花火イベントのようだった。開園から七十年以上続く、この遊園地の歴史あるイベントである、などと記されていた。開始時刻は十九半だった。夕飯を食べてさっさと切り上げてしまいたかった僕としては、彼の提案にうんざりした。しかしその提案を受け入れない訳にもいかなかった。
「夕飯は園内で食べる事にしよう」
 彼は頷いた。

 僕達は商店街へ戻り、昭和の喫茶店を模した店に入った。ここへ来る途中に思ったが、夕方過ぎに帰る客が多かった。群衆が明らかに減っていた。店にも並ぶ事なく入る事が出来た。テーブルは三分の一ほどが埋まっているといった様子だった。席に着き、テーブル上に置かれたメニューを彼に渡した。彼は少し考えた後、これがいい、と、ライス付きのハンバーグステーキの写真を指差した。僕は彼からメニューを受け取ると、ナポリタンスパゲッティを頼む事に決めた。店員を呼び、彼が飲みたいと言ったカルピスも追加して注文した。
 これから夕飯をとっても、花火イベントまでは時間が余ると思った。花火を見て、園から出て二十時半、家に着くのは二十一時を過ぎるだろうと思った。僕はすぐにでも帰りたい心持ちだったので、心底うんざりしたのだった。
 料理はすぐに運ばれ、僕達は各々夕飯を済ました。店を出たのは十九時前だった。もうほとんどのアトラクションには乗ってしまったし、どうしたものかと思いながら商店街を出ると、向こうのほうに小さなゲームセンターのような建物が見えた。
「あそこの建物、たぶんゲームセンターだと思うんだけど、行ってみるかい」
 彼は小さく頷いた。

 建物内は一昔前のゲームセンターといった感じだった。ブラウン管のアーケードゲームや、僕が幼少期の頃からあったクレーンゲームの筐体が並んでいた。僕達はバスケットコート程の建物内を一周した。彼に何かやりたいゲームはあったかと訊いた。
「あれ、やってみたい」
 彼は古びたエアホッケー台を指差した。
 筐体こそ古いものの、なかには最新の人気キャラクターが置かれたクレーンゲームもあったので、僕は意外に思った。
「あれじゃなくていいのかい。ソウタくんの好きなキャラクターのぬいぐるみがあるけど」
「うん、こっちがいい」
 彼は既に台の片方を陣取っていた。僕は百円玉を二枚投入口に入れた。けたたましい電子音が鳴り、台の真ん中から円盤が彼の方へ飛び出した。彼はマレットで円盤に狙いを定めると、勢いよく円盤を打った。とは言っても所詮九歳の力であるから、円盤はそれほどの勢いを持たなかった。僕は加減して円盤を打ち返した。彼は端に当たりバウンドして返った円盤を打ち返した。一直線に僕のゴールに向かってきた円盤を、僕はまた加減して返した。すると彼は、千載一遇のチャンスといった様子で思い切り円盤を打ち返した。止めようと思えば止められる勢いだったが、僕は止めなかった。円盤は僕のゴールに吸い込まれ、電子音が流れると、電飾のスコアボードの数字が0から1に変わった。彼は笑みを溢した。久しぶりの笑顔だと思った。
 あまり加減し過ぎて彼の機嫌が損なわれるても困ると思って、途中、一点だけを獲得した。ゲーム結果は「4ー1」で彼の勝利だった。彼は心底嬉しそうな顔をした。
 ゲームが終了し、次はどのゲームで遊びたいかと彼に訊ねると、彼はまたホッケーがしたいと言った。結局、ホッケーで三セットを遊んだ。僕は時折得点を入れるといった具合で、彼は全てのゲームで勝利した。
 その後、バスケットボールをゴールに入れるだけといった単調なゲームで僕達は遊んだ。それは二セットを遊んだが、彼はどうもバスケットボールが苦手らしく、僕もわざと外したりしたものの、二セット共僕が勝った。彼を見ると、悔しいといった顔よりは、楽しそうな顔をしているように思った。
 彼が次に選んだのは、対戦型の格闘ゲームだった。僕はこの時、彼は僕と対戦出来るゲームばかりを選んでいる事に気付いた。このところ一人でいるばかりだった反動であるのかもしれないと思った。僕はやはり彼を可哀想に思った。
 格闘ゲームは、僕が手加減するまでもなく完膚無きまでに打ち倒された。先までのアナログなゲームと違い、この手のゲームでは子供には敵わなかった。昔は割りかしテレビゲームが得意なほうだった僕は、自身の衰えをふと感じたのだった。
 花火イベントの開始時刻まで残り二十分ほどとなり、僕は彼にゲームセンターを後にしようと言った。彼は、うん、と頷き僕に着いて歩いた。

 花火を観るために夕方から閉園までの時間限定チケットで入園した客の姿が見えた。園の入り口からはぞろぞろと客が入場した。花火を鑑賞する為に敷かれた巨大なブルーシートには既に沢山の客が座り、陣取っていた。七割ほどが埋まっているといった様子で、僕達は空いた後ろの方に座る事にした。
 開始時刻が迫るに連れ、ブルーシートのほとんどが埋まった。そしてついに花火が打ち上がる事を知らせるアナウンスが園内のスピーカーから流れた。横に座る彼を見やると、薄暗いながらも大きく張った目に期待と踊る心が見て取れた。園外からひゅるり、と一発の光が上がると、低く咲いた。それを皮切りに、次々と無数の花火が上がり咲いた。高さこそ低いものの、予想していたよりもまともな花火イベントであった事に驚いた。大方もう少しちゃちなものだろうと思っていた。彼の顔は花火の光に照らせれ、点滅した。無垢な笑顔で上がる花火を迎えていた。
 僕は今が二十時を過ぎた辺りである事を思った。最初の数発でイベントに満足してしまっていた僕は、早く終わらないものか、などと思った。その僕の思いとは裏腹に、花火はその後も十分ほども上がり続けた。ようやく打ち終わり、終了のアナウンスが園内に流れた。
「終わったらしい。帰ろうか」
 と、僕は言った。
「すごかったね、おじさん。ぼくのまちの花火大会より、よっぽどすごいや」
 と彼は興奮した様子で言った。僕は、
「それは良かった」
 と返すと、立ち上がり、出口に向かおうと促した。彼は満足した様子で僕の後を着いた。



 母と話し、彼をあちらに預けるのは五日後に決まった。その日の夕食は、スーパーで買った肉や野菜を適当に切り、それをパウチ袋の鍋の素で作った出し汁に入れただけという簡易な鍋だった。夕食前に彼がスケッチブックに僕の生態日誌を書いているのを見た。以前よりも余程に凝って描かれた絵は、花火と彼と僕だった。笑顔の彼と僕の後ろで沢山の花火が打ち上がっていた。同じ人物の絵とは思えないほどその絵は色彩豊かで、丁寧に描かれているように思った。僕はその絵を見て、彼に母の件について話しづらくなった。しかし彼も僕との最後の思い出として丁寧に描いたのだろうと思う事にした。彼の為にも母のところに預けるのは最適解のはずだった。僕は鍋の椎茸を箸で摘み取りながら言った。
「おばあちゃんの家に行く日、五日後に決まったよ」
 彼は旨そうに鍋を摘んでいた手を止め、小皿に乗った野菜の残りかすをちまちまと食べ始めた。ついには白飯だけを食べ、小皿の汁でそれを飲み込んだ。鍋に箸が伸びなくなった。僕はそこに、彼の悲しさのような感情を見た気がした。子供というのは、こうまでわかりやすいものなのかと、僕は半ば感心した。彼の食事のペースは明らかに落ちた。僕の腹は満たされ、皿を下げたいと思ったが、彼はちまちまと食事を続けていた。
「おばあちゃんのところ、行きたくないのか」
 彼は箸を止め、言った。
「ううん、そんなことない。おばあちゃん、だいすきだもん」
 と、彼はそう言って少し黙った後、言った。
「どうして、おばあちゃんのところに行くことになったの」
 僕はぎくりとした。正直に答えれば、彼を傷つけてしまう事になった。僕は言った。
「おじさん、出張に行かなくちゃいけない事になったんだ。田舎のほうに。それがどのくらいの期間になるかわからないから、それまでソウタくんを一人にするわけにはいかないだろう?」
「そっか。どこにいくの?」
「えっと、ソウタくんわかるかな? 福島のほうだ」
「わかるよ、福島。うん、わかった」
 彼はようやく箸を進めた。すっきりしたとは言えないが、先程までよりは表情の曇りが無くなったように思った。

 その後の四日間、変わらずに僕達は過ごした。共に朝食を食べ、僕は書斎へ、彼はリビングに残った。昼になると宅配サービスで出前を取り、夕飯は僕の作ったものを食べた。
 二日目、どこか後ろめたい気持ちのあった僕は、彼にプレゼントを買ってやった。家電量販店のおもちゃコーナーを共に歩き、彼が選んだのは彼がプレイするゲームに登場するキャラクターのトレーディングカードだった。僕はそんなものでいいのかと彼に訊いたが、彼は、これがいい、と言った。

 五日目、ついに彼を母のところへ預ける日となった。母の都合を考え、十八時発、二十時着の新幹線のチケットを予約した。僕は最後に彼を何処かへ連れて行ってやろうと思った。うしろめたさからなのか、純粋に彼を楽しませてやりたかったのかはわからなかったが、恐らく両方だろうと思った。僕は彼を海へと誘う事にした。それは僕が久々に海を見たいという思いもあったし、内陸に住む彼もきっと見たいだろうと思ったからだった。朝食を済ませると彼に言った。
「これから海でも見に行こうと思うんだけど、どうだい」
 彼は表情を明るくさせると、行きたい、と言った。
「支度したら行こうか。俺も支度してくる」
 彼は頷き、いつもより足早に皿を流し台へと片付けた。そしてリビングに戻りリュックサックの整理を始めた。僕も皿を片付け、食器を濯ぎ食洗機へと入れると、着替えを済ませた。 
 僕が着替え終える頃には彼も準備万端のようだった。リュックサックを背負ったままソファに座り、テレビの通販番組を眺めながら僕を待っていた。
「準備はできたかい」
「うん」
「よし、なら行こう」

 開けた玄関ドアの外は蒸し暑かった。蝉の鳴き声が響き、熱射線が肌を焼いた。僕は駅前のレンタカー店へと彼と向かった。熱射線はコンクリートを跳ね返り、下方からも射した。途中、自販機で水と彼のジュースを買った。水分補給を怠ってはいけないと思わせるほどに、この日は夏だった。
 十五分ほど歩き、レンタカー店に着いた。店内のエアコンにより僕達の身体は急速に冷やされていった。彼に椅子へ座るように言い、僕は受付カウンターで申込書等の諸々の書類を書いた。利用時間は六時間とした。移動時間は三時間ほどであったし、十分だと思った。書類を書き終えると代金を支払った。店員は、車は準備が出来ているから駐車場に出るように促した。僕は彼を呼び、駐車場へ出た。
 僕は希望車種に軽自動車を選択していた。セダン車でも良いと思ったが、料金が半分ほどは違った。彼との利用であれば軽自動車でも十分であると思った。傷がついていない事を確認し、申込書や利用マニュアル等が入ったファイルと鍵を受け取ると、僕と彼は車内に入った。外以上に蒸した車内を冷やす為、すぐにエンジンを掛けるとエアコンを入れた。店員が操作法に問題はないかと訊ね、問題ないと伝えると、店員の誘導に従って車道に出た。

 僕はナビを操作しFMラジオをつけた。交通情報が流れたが、どの道も特に混雑はしていないとの事だった。休日であれば倍の時間は掛かってしまうのだろう、などと思った。僕の気分は高揚していた。最後に海を見たのは、当時の彼女と言ったとき以来であるはずだから、七年も前の事だった。学生時代から交際していた女性だった。五年間に渡り交際を続けていたが、互いに二十五の時、つまり十年前に別れた。社会人となった二人はとにかく共に過ごす時間が足りなかった。それに起因した事で別れた。その彼女との長きに渡る交際により、僕は異性との交際というものにすっかり興味を失ってしまった。彼女からの連絡を返すなどという事すらも面倒に思った。しかしふと彼女が欲しい、などと考えてしまう事もあった。しかしそれは性的な面で満たされたいだけであって、愛情を注ぎたいだとか、逆に注がれたいだとか、そういった類の交際は求めていなかった。性的な面など自身で処理してしまえば良いと考えた僕には、異性と交際する意味を見出せなかった。彼は窓に流れる景色を眺めていた。互いに話し出すような事はなかった。事務的な、トイレは大丈夫か、だとかの会話を除いて、ついに海へ着くまでの間、彼とは一言すら交わす事はなかった。

 市営の駐車場に車を停めると、僕達は歩いた。駐車場を出るとそこは既に海砂だった。僕は砂がスニーカー内に入らないよう、注意して歩いた。後ろに続く彼も同じようにして歩いていた。十メートル程の勾配を登ると、淡い水色の空と水平線下にコバルトブルーの海が広がった。
「久々かい、海を見るの」
 彼はぽかんと口を開けたまま、笑顔を見せた。そして心ここにあらずといった感じで、
「うん」
 とだけ言った。僕は景色に見惚れる彼にもっと近づこうと促した。彼は僕の後に続いた。砂浜に降りる為の数段の階段は、砂浜を沿うようにして果てしなく続いた。僕達はそこに腰掛けた。
 僕達は暫く黙って海を眺めた。道中遊園禁止の看板を見たが、数人の若者が浮き輪を使って波に揺られたり、泳いだりしていた。遠くにも同じような、恐らく若者が見えた。空は斑の雲がいくつか小さく浮いているだけで、ほとんど完璧な、水色のキャンバスだった。波も穏やかだった。夏らしい暑さが少し不快なだけだった。僕は思わず彼に、
「綺麗だね」
 などと言った。
「水着、持ってくればよかった」
 と彼は言った。
「遊泳禁止だから、水着があっても泳げないよ」
「でも、あそこのおにいちゃんたちは泳いでる」
「本当はいけないことなんだ」
「どうしていけないの」
 僕は答えに詰まった。何故遊泳禁止なのか、理由は僕にもわからなかった。ただ、事実だけを言った。
「ライフセーバーがいないからじゃないかな。もし溺れたりなんかしても誰も助けてくれない。それだと危ないだろう」
 彼は僕の答えに納得がいかないといった顔をしたが、不承した。僕は遠くに線引く水平線を眺めながら、ふと思った。大学を卒業し仕事を始めてから、そして彼女と別れてからは尚更、僕の生活範囲は自宅と職場に限られていた。この十年間、それを外れた試しはほとんどなかった。休日に学生時代の友人と飲みに出掛けるような事はあったが、所詮都内であったし、遠出ではなかった。ほとんどの休日はサブスクリプションサービスを使って映画を見たり、一人酒を飲むくらいだった。僕に根付いた人生の虚無感といったものは、変わり映えのしない毎日の生活から来るものなのかもしれないと思った。僕はふと彼が居なくなってからも在宅勤務を続け、時折行きたいところへふらりと行ってみるといったような生活も悪くないように思った。その生活に、多少の魅力を感じた。僕が虚無感から抜け出す有用な手段であるように思えた。在宅での仕事の遅れも、慣れてしまえば問題はないのかもしれないと思った。虚無感から少しでも救われるのであれば、是が非でも在宅での仕事をこなせるようにならなければならないと思った。それほどの強い思いを引き起こすほどに、僕は人生の虚無を恐れていた。僕はこのきっかけを与えてくれた彼にそっと感謝した。彼と過ごす事がなければ、凝り固まった僕の頭はこのような事は思いつかなかっただろうと思った。僕は目の前に広がる空のように晴れやかな心持ちになった。僕は彼に砂浜のほうまで歩こうか、と言って立ち上がった。しかし彼は、僕に続く気配がなかった。
「どうした、行きたくないの」
 彼は俯き砂浜を見つめて黙っていた。僕は仕方なく腰を下ろした。
「もう少し、ここに居ようか」
 彼は暫く黙り、砂浜を見つめながら行った。
「ぼく、やっぱりおばあちゃんのところ行きたくない」
「……どうして」
 沈黙が続いた。僕は俯く彼を見ていた。すると彼の足元に、ぽつぽつと小さな雫が落ちた。彼は膝を抱えたまま、黙って泣いたのだった。僕は彼の思考が理解出来ず、ひたすらに何があったのか、などと訊いた。雫は、なおもコンクリートを黒点に染めた。彼は俯きひたすら涙を溢すばかりだった。僕はどうしようもなく、彼が泣き止むのを待つ事にした。
 海を眺めた。相変わらずに若者達は遊泳を楽しんでいた。彼の小さな嗚咽が徐々に収まってくると、彼は言った。
「ぼく、おじさんのところにいたい」
 涙は止まったようだったが、膝を抱えて蹲ったままだった。
 何故彼が僕にこだわるのか、理解出来なかった。たまに遊びには行ってやったものの、丸一日、食事の際にしか顔を合わせないような日がほとんどだった。むしろ僕から離れられて、彼は喜ばしいはずだった。僕は率直に彼に訊いた。
「どうして」
 彼は、
「どうしても」
 と答えた。お手上げであった。しかし僕にはやはり、この夏を彼と過ごす気にはなれなかった。
「でも、言ったろう? すぐに出張に行かなくちゃいけないんだ」
「ぼくも一緒にいく」
 僕は自分にはもう手の打ちようがない運命を呪った。こうなっては彼を母のところへ預けるわけにはいかなかった。
「……わかった。おばあちゃんに連絡しておく。うちに居ていい」
 僕は漏れ出してしまいそうな溜息を抑え、両手を後ろに着いて天を仰いだ。

 車に戻ると、ドアを全開にしてエアコンをつけた。涼しくなるまで外で待っていよう、と彼に言った。その間、僕は彼を見やり、思った。子供の思考というものはどうなっているのだろうかと考えた。いくら考えてもやはり彼の思考は読み解けなかった。僕は彼の作る道標を辿っていくしかなかった。母に電話を入れ、夏休みが終わるまでこちらで預かる事となった旨を伝えた。理由を聞かれ、僕は正直に彼がここに居たいと言ったからだと伝えた。母は、よっぽどあなたの事が気に入ったのね、などと呑気に言った。車内に手を入れ幾分涼しくなった事を確認すると、僕達は車に乗り込んだ。

 レンタカー店へ着くまでの間、やはり会話という会話はなかった。僕から話す事もなかったし、彼も話す事はなかった。FMラジオならではの独特なトーンで話すパーソナリティの声と、流行りの音楽がひたすらに流れるだけだった。
 車を店に返却すると、夕飯の食材を買いにスーパーへと向かった。いつものように彼に食べたい物を訊くと、貝が食べたい、と言った。磯の香りに誘発されたのだろうか、と思った。僕は鮮魚コーナーでパック入りの帆立を手にしカゴに入れた。彼は満足そうな顔をした。子供の心情の変化の速さには、まともに対応していてはいけないと思った。子供というのはどうしてこうも移り気なのだろうと思った。僕は彼を多少羨んでいるような心に気付いた。

8

 家に戻り、僕は彼に仕事をすると伝えて書斎に入った。オフィスチェアに腰掛け、背もたれを思い切り倒すと、寄り掛かり頭の上に両手を置いた。彼がどういう心持ちなのかわからないが、ついに八月いっぱい彼を預かる事となってしまった。僕は暫くの間、先を考えて溜息を繰り返した。しかし決まってしまった事であるし、こうしていても仕方がないとパソコンの電源を入れた。夕食の準備をする時間まではあと二時間ほどしかなかった。僕は頭を切り替えると画像編集ソフトを開いた。

 海を見れた事によりリフレッシュが出来たのかわからないが、普段よりも作業は幾分スムーズに進んだ。その日の自分に課したノルマの七割ほどまでを終えた。僕は歯科医院の待合室の写真を加工し終えたところでパソコンを閉じた。
 リビングに戻ると彼はノートになにかを描いていた。近寄って見下ろしてみると、彼と僕と海の絵があった。彼の生態日誌の絵は日を増すごとに力の入れようが変わってきているように思った。二日目の絵など、僕らしき男の顔をただ描いただけのものだった。このとき彼が描いていた絵は、僕の顔ひとつとってもその日の絵とは比べものにならないほどに丁寧に描かれていた。九歳らしい絵ではあったが、ディテールに明らかな違いがあった。これまでは一ページに二日分を書いていたようだったが、この日の絵は一面を使って描かれていた。三十六色入りの色鉛筆の十数本が、テーブルに散っていた。
 僕は、
「上手だね」
 と言った。彼は振り返り、
「もうちょっとで描き終わるんだ、絵を描いたら文字も書かなきゃ」
 と言った。
 彼は自身の絵に夢中、といった顔だった。絵の下にはいつものように文字を書く為のスペースが残され、完璧でない行線が彼の手で引かれていた。
「これからご飯を作るから、少し待ってて」
 彼は、うん、と頷き、空色の色鉛筆を走らせた。

 僕はキッチンに立ちながら彼が絵を描く様子を眺めていた。フライパンに落としたバターは、湯立つ醤油に徐々に融和していった。
 僕はやはり、彼がここに残りたいと思う心境がまるでわからなかった。本来ならば未だに仕事を続けていたであろう僕は、帆立のバター醤油焼きなどを作っていた。換気扇の音にかき消されるのを良い事に、僕は大きく溜息をついた。

 出来合いのレタスサラダを皿に乗せ、テーブルに運んだ。そしてフライパン上の帆立の貝柱を二つの皿に盛り付け、残ったバター醤油を貝柱に被せた。それもテーブルへと運ぶと、彼を呼んだ。
 彼も丁度日誌を書き終える頃だった。彼はノートを閉じ、散った色鉛筆をグラデーションに沿うように納め、ケースを閉じた。
 僕がグラスに麦茶を注ぎ終える頃には、彼はダイニングテーブルに着いた。僕が、頂きます、と言うと、それに合わせるように彼も言った。
 彼は旨そうに皿の上の帆立を摘んで食べた。実際に彼は、おいしい、と言った。僕も我ながら上出来だと思った。濃い味のバター醤油が白米とよく合った。
 ふと、彼が言った。
「おじさん、しゅっちょうってどのくらいのあいだいくの。ぼく、福島って行ったことがないから、すごく楽しみなんだ」
 僕はその件についてすっかり忘れていたのだった。僕は言った。
「それ、行かない事になっちゃったんだ。会社に、やっぱり大丈夫だって言われて」
 などと僕は言った。彼は残念そうな顔をした。しかし彼は持ち前の子供心ですぐに機嫌を戻し、帆立のバター醤油焼きを、旨そうに食べた。

 食事を終えた僕は、いつものように書斎で作業を再開した。やはり以前よりも作業スピードは上がってるように思った。在宅での環境に慣れてきたのだろうと思った。
 一段落して、リビングで買った本を読む彼に、そろそろ風呂に入るように言った。彼はページに栞を挟むと風呂場へと向かって行った。もうすぐに読み終えてしまう頃合いであろうと思った。
 彼が風呂から上がり就寝前の支度を済まし終えると、時刻は二十二時を回る頃だった。僕は彼に、おやすみ、と言った。彼も、おやすみなさい、と返すと、部屋へと入った。僕は再び書斎に戻り、作業を続けた。その日の内に終わらせたいと思っていた作業を終える頃には二時を回っていた。僕は、社内勤務とは程遠いが、在宅であってもそれなりの早さで仕事を進める事が出来た自分に感心した。

 昨日にベッドに入ったのは三時過ぎだった。小さな音量でテレビを眺めながら晩酌をし、風呂には浸からずにシャワーだけを浴びた。このところ風呂に浸からない日が増えたと思った。八時前に起き、朝食に鮭を焼き二人食べた。皿を入れた食洗機を回すと、僕は書斎へと向かった。やはり思ったより作業は進んだ。歯科医のホームページの設計をほとんど終え、上司に本日中には作業が終わることをメールで伝えた。期日より数日早く終える事が出来た。普段であれば一週間前には終える僕からすれば遅かったが、十分だった。僕は次の案件に取り掛かる事にした。食品メーカーの特設サイトの依頼だった。今秋から始まるプレゼント企画のサイトの設計を任されていた。大手メーカーである事もあり、アニメーションを多用する凝った作りのサイトにして欲しい、というのがクライアントの要望だった。僕はパソコンのフォルダからコンセプトの記された資料ファイルを開き、改めて内容を確認すると、商品写真などが入ったファイルを開き、案を練った。

 そろそろ昼飯時だと思い、リビングへ出た。彼は情報バラエティ番組を観ていた。ソファには例の本が閉じて置かれていた。僕は自身が気分転換をしたい思いから彼を外食へと誘った。彼はテレビを消し支度を済ますと、僕と共にマンションを出た。
 蝉時雨が打ち付けるなか、僕は訊いた。
「なにが食べたい」
 彼は、 
「おすしが食べたい」
 と言った。
 先ほど彼が観ていた番組では若い女のタレントが都内の老舗寿司屋で寿司を食べ、大袈裟な反応を取っていた。きっとそれの影響だろうと思った。
「あの本、もう読み終わったのかい」
「うん、おもしろかった」
「それなら、また新しい本を買わなくちゃいけないな」
「いいの」
「ああ。寿司を食べたらまた本屋へ行こう」
 彼の喜ぶ顔を予想していたが、何故か彼は浮いた顔をしなかった。

 昼時の店内は混んでいた。待合席は家族連れや老夫婦などで埋まっていた。僕は受付機のタッチパネルを操作した。様子を見る限り、カウンター席の方 ほうが早く案内されそうだった。僕は彼にカウンターでもいいかと訊いた。彼は頷き、僕はカウンター席のボタンをタッチした。
 僕達は出入り口の近くで席が空くのを待った。次々と会計を済ました客が店を出て行き、それに連なって待合席に座る客はテーブルへと着いて行った。彼はレジ横に置かれたカプセルトイの自販機をじっと見つめていた。僕は財布を開き、小銭を彼に差し出してやろうと思ったが、この手の玩具が彼の持て余した時間を埋めるのはせいぜい五分か十分ほどだろうと考え、やめた。
 店内スピーカーから呼び出しのアナウンスが流れ、僕は手に持ったレシートの番号と一致する事を確かめると、彼を促し、店員に案内されながらカウンター席へと着いた。席に着くなり彼は、
「この席、すわるのはじめて」
 と言った。
 少し考え、カウンター席に着く事が初めてなのだろうと思った。
 タッチ式の注文機を彼に渡した。彼は迷う様子もなく注文を終えると僕に返した。僕も食べたい寿司を選び、注文完了ボタンを押した。彼と僕の注文した寿司が、まず一皿ずつレーンに乗って運ばれた。僕は彼の分も取ってやったが、彼はどこか不服そうな顔をした。きっと自分で皿を取りたかったのだろうと思った。好物のハマチにボトルに詰められた醤油をかけ、食べた。僕は外食の楽しみを覚え始めていた。思えば、彼が来てからこそ外食の機会は増えたが、それまでの僕といえば朝に昨晩の余り物を弁当にするか、面倒な日はコンビニの弁当で済ましてしまっていた。社会人に成り立ての頃にはしょっちゅう会社付近を歩いては外食をしていたものだと思い返した。僕はいつからか、それをしなくなった。彼はサーモンの寿司を頬張っていた。彼が来て唯一良かった事は、以前よりも外出するようになった事だと思った。しかし彼を預かる事と比べれば大分割に合わない事だった。

 店を出ると、相変わらずに照る太陽の下、書店へと向かった。
 書店内は寿司屋よりも冷房が効いていて、僕は自律神経に不調を来たしてしまいそうだと思った。僕は、俺はビジネス書コーナーに居るから、好きな本を選んで来な、と言った。やはり彼は僕の想定とは異なる顔をして、児童書コーナーへと向かって行った。
 十分も経たない内に彼は戻った。一冊の本を手にしていた。
「一冊だけでいいのか。遠慮しないで、何冊だって買っていいんだよ」
「これだけでいい」
「でもそれだけだと、すぐに読み終わっちゃうんじゃないか」
 僕は彼から本を受け取った。それは児童小説でも人気キャラクターの本でもなく、日本の地図帳だった。しかしその装丁から察するに、恐らく子供向けの地図帳だった。表紙の文字には全て振り仮名が振られていて、日本列島の周りにはデフォルメされた動物のイラストが散りばめられていた。下手な本よりは読み応えがありそうに思った僕は、この一冊でもある程度は彼の時間を作り出せるだろうと思った。
「これも読み終わったら、また買いに来よう」
 僕は一人、レジへ向かった。

 マンションに戻ると、彼はソファに座り、渡した手さげ袋から地図帳を取り出した。するとページを丁寧にめくり、読み始めた。僕は彼の世話を地図帳に任せると書斎に戻った。
 キャンペーンサイトの作成は順調に進んだ。在宅勤務初日からは想像も出来ないほどにすらすらと業務を完了させていった。僕はこの調子であればオフィス勤務と変わらぬペースで仕事をこなしていけるように思った。

 作業がひと段落すると、インスタントコーヒーを作る為にキッチンへ向かった。
 彼はカーペットにあぐらをかき、熱心に地図帳のページをめくっていた。そして鉛筆でなにやらノートに書き込んでいた。僕はマグカップに入れたインスタントコーヒーの粉末を沸いたケトルの湯で溶かし、マドラーで軽く混ぜると、彼を横目に書斎へと戻った。

 自らに課していたノルマを終わらせた頃には、丁度夕飯時だった。僕は背もたれにもたれ掛かりながら大きく伸びをすると、リビングへ向かった。
 彼は相変わらずに地図帳とノートに夢中だった。僕は役割を果たしてくれている地図帳にありがたく思いながら彼に言った。
「夕飯、これから作るからもう少し待っててな」
 彼は僕の声により地図帳の世界から抜け出した様子で、こちらを振り向くと、うん、と言った。

 この日の献立はハムステーキだった。会社の後輩から暑中見舞いでもらったブロックハムの詰め合わせが、手をつけていないまま放置してあった事を思い出したからだった。僕は六種類あるハムのなかから『特選』のラベルの貼られたものを選ぶと、厚く切った。冷蔵庫に余った野菜で適当にサラダを作り、ハムを焼いた。ハムを焼き上げハムの肉汁が滲むフライパンで醤油ベースの簡単なソースを作り、かけた。それらをテーブルに並べながら、地図帳に向かう彼を呼んだ。彼は、あと一分だけまって、と言った。
 それから五分ほどが経って、ようやく彼はテーブルに着いた。彼は皿に乗ったハムを見て嬉しそうな顔をした。僕は、冷めちゃうから早く食べな、と言った。彼は頷くと、一口分に切り分けたハムを旨そうに食べた。僕も続いて食べた。ハムは予想通りといった味だったが、ソースは我ながら上手く出来たと思った。白飯がよく進んだ。それは彼も同じなようだった。彼はここに来てから初めて、
「おかわりがたべたい」
 と言った。茶碗には米一粒残っていなかった。
「炊飯器にまだ少し残ってるから、盛って来な」
 と僕は言った。彼はそそくさと飯を盛りに行った。
 特段興味があるわけではなかったが、地図帳を見ながら何をノートに書いているのか、と僕は聞いた。
「日本の行ってみたいところをメモしたり、そこの名物とかを書いてる」
「旅行が好きなのかい」
 そう訊くと彼は、何故か寂しそうな顔をして、うん、と言った。そして続けた。
「知らないまちとかに行くのがすきなの。なんだか冒険してるみたいだから。大人になったら世界中を旅してみたい」
 彼は楽しそうに言った。

9

 彼を預かってから十日が経とうとした日、僕は彼を何処かへ連れて行ってやろうと思い立った。仕事は順調に進んでいたし、自身の気分転換にもなるだろうと思った。なにより、毎日地図帳を広げてノートのなかで夢想する彼を見ていると、連れて行ってやらないのは寧ろ非情なような気がした。僕は宅配サービスのハンバーグ弁当を二人して食べるなか、言った。
「来週、何処かへ旅行に行こうか。一日くらいなら泊まってもいい」
 彼は箸をぴたりと止め、僕の顔をまじまじと見て言った。
「ほんと?」
「ああ」
 彼は小さく、やった、と言って心底嬉しそうな顔をした。彼は先までより幾分早く箸を動かし弁当を食べ切った。そしてトレイをゴミ箱へ捨てると、一目散にリビングに戻り地図帳を開いた。

 翌日の朝、彼は朝食のウインナーを焼いていた僕のもとへ寄ると、
「おじさん、行きたいところ、決まった」
 と言った。
「どこだい」
 彼は地図帳を広げて僕に見せた。僕は屈んで開いたページを見た。
「福島?」
「うん」
「構わないけど、どうして福島なんだい」
「おじさん、福島にしゅっちょうするって言って、でも行けなかったでしょ。地図で調べたら、楽しそうなところがたくさんあったんだ」
 彼は出張の意味をわかっていないようだったが、どうやら僕の為に福島を選んだらしかった。
「そしたら福島に行こう。今日、昼飯ついでに福島のガイドブックもでも買って帰ろう」
 彼は顔を綻ばせながら、ウインナーに齧り付いた。

 ファミレスで昼飯を済ますと、僕達は書店の旅行ガイドブックコーナへ向かった。彼は様々な出版社から発行されている福島のガイドブックをひとつひとつ手に取り、ページを開いて内容を確認していた。余程子供らしい所でなければ、彼が何処に目的地を定めても良いと思った。気分転換にさえなれば僕は良かった。僕はふと、彼が居なければ福島に行く事などあり得なかっただろう、と思った。この先、定期的に一人旅をするのというのも良いかもしれない、などと思った。僕は彼を連れず一人で九州にでも旅に出る自分を想像した。今回の旅を終え、早く次の旅に立ちたい心持ちだった。

 次の週の月曜日、僕達は郡山駅行きの新幹線の車内に居た。車窓からは強い太陽光が差し、僕は座る彼の前に手を伸ばし、カーテンを閉じた。そのとき彼が、あっ、と小さい声を出した。彼はきっと外の景色を眺めたかったのだろうと察し、僕はカーテンを戻した。彼は座席に座るなり、外の景色に夢中だった。何の変哲もない田畑の景色すら、彼には輝いて見えているようだった。僕は日差しを瞼に感じながらトートバッグに入れたノートパソコンを取り出し、膝の上に置いた。このときばかりは作業スピードが落ちてしまうだろうと思った。僕は作業を夜に回そうと思い直すとパソコンを閉じた。すると待ち侘びていたかのように彼が言った。
「おじさん、福島でなにをするつもりだったの? 猪苗代湖って湖がすごいんだ。見て、おじさん」
 彼はガイドブックの猪苗代湖特集ページを開いて僕に見せた。そこには猪苗代湖周辺の地図と、スカイブルーの湖の写真があった。イラストの男の子が、「澄んでいて、とってもきれいな湖だね!」などと吹き出しで言っていた。
 彼と同じく、僕も福島に行くのは初めてだった。空との境界線がわからないほどに鮮やかな青をした湖の写真に、僕の心も高鳴るのを感じた。
「出張っていうのは仕事で遠くへ行く事をいうんだ。だから仕事以外は何をするつもりもなかった」
「お仕事だったんだ。でも、今日はちがうでしょ?」
 彼は掲げたガイドブックを膝に戻し、置いたリュックからノートと鉛筆を取り出すと、目当てのページを開いた。ノートには鉛筆で、「ふくしまに冒険」、と書かれ、左ページには今日の日付、右ページには明日の日付が書かれていた。彼は今日の日付の下に鉛筆でなにやら書き始めた。僕は日頃の疲れを感じ、スマートフォンのアラームをセットすると瞼を閉じた。

 何度聞いても不快であるアラームの音で目を覚ました。五分も経てば郡山駅に到着する頃合いだった。窓際の彼を見やると彼は仕方なしに降りてしまう瞼を擦っているところだった。彼も眠ってしまっていたらしかった。
「もうすぐ着くからドアの前で待っていよう」
 彼はガイドブックとノート、キャップをした鉛筆をそそくさとリュックに詰めた。僕もトートバッグを手にすると、彼を待ってから席を立った。

 多少なり涼をとれるものだと期待していたが、注ぐ暑さは東京と変わらないように思った。駅前は思ったよりも往来が多く、若者も多分に居た。僕と彼は予め予約しておいたレンタカー店へ向かった。彼は初めて降り立つ場所に興味津々と言った様子で辺りを見回しながら歩いた。実に地方都市らしい街だと思った。建物こそ多いものの、そのどれもは低く、僕の郷里とさほど変わらないように思った。

 店内に入ると効き過ぎとも言える冷房が汗ばんだ身体を冷やした。僕は彼に来客用ソファに座るように言い、店員に予約の者である旨を伝えた。
 予約した車はセダン車だった。折角福島まで来たのだし、多少は良い車に乗りたかった。僕は彼に助手席に座るように言った。僕は運転席のドアを開け、契約書類の入ったファイルをグローブボックスへと放るとエンジンを掛けた。店員が車を車道へと誘導すると、車は駐車場を抜けた。

 一度停車してナビを設定すると彼に言うと、彼は、
「ぼく、それならできる」
 と言った。
 僕は彼に設定を頼むと、彼は慣れた手つきでタッチパネルを操作した。
「これであってる?」
 仮名入力を終え、目的地の候補が並ぶなか、最上部に表示された、「道の駅 猪苗代 駐車場」を確認し、彼にそこに設定するように言った。彼は言われた通りに設定を終えると、ルートが表示され音声案内が開始された。助手席に座る彼は、どこか得意気な様子だった。

 街を離れるとすぐに山々が連なった。過ぎる車には他県ナンバーが多かった。僕達のような観光客が多いのだろうと思った。彼はその山々にすら目を輝かせ、興味を示しているようだった。僕は自身も直で見るのは初めてだというのに、何故だか早く彼に湖を見せてやりたくなった。湖を見たときの彼を想像すると、口角が上がってしまう自分がいた。僕ははっと我に帰り、自身を気味悪く思った。
「山なんて君の地元にも沢山あるだろう。さっきからずっと外ばかり見てるけど、飽きないのか」
「あるけど、やっぱりちがうんだ。おんなじ山だけど、ぼくのすんでるまちの山じゃないもん」
 僕は言葉通りの意味は理解したが、彼の心情はまるで理解出来なかった。
 湖に近づくにつれて、景色は連なる小山から雄大な大山が広がる山脈へと変わった。ナビを見やると、湖まではあと十キロと少し、といったところだった。
 車はついに、山脈を縫う道を抜けた。

 車を停め、降りた。駅前よりも随分と暑かった。細く生える木々の隙間から漏れる逆光線が僕達の肌を焼いた。彼は小さく、あつい、と漏らした。
 丘の先に細く長い湖が見えた。僕と彼はその青く鮮やかな流線を目指して歩いた。
 丘を登り切るとそこは、絶景だった。ガイドブックの写真とは比べ物にならないと思った。多くの人々が点在する浜の先には、海のように大きな湖が広がった。遠くに霞んで見える大山が無ければ、誰もが海だと信じてしまうだろうと思った。僕は横に立つ彼を見下ろした。彼は目の前の景色に見惚れているようだった。
「もう少し近づいてみようか」
 僕の言葉に彼は我に返った様子で、波音に掻き消されてしまいそうな声で、うん、と言った。
 丘を下り浜のほうまで来ると、湖のその壮大さは更に増した。僕達は多くの観光客に混じり、既で波が届かないところまで歩いた。透き通る水が細かな砂を包み攫った。
「湖のなかにはいってみたい」
 彼が唐突に言った。
「でも、水着がないだろう」
 彼は黙って俯いた。僕は事前に彼の水着を買ってやるべきだったと思った。彼は残念そうな顔をして、波打ち際で浮き輪に揺れる同年代であろう少年を眺めた。
「パンツのままでいいなら入っても構わないけど。帰りにコンビニか何処かに寄るまでは、ノーパンって事になるけど」
 彼は、
「うん、だいじょうぶ」
 と言うと、表情を輝かせた。
 彼はTシャツと半ズボンを脱いだ。僕はそれを預かると、行ってらっしゃい、などと言った。
 ブリーフパンツ一枚になった彼は、恐る恐ると言った様子で寄せる波に片足をつけた。そしてどんどん進み、下半身が見えなくなるまで湖に浸かった。彼は無垢な笑顔をして僕を見た。僕もつい反射的に笑って返したのだった。彼は両手で水を掻いた。湖は粒に変わり宙を舞った。粒は日差しによりきらきらと輝いた。彼は子供ならではの笑顔を見せていた。心の底からの透明な笑顔だった。大人の見せる心底な笑顔とは訳が違った。大人の笑顔は、どれだけの笑顔であっても、そこに微かな曇り、濁りがあった。透明な水に滲む、黒い紋様があった。彼の顔には、一点の濁りも見当たらなかった。透き通った笑顔だった。
「おじさん、泳いでもいい?」
 と彼は言った。
「そこら辺でなら。沖のほうは危ないから向かっちゃ駄目だ」
 彼は頷き、浜と並行するように平泳ぎで泳いだ。三メートルほどを泳ぐと、引き返してまた泳いだ。
 僕は暫く彼を眺めていた。眺めながら僕は、自身の少年期を追想した。
 小学生の夏休み、彼と同い年くらいであった僕は、父に海へと連れられた。母と姉も共に行く予定だったが、姉が熱を出してしまい、母も姉の看病の為に行けなくなった。駐車場の車内で水着に着替え、浮き輪を手に海へ飛び込んだ僕は、その心地よい海水の冷たさを感じ、首から下までを海に浸からせた。掬った海水を天に向かって弾いたり、他愛もない事をした。少しして父の立つ浜のほうを見た。普段滅多に笑うところなど見ない父は、僕を見て微笑んでいた。僕は安心してまた海に夢中になった。僕は一人で遊ぶのに飽き、父を呼んだ。父は波打ち際まで来ると、手のひらで作る水鉄砲を教えてくれた。初めのうちは中々上手く出来なかったが、父は丁寧に教えてくれた。ようやく鈍いカーブを描いた水が僕の手のひらから飛んだ。僕はそれを何度も飛ばした。父は優しい笑顔を浮かべていた。
 彼は楽しそうに笑っていた。そのまま一瞬こちらを見た。僕は思わず笑顔を返した。すると彼は再び泳ぎ始めた。
 彼は泳いでは止まり波に揺られを何度も繰り返した。泳ぎ疲れたのか、彼は波の中を歩いてこちらに向かった。浜に上がると彼が歩いたところは黄褐色に変色した。
 彼は言った。
「おじさんは、入らないの?」
「水着を持って来てないからな。大人がパンツ一枚になるわけにもいかない」
「ぼくはいいのに、おじさんはだめなの?」
「子供と大人とじゃ、違うんだ」
 彼は不思議そうな顔をして、
「そっか」
 と言った。
「喉が渇かないか。あっちに売店がある」
「かわいた。口のなかがしょっぱくてきもちわるい」
 僕と彼は売店に向かった。入り口のすぐ横に、水着売り場があった。
「買うかい」
 彼は喜んで好みの水着を探し始めた。裾にデフォルメされたサメの刺繍が施された青色のものと、シンプルな白と青のストライプのもので迷っているようだった。彼はサメのほうを選び取ると、
「これがいい」
 と僕に見せた。
 僕は彼のズボンのサイズを確認し、もう一つ小さいものに変えた。
「飲み物を買おうか」
 そう言うと彼は、
「おじさんは水着は買わないの?」
 と僕を見上げて言った。
 彼はきっと僕と遊びたいのだろうと思った。僕は適当なものを選ぶと手に取った。
 売店を出ると彼は買ってやったカルピスを勢いよく飲み下して言った。
「口のなかがおいしくなった」
 彼は笑って返した。

 僕は売店に併設されたトイレで水着に着替えた。トイレから出ると、彼は僕を浜へと急かした。
 彼は躊躇なく湖へと入った。振り向き、僕が来るのを待っていた。僕は波に足を浸けた。もっと冷たいものを想像していたが、心地よい冷たさだった。僕は進み、彼の元へと近づいた。僕は彼に水を掛けてやった。彼は、わっ、と言うと僕に掛け返した。僕は手のひらで水鉄砲を作り、水を掬うと彼の腹目掛けて発射した。彼はまた、わっ、と言い、今のは何かと聞いた。答えると、自分にも教えて欲しいとせがんだ。僕は出来るだけわかりやすいように彼に教えてやった。彼は中々上手く飛ばす事が出来なかったが、コツを掴み始めると徐々に水は放物線を描き、陽光を反射させて飛んでいった。
「できた!」
 まだ弱々しい水を僕に向けて放った。僕は彼よりも鋭い水を、また腹辺りに向けて放った。僕は彼と少し距離を置いた。彼の水鉄砲は僕には届かなかった。僕はまた彼に向けて発射した。彼は、やはり子供ならではの笑顔で、僕に水を当てようと湖を掻き分け僕に寄った。僕はわざと狙いを外して何度か水を放った。彼は僕を射程内に収めると、水鉄砲を発射した。水は僕の胸に命中した。
 彼は僕に競泳で競おう、と言った。僕は沖の方に歩き、彼でも地が着き安全であるところに彼を呼んだ。彼は泳いでこちらに来た。彼は肩まで水が浸かっていた。
「ここからスタートして、先に浜に着いたほうが勝ちにしよう」
 彼は了承し、勇み顔をした。
「ようい、どん!」
 彼は湖底を蹴り、浜に向かってクロールで泳ぎ始めた。僕は彼が無事にスタートした事を確認すると、ゆっくりと平泳ぎで泳いだ。彼が泳ぐ姿を後ろから見守った。僕はギリギリで負けようと思った。彼が浜に着地する寸前で僕は泳ぎを速めた。彼は浜に着くと立ち、僕の姿を確認した。それと同時に僕は足を着けた。
「久しぶりに泳いだから身体が慣れてないのかな。負けるとは思わなかった」
 と僕は言った。
「でも、ぼくもひさびさだったよ。おじさんにか勝った!」
 彼は無垢に喜んだ。そして、もう一度やろう、と言った。
 僕は次も負けてやり、その次は同着にした。そして次は僕は勝った。とは言え本気になれば圧勝してしまうから、後ろの彼を確認しながらようやくといった感じで勝った。彼はわかりやすく悔しそうな顔をして、もういっかいやろう、と言った。次は寸前で負けてやり、競泳は彼の勝利で終わった。

 僕達は浜に上がると、並んで砂上に座った。僕は久しぶりの運動に身体が重くなってしまっていたが、勿論彼にはそんな素振りはなかった。カルピスウォーターを飲み干すと、
「おじさん、泳ごう」
 と言った。
「俺は少し疲れちゃったな。ここで見てるから、一人で遊んでおいで」
 彼は残念そうな顔をしたが、わかった、と言うと湖へと飛び出していった。教えた水鉄砲を天に向けて放ったり、往復しながら泳いだりした。彼は目を閉じで鼻をつまむと、頭を思い切り水中へ沈め潜水を始めた。しかしそろそろ上がって来てもよい頃合いだというのに、一向にその気配がなかった。僕はぎょっとすると、立ち上がり彼の沈んだところへ泳いだ。と、彼は跳ねるように浮上した。そして目の前の僕を認めると、
「ぼく、せんすい得意なんだ」
 と言って笑った。
 僕は安堵し、
「一分は潜ってたんじゃないか」
 と言った。
「前にお風呂でやったときは、たぶんもっともぐれたんだ」
「俺も、昔はよくやったな」

 その後、体力の戻った僕はもう一度入湖し、彼と遊んだ。疲れて来た僕は、彼に水面に浮かばないか、と言った。僕と彼は全身の力を抜き湖に浮かんだ。太陽光が眩しく、僕は瞼を閉じた。日差しは瞼を透かして瞳に赤い幕を映した。
「泳ぐのもいいけど、こうしているのもいいものだろう」
 僕は言った。
「なんだか、ラッコになったみたい」
 と彼は言った。
 僕は足を着き、湖に浮かぶ彼を見た。彼は瞼を閉じ、今にも眠ってしまいそうだった。僕は腰に手を着き、暫くの間、彼を眺めていた。やはりひたすらに無垢な彼が、そこには居た。
「なんだか、ねむくなってきちゃった」
 と、彼は言った。
「一度上がるかい」
「うん」
 彼は瞼を開くと足を着けた。
「そろそろ腹が減ったろう。飯にするか、それともまだ遊ぶ?」
 彼は暫し迷い、
「おなか空いちゃった」
 と言った。

 湖を離れ郡山方面へ向かった。彼は遊び疲れたのか、小さく寝息を立てて眠ってしまっていた。僕はその横顔を見て、自身の少年期も遊ぶだけ遊んで帰りの車内では眠ってしまっていたことを思い出した。子供は自由だった。僕が自由を失ったのはいつ頃だろうか、などと、思い耽った。

 山々を過ぎ街に入ると、様々な飲食店が目に入った。僕は彼に食べたいものを訊こうと彼の名前を呼んだ。彼は唸るだけで、起きる気配がなかった。僕はより大きく彼を呼んだ。彼は目を覚まし、重そうな瞼を閉じたり開いたりした。
「何が食べたい?」
 彼は大きく欠伸をすると、瞼を擦り目を見開いた。彼はまだ頭が働かない様子で、
「ハンバーガーが食べたい」
 と言った。
「福島まで来てハンバーガーでいいのか」
 しかしそう言う僕も福島の郷土料理や名物などは知らなかった。下調べなど一切せずに来たのだから、当然だった。
「そうだ」
 彼は閃いたように言うと、足元に置かれたリュックからノートを取り出した。そしてページをめくると、言った。
「きたかたラーメンっていうのがおいしいって、地図に書いてあったんだ。見て、ノートの名物コーナーにメモしておいたの」
 僕はよそ見運転にならぬように彼の掲げるノートに一瞬目をやったが、文字までは読み取れなかった。僕は、本当だ、と言った。
「一度車を停めて、良さそうな店を調べてみよう」
 彼は自身で書いたノートを読み返しながら、うん、と頷いた。
 僕は路肩へ車を停めるとスマートフォンでブラウザを開いた。検索エンジンでラーメン店を調べ、比較的評価の高い店に目星をつけると、彼にナビの入力を頼んだ。彼はやはり得意気にタッチパネルを操作した。ルートが表示されると、車を走らせた。
 二十分ほど先にある店に向かう途中、遠くを指差して彼が言った。
「あそこにもある」
 目を凝らすと、筆文字で、「元祖 喜多方ラーメン」と書かれた大きな看板があった。「元祖」の文字だけ黄色に塗られ、強調させていた。
「あの黄色の文字ってどういう意味なの?」
「元祖っていって、一番に喜多方ラーメンを始めたお店ってこと」
「なら、本物のきたかたラーメンだ。ぼく、あそこがいい」
 僕はその店の主張を疑っていたが、彼に合わせ、ウインカーを左に切った。

 外装からして比較的新しい店のようだった。リニューアルでもしていない限り、「元祖」の店ではないだろうと思った。彼はいち早くといった様子で店のドアを開けた。僕も続いて店内へ入った。
 店内も外装と同じく新しく思った。僕は外れを引かなければよい、とだけ思った。覇気のある若い男がテーブル席に座るようにと促した。昼飯にしては遅い時間であったから、先客はカウンターに一人だけだった。席に着くと、彼は差されたメニューを取り、さっと目を通すと言った。
「ぼく、これがいい」
 彼の指差した先は「おこさまラーメンセット」だった。小さなラーメンに、デザートのプリンとおもちゃがセットになったものだった。
「飲み物は?」
「お水でいい」
 僕はオーソドックスな「喜多方ラーメン」に決め、店員を呼んだ。
 注文を済ますと、彼は店内を見渡しながら、
「いちばん初めのお店なのに、きれいだね」
 と言った。
「きっとリニューアルでもしたんだろう。それか、そもそも元祖の店じゃないか、のどっちかだ」
「うそのがんそってこと? どうしてそんなうそをつくの」
「そっちのほうが客から目がつきやすいからだろう。実際、ソウタ君もそれに惹かれてこの店に決めたろう」
「お客さんが集まるからって、うそはだめだよ」
「その通りだな。でも、あっちも商売だから。それに、本当にリニューアルしただけなのかもしれない。食べてみればわかるんじゃないか」
「おいしかったらがんそ、ってこと?」
「まあ、そういうこと」
 店員の男がまず彼の「おこさまラーメンセット」を運んだ。そして僕のラーメンも運ばれた。彼は真っ先におもちゃに手を伸ばした。それはアニメ調にデフォルメされたカエルの頭にチェーンが付いたキーホルダーだった。僕の知る限り人気のキャラクターなどではなく、名も無いキャラクターのキーホルダーだった。彼はチェーンを摘みカエルの顔をまじまじと見た。そしてポケットに突っ込むと、二膳の箸を取り、一方を僕に渡した。
「ありがとう」
 彼は麺を箸に絡めると、思い切り啜った。彼のTシャツやテーブル上に幾つかの茶色の滴が飛んだ。行儀の良い彼にしては珍しいと思った。
「シャツ、シミになっちゃうぞ」
 彼は、へへ、と笑った。
 僕はピッチャーの水をおしぼりに染み込ませ、彼にこちらに寄るように言った。彼は腰を上げて胸を僕に差し出した。僕はおしぼりをシミに丹念に当てた。そしてテーブルの滴も拭き取った。
「ありがとう」
 と彼は言った。
 彼はスープが撥ねないよう、注意しながら麺を啜った。僕もレンゲでスープを掬うと口に注いだ。予想を裏切り、案外に旨かった。僕は続いて麺を啜った。スープがよく絡んだ太麺は程良い咬み心地があり、魚介系の出汁も効いていて奥深い味だと思った。僕は彼に、美味しいな、などと言おうと思ったが、僕より先に彼が口火を切った。
「おいしいね、おじさん」
 そう言うと彼はまた麺を啜るのに夢中になった。僕もまるで彼と同じように、目の前のラーメンに夢中になった。

 店を出て車に戻ると、彼はポケットから先のキーホルダーを取り出し、リュックのファスナーに取り付けた。
「そんな、よくわからないキャラクター、付けるのか?」
 彼は、うん、と言ってリュックを足元へ戻した。
「さて、この後はどうしようか。ノートには何か書いてある?」
 彼はリュックから取り出したノートをぱらぱらとめくった。
「つるがじょう、ってお城が有名だって」
「会津若松の。城に興味があるのかい」
「ううん、ぜんぜんない。地図帳に有名だってあったから、いちおう書いといたの」
「ここからだと一時間くらいのところだな。どうする」
「ぼく、ちょっと疲れちゃった」
「それなら、もうホテルにチェックインしよう。一度ゆっくりしてから明日の予定を決めればいい」
「うん、そうする」
 僕は車のエンジンを掛け、彼にホテル名を教えた。ナビの入力が終わり、駐車場を抜けると福島駅のほうへ向かった。ホテルまでの道中、彼はやはり眠ってしまった。

 ホテルの立体駐車場に車を入れる為、彼を起こした。窓の外をきょろきょろとする彼に、車を停めるから荷物を持って外に出るように言った。彼は地図帳とノート帳をリュックにしまうと、そそくさと車を出た。係員の指示に従い車を停めると、僕も荷物を持ち車を出た。係員から駐車券を受け取り、彼とフロントへと向かった。
 ネットで見つけた安いビジネスホテルだったが、古びた外観から想像したものよりホテル内は綺麗で現代的だった。古さを感じるところといえば、カードキーではなくキー棒の付いたディスクシリンダー錠である事くらいだった。僕達はエレベーターでキー棒に記された五階へと上がった。
 やはり新しさを感じさせる廊下を突き当たり、左に進んだところに部屋はあった。鍵を差し重いドアを開けると照明を点けた。レイアウトはいかにもビジネスホテル的で簡易なものだったが、やはり外観よりも幾分新しかった。今年にリニューアルしたばかりと言われても不思議ではないと思った。実際、そうなのかもしれなかった。彼はリュックを降ろすと窓際のセミダブルベッドに飛び乗った。子供の彼からすればさぞ大きいベッドだった。彼はその立派なベッドに興奮した様子だった。寝転がったままバタフライでも泳ぐように身体をくねらせた。僕はテーブルの上に荷物を置き、隣のベッドに腰掛けた。
「夕飯、なにか食べたいものはあるかい」
「まだおなかが空かないからわかんない」
 彼はようやく落ち着き、うつ伏せになって言った。
 僕はテーブルの椅子に座り直すと、ブリーフケースからパソコンを取り出して開いた。少しでも仕事を進めてしまおうと思った。気付いた時には僕は四十分ほども作業に集中してしまっていた。振り返ると、彼はすうすうと寝息を立てて眠ってしまっていた。
 彼が起きたのはそれから二時間後だった。窓の外はすっかり暗くなり、低いビルの窓が光を放って点在していた。
「起きたかい」
「ぼく、ねむっちゃったんだ。おじさん、今なんじ?」
「八時を少し過ぎたところ」
「もうそんな時間。おなかがぺこぺこ」
「何が食べたい?」
 彼は黙って考え込んでしまった。
「外を歩いてみようか。良さそうなところがあったら、そこに入ればいい」
 彼は、うん、と頷くとベッドに腰掛けながらスニーカーを履いた。僕はひと段落した作業をファイルに保存すると、パソコンを閉じた。

 東京に比べれば随分と人の疎な駅前の通りを歩 いた。僕は歩きながら、自身が今東京を離れた遠い地にいる事を改めて思った。僕一人で過ごしていたならばあり得ない事だろうと思った。
 僕達は飲食店が多く並ぶ通りへと差し掛かった。特に福島ならではといったような店は見当たらなかった。和食店や洋食店、居酒屋などが並んだ。
「ソウタ君が寝てる間に調べたんだけど、馬刺しと餃子なんかも有名らしい」
「ばさしって?」
「馬の肉だよ。刺身で食べるんだ」
「馬のお肉って食べれるんだ。しらなかった。でもぼく、おさしみってあんまりすきじゃない」
「それなら餃子は?」
「だいすき。たまにママがつくってくれるんだ」
「それなら餃子屋に行こうか。さっき良さそうな店があった」

 その中華料理屋は所謂町中華といった感じだった。僕達が入店すると残ったテーブルは一卓しかないほどに店は混んでいた。テーブルに着くと彼にメニューを渡した。写真付きのメニューはどれも旨そうだった。一通りメニューに目を通した彼に言った。
「食べたいもの、決まったかい」
「うん。でもいっぱいあってどれにしようか迷っちゃう」
「全部頼んだって構わないよ。食べきれなかったら、残った分は俺が食おう」
 テーブルのチャイムを鳴らして店員を呼ぶと、彼は次々と注文を始めた。ゆうに五品は超えていた。彼一人ではとても食べきれないだろうと思った。僕はあんかけ炒飯を注文する予定だったが、彼の頼んだ量を考え、やめた。最後に彼はオレンジジュースを頼み、僕はビールを頼んだ。
「凄い量を頼んだな」
「たのみすぎだったかな。ごめんなさい」
「構わないよ。余程腹が減っていたんだな」
「うん。それに、どれもおいしそうだったから」
 先にオレンジジュースとビールが運ばれてくると、僕は思わず彼と乾杯した。彼はきょとん、としていた。細かく弾ける泡を含んだ液体が喉越し良く胃の中に吸い込まれていった。僕は幸福を感じた。普段、仕事帰りに飲むときのそれよりも、幾分強く感じたように思った。
「ビールっておいしいの?」
 彼はオレンジジュースをストローで吸い上げると、訊いた。
「旨いよ。ソウタくんも大人になればわかるだろう」
「お父さんもお母さんも、ほとんど毎日飲んでるんだ。一口だけのませてもらったけど、にがくってまずかった」
「その苦味が旨いんだよ。今のソウタ君にはわからないだろう」
 彼はまたジュースを吸い上げて飲み下すと、
「いっしょうわからなくていいかも」
 と言った。
 初めに運ばれて来たのは回鍋肉丼だった。彼は二口ほど食べれば十分だろうと思った。でないとこれからの料理を食べ切れないと思った。僕は彼に二口分ほどの具と飯を皿に分けてやった。そして残りを僕が食べる事となった。僕はこれから運ばれる料理を全て食べ切れる自信がなかった。
 三皿目の料理が運ばれる頃には、僕は既に満腹を感じていた。まだ二皿ほどは来るはずだった。僕は昔から食べ物を残すという事が出来なかった。どれだけ腹が一杯だろうと、残さず食べた。作ってくれた人に、というよりは、食べ物そのものに対して申し訳なく思う心があった。物心がつく頃から僕のその習性は変わっていなかった。
 最後に運ばれたトンカツを見て、僕は思わず戻しそうになった。最後の最後に揚げ物はないだろう、と思った。更に最早中華料理でもなかった。彼は一切れを口にすると、
「これもおいしい。でも、おなかいっぱいになってきちゃった。おじさん、すごいや。こんなにたくさん食べれるなんて。大食いのテレビ番組みたい」
 僕は料理を流し込む為に酒を幾分多く飲んでいた。彼の起きている間にこれほどの量を飲むのは初めてだった。僕は残り一切れになったトンカツをウーロンハイで無理やり流し込むと、背もたれに倒れて大きな溜息をついた。彼は相変わらずに、おじさん、すごい、などと僕を称えた。

 店を出ると、僕は自販機で水を買い、何処かで一度休みたいと思った。少し歩いた所に広場があり、僕は街灯の灯が届かない暗い花壇の上に座り込んだ。ペットボトルの蓋を開けようとしたところで、胃から食道に込み上がる物を感じた。束の間、僕は何も生えぬ土の上に嘔吐した。そして直ぐにまた吐いた。吐き出した事で気分が少し晴れたのを感じ、花壇に座り直すと、水を一口飲んだ。子供の前で、なんとだらしなく情けない姿だろう、と思った。彼は僕に対して侮蔑の心を抱いたのではないだろうかと思った。俯く視線の上に彼の立ちすくむ足が見えた。すると彼は僕の横に腰掛け、僕の背中を撫でた。
「おじさん、だいじょうぶ?」
 と彼は言った。
「ぼくがおじさんにたくさん食べさせちゃったから」
 彼は僕の背中をひたすら撫で続けた。
 暫くして吐き気も治まり、僕はぼうっと駅のほうを見た。彼は相変わらずに背中を撫で続けてくれていた。
「ありがとう。もう大丈夫」
 そう言うと、彼はそっと手を離した。
「明日は、何処に行きたい?」
「どうしよう。まだきまってない」
「とりあえず、ホテルに戻ろうか。ごめんな、手間かけさせて」
「ううん。ぼくこそごめんなさい。はい、おじさん」
 彼はいつの間にかリュックから取り出していたポケットティッシュを僕に手渡した。
「ありがとう」
 僕はそれで鼻や唇を拭くと、丸めて掌に収めた。

 部屋に着くと、僕は彼に風呂に入るように言った。彼は言われた通りにバスルームへと向かった。僕はベッドに仰向けになると、瞼を閉じた。

 目を覚ますと窓の外は明るかった。時刻は七時に差し掛かる頃だった。僕は昨晩の記憶を辿った。彼に風呂に入るよう言ったあと、僕はそのままベッドで眠ってしまったのだと思った。上半身を起こすと、布団が崩れた。僕は布団を広げずに眠ってしまったはずだから、彼が掛けてくれたのだろうと思った。眠った僕の下に敷かれた布団を彼が掛けたのだとすれば、僕は相当に深く眠ってしまっていたのだろうし、何しろ、そのような僕に布団を掛けるなど、大人であっても苦労するに違いなかった。僕は、僕と布団に格闘する彼の姿を思い浮かべた。
 横を見やると彼は背を向けて眠っていた。僕はこの旅を、彼にとってより良いものにしてあげたいと思った。僕は彼を起こさぬように身を起こすと、パソコンを開き、初めてまともに福島の観光地などを調べた。なるべく彼が楽しめるところが良いと思った。
 一通りを調べ終え、僕はシャワーを浴びた。彼を起こさないよう、ドライヤーは使わなかった。しかし僕のせいか否か、後ろから彼が言った。
「おはよう、おじさん」
「ごめん、起こしちゃったか」
「もう七時だし、ちょうどいい時間に起きれた」
 彼はそう言って欠伸をした。
「一階で朝ごはんが食べられるみたいだけど、行くかい」
 彼は、うん、と言って布団を剥ぐと靴を履いた。そしてバスルームで顔を洗うと、僕を待った。
 朝食はビュッフェ方式だった。僕のような子連れは無く、ほとんどがビジネスマンであろうと思われた。僕と彼はそれぞれの皿に選んだ料理を盛っていった。僕は一通りを盛り付けると、彼に窓際のテーブルで待つと伝えた。彼は了承すると、料理選びに戻った。テーブルに着き少しすると、彼は皿一杯の料理を持ってテーブルに置いた。
「もうすこしとってきてもいい?」
「いいけど、そんなに食べれるのか?」
「うん、食べれる」
 彼は再び料理を取りに戻った。
 彼の前にはウインナーやハム、卵焼きなどが乱雑に盛られていた。いかにも子供らしい選別であると思った。彼がいただきます、と言うと、僕もそれに習った。彼はどの料理も、実に旨い、といった様子で食べた。僕は一皿分で十分に腹が満たされるのを感じ、食後のコーヒーを注ぎに席を立った。コーヒーを手にして戻ると、彼も二皿目を食べ終えようとしていた。二皿目と言っても盛った料理の密度的に、量は僕と同じくらいか、幾らか少ないくらいだった。コーヒーを啜ると、僕は訊いた。
「腹、一杯になったかい」
 彼は最後に残った唐揚げを口へ放り、水で流し込んだ。
「うん。ちょっと食べすぎちゃったかもしれない」
 そう言って、彼は席を立った。
「まだ食べるのか?」
「デザートをまだ食べてないもん。おいしそうなプリンがあったんだ」
 彼はデザート類が置かれたコーナーへと歩いて行った。

 プリンも食べ終えた彼は、非常に満足といった顔をした。
 朝食を済ますと部屋に戻り、二人して身支度を整えた。
「忘れ物はないかい」
「うん、だいじょうぶ。今日はどこへ行くの?」
「今日は俺が決めたところに行こうと思う」
「おじさんが決めたところ?」
「ああ、夜のうちに色々と調べたんだ」
「なんだか楽しみ。行こう」
 彼はリュックを肩に掛けた。僕達はホテルを後にして、車に乗り込んだ。

10

 ナビも設定せずに車を走らせる僕を、不思議そうに見る視線を左から感じた。僕は気に留めずにそのまま目的地方面に向かった。事前にチェックしておいたスマートフォンの地図アプリで、大体の目処はついていた。彼は、ついに訊いた。
「おじさん、ナビ使わなくてもいいの」
「目的地までの大体の道のりはわかってるからね。それに向かう場所がソウタ君にわかっちゃ、面白くないだろう?」
「お楽しみってこと?」
「そういうこと」
 彼はホテル近くのコンビニで買ってやったグミ菓子を口へ運んだ。

 目的地は化石館だった。いわき市内で見つかった恐竜などの化石を展示している博物館だった。彼がどのようなものに興味があるのかわからなかった僕は、男の子ならきっと恐竜が好きだろう、という安易な発想で目的地をそこに選んだ。僕は彼が喜んでくれれば良い、と思いながらいわき市内に入った。市内に入ってからは信号を待ちながらスマートフォンで詳しい場所を調べた。少ししてようやく看板が見えた。
「ほら、あそこだ」
 僕は遠くの看板を指差した。彼は首を屈めてそれを見た。
「化石?」
「そう、興味ないかい」
「化石って、あの恐竜の骨みたいなやつだよね」
「ああ、そうだ」
「ええ、すごい! おじさんも恐竜がすきなんだ! ぼくもだいすきなの。でも化石って見たことがなかったんだ」
 僕は彼のその言葉に安堵し、駐車場に車を停めた。彼は僕がまだキーを抜いていないうちにドアから飛び出した。僕は彼が喜んだ事を嬉しく思った。僕も車を降りると彼の後を追うような形で受付へと向かった。大人用と子供用の二枚のチケットを購入し、館内へ入った。
 入ったすぐそこには全長三メートルほどの恐竜の化石が展示されていた。その姿から、恐らく水中に生息した恐竜であろうと思った。胴に鰭のようなものがあった。彼は化石に近づき、見上げた。
「すごい、こんなに大きいんだ」
 彼は見上げたまま、化石の周りを一周した。
「気をつけなよ」
 僕の声は彼に届いていないように思った。彼はその化石についての説明文を熱心に読んだ。僕も彼の後ろから流し読んだ。
「フタバスズキリュウ、か」
 彼は改めて化石を見上げた。
 僕もいつしかぶりに見た化石にロマンのようなものを感じた。これほどの大きさの生き物が、何千年もの間、地球を制していたのだと考えた。そして今、何千年もの時を経て化石として僕達の前に姿を現していたのだった。
「昔はこんなのがそこらへんにたくさんいたってことでしょ。なんだか想像がつかない。今も恐竜がいたら、きっと楽しかっただろうな」
「でも、こいつは肉食らしい。昨日みたいにのんきに泳いでたりなんかしたら、一飲みにされちゃうだろう」
 彼は、ぎょっ、と首をすくめ、
「やっぱり、いなくてよかった」
 と言った。
 僕達はそのまま展示室へ向かった。
 先の化石ほどに大きな化石がいくつも展示されていた。どれも市内で発掘されたものだった。薄暗いオレンジの照明に、深い渓谷を思わせる風音がスピーカーから流れ、室内を包んでいた。
 彼は真っ先に近くの恐竜の化石のほうへ向かった。一通り見上げ眺めると、また次の化石へと移った。僕は彼を追うようにして室内を周った。
 彼は最後にティラノサウルスの化石へ向かうと、言った。
「ティラノサウルスだ。かっこいい」
 彼は憧憬の対象を見るような目で化石を見上げた。
「こんなのが実際に居たなんて、信じられないよな」
「ぼくがさ」
 彼が言った。
「ぼくがしょうらい、発明家になれたりしたら、まずタイムマシンをつくりたい。そうしたら、ここにいる恐竜をじっさいに見ることができるよね」
 僕はその彼の言葉に、なんとも言えぬ切なさ、歯痒さのようなものを感じた。その感傷は子供である彼だからこそ僕に与える事が出来るのだろう、と思った。
「ああ、きっとできる」
 と、僕はそう言った。
 彼は暫くの間、化石を見上げ、眺め続けていた。

 展示室を出ると、この博物館のもう一つの目玉であるらしい、石炭の模擬坑道へと向かった。過去から現在に至るまでの石炭の掘り方が、坑道を進むに連れて再現されていくといったものだった。
 ほとんど照明が付かず、真暗と言ってもいいエレベーターに乗った。エレベーターに乗った瞬間から世界観を作り上げているようだった。ツルハシで石を打つような音が響き渡り、実際は地下の一階に降りただけであろうが、エレベーターの液晶は地下六百メートルと示していた。中々に凝った作りであると思った。
 扉が開くと、やはり薄暗い模擬坑道が続いた。彼を見やると、顔は少し怯えているように見えた。僕ですら不気味さを感じていたのだから、無理もなかった。
 先へ進もうとすると彼は、
「なんだかこわい」
 と言って立ち止まった。
 相変わらずにツルハシを打つ音がフロア中に響いていた。
「帰るか?」
 僕が訊くと、彼は暫し考えた様子の後、
「ううん、行く」
 と言った。
 進むと男女二体のマネキンがあった。当時の炭鉱員を再現しているようだった。赤外線センサーでもあるらしく、僕らが通ると彼らの話し声がスピーカーから流れた。男のほうは褌一枚の姿でハンマーを持ち、炭鉱に穴を空けているようだった。女のほうも短パンの下着のようなものを履いただけで、ほとんど裸の状態のまま、何かを包んでいるようだった。パネルの説明文を読むと、男の空けた穴に、女がこしらえた爆弾を突っ込み爆破する様子であるという事だった。それにしても不気味なBGMが流れながらマネキンが喋り出すこの場は、大人の僕であっても何か悍ましい雰囲気を感じたのだった。彼は、やはり怯えていた。僕は彼に、やはり帰ろうか、と尋ねたが、彼は頑なに先へ進む意思を曲げなかった。
 進んだ先では様々なマネキンが喋った。道具の手入れをしている女のマネキンや、穴を掘る男のマネキンが揃って作業をしている様子だった。彼は怯えた様子を、僕になるべく見せないようにしているようだった。出来るだけ勇み顔を保とうとしていた。しかし芯の部分では十分に怯えている様子が見て取れた。全て木製といった感じの休憩所らしい箇所には作業員が椅子に座り休憩をしていた。そこを通る際、作業員が受話器を持つ電話のベルが鳴った。僕も少し驚いたが、彼は余程に驚いたらしく、わっ、と声を上げて後ずさった。彼の背中が僕の腰辺りに当たった。
「大丈夫か」
「うん、ちょっとだけびっくりした」
 彼はそう言うと、思い出したかのように表情を勇み顔に戻した。
 現代の鉱山機械のレプリカが見える頃には、模擬坑道も明るくなっていた。彼は勇み顔をやめ、安心した顔に戻った。
「怖かったかい」
 僕は訊いた。
「ううん、マネキンが変なしゃべりかたをするから、おかしかった」
 と言った。僕は思わず息を漏らして笑った。彼はそんな僕を見て、
「どうして笑うの」
 と、不服そうに言った。
「いや、なんでもない」

 僕達は日の差すガラス製の出口扉を開けると外に出た。そこは施設の広場だった。暑さが翳り気持ちの良い陽気であったから、そこのベンチで少し休もう、と僕は言った。彼は素直に僕の隣に腰掛けた。
「どうだった、この博物館」
「とっても楽しかった。恐竜の化石を見れたのがうれしかった。思ってたより、ずっと大きかったな」
 彼は生きた恐竜を空想のなかに見るように青空を見上げた。
 僕は近くの自販機でアイスコーヒーと彼のジュースを買ってやった。二人してそれを飲みながら、視界の半分を占める林や森を眺めた。時間は、ゆるやかに流れた。
 暫くして僕達は車に戻った。彼はジュースのボトルをホルダーに差した。
「行こうか」
「こんどはどこへ行くの?」
「それも、やっぱりお楽しみだ」
 僕はキーを差して回した。

 一時間ほど車を走らせ市街に入ると、スポーツ用品店に寄った。彼を店内に連れ入れると、訊いた。
「好きなスポーツってあるかい」
 彼は店内をきょろきょろとしながら、
「野球がすき。たまにともだちともやるんだ」
 と言った。
 僕は彼を連れて野球用品コーナーへ向かった。
「グローブとバット、どれがいい」
 きょとんとした彼に僕は続けた。
「好きなものを選びな」
「これから、野球をするの」
「ああ、嫌かい」
 彼はかぶりを振ると、グローブを選び始めた。彼は暫しコーナーを眺めた後、一つのグローブを手に取り、嵌めた。
「それでいい?」
 彼は頷き、
「でも、すこし高いかも」
 と言った。
 値札を見ると、五千円ほどだった。
「俺からしたら高くないよ、その程度。サイズは合ってる?」
「うん、たぶん」
 僕は店員を呼び念の為サイズを確かめてもらった。もうワンサイズ小さい方が良いとの事だったので、それを買う事にした。店員に僕の分のグローブも適当に選んでもらい、適当に選んだ金属バットと二個セットの軟式ボールも手に取ると、レジへ向かった。会計を済まし、彼にグローブを手渡した。
「ありがとう、おじさん」
 彼は早速グローブを嵌め、自身の手に馴染ませた。

 総合公園の駐車場に車を停め、グローブを手に車を出た。彼は相変わらずに左手にグローブを嵌めたまま、掌を閉じたり開いたりしていた。
 市街地の公園よりも幾分大きな遊具を備え、そことは別に大きな広場があった。僕達の他には親子連れが五組足らず居て、ビニールボールで遊んだり、ピクニックシートを敷いて休んだりしていた。僕達は周囲に人が居ないところまで歩いた。
「ここでいいだろう」
 僕がそう言うと、彼は僕との距離を広げた。彼は七八メートル程僕と距離を取った。遠くに見える彼はすっかり野球少年の姿だった。グローブを構え、真剣な目でこちらを見つめていた。僕はグローブを嵌めボールを手に取ると、ゆるやかな放物線を描くようにボールを投げた。少し上に投げ過ぎたと思ったが、彼は器用に後退りすると、額の上でボールを捕った。
「おじさん、いくよ!」
 彼が声を張って言うと、そのまま片足を上げ腕を振りかぶり、鋭くもどこかふわりとしたボールが僕の胸辺りを目指し放たれた。僕はその捕者を思い遣ったボールをキャッチした。
「良い球だな」
 実際、僕の投球よりも彼のほうが随分と上手だった。僕も彼くらいの歳の頃、二年ほど少年野球チームに所属していたが、当時の僕よりもよっぽど上手だと思った。僕は我ながら大人気ないとは思いつつも、先よりも鋭くボールを放った。しかし球速ほど鋭かったものの、ボールは茂る草の上をバウンドして彼の足元へ向かった。彼は僕のその悪球も難なく受け止めた。そして、笑った。
「おじさん、力みすぎだよ」
 僕は笑って返した。

 数ターンを続ける頃には僕の球もようやくまともな軌道を描いて飛ぶようになった。加減しつつも鋭い球を、彼はグローブで捕んだ。彼はキャッチボールをつい最近もやったのだろうが、僕にとってはおおよそ二十年ぶりだった。
 真夏にしては涼を感じる広場で、僕は自らの生命を感じた。大袈裟ではなく、生きている実感を得たような気がした。それを得た僕の放つボールもまた、生命の力強さを纏って飛んでいくように思った。そのボールを、強い生命力を持つ彼がキャッチした。行き交うボールは、まるで生命の蠢きを得ているようだった。
「少し休憩しようか」
 僕はボールをキャッチすると、そのままグローブを外し、言った。その場に胡座をかいて座り込み、背後に両手を着いた。快晴に浮かぶ太陽は眩しく、僕は目を細めた。彼は僕のところまでとことこと走って来ると、僕と同じ格好で隣に座った。
「喉、渇かないかい」
「ちょっとだけ」
 僕はポケットの財布から千円札を取り出して言った。
「これでなにか買って来な。ほら、そっちに自販機がある」
「おじさんは、なにか飲む?」
「適当に、スポーツドリンクとかがあれば」
 彼は、わかった、と言って自販機のほうへ歩いて行った。
 戻って来た彼は、スポーツドリンクとみかんジュースを手にしていた。釣り銭を僕に返すと、彼はボトルを開けジュースを垂直にして飲み下していった。
 僕達は暫くの間、草の上で休みほうけていた。僕はふと寝転がりたくなり、地に着けた両手を離すと仰向けになった。太陽は足元のほうへと逸れていて、眩しさは感じなかった。僕は両手と両足を伸ばし、大の字になった。僕は青空を眺めながら、その向こうの宇宙を思った。自分という存在があまりにも小さい事を、俗ながらに思った。その小ささを最後に実感したのはいつだったろうと思った。人間というものは不思議なもので、いつからか自分という存在が世界で最も大きいものだと勘違いしてしまう。先までの僕がそうだったように。それが良い事なのか悪い事なのかはわからないが、どちらでもあるような気がした。少なくとも彼は恐らく、自身が世界の全てだと思っている事だろうと思った。しかし彼のような子供であればそれできっと正しかった。大人になると、自身という存在の大きさのバランスを取らなくてはならなかった。間違いなかったのは、このときの僕はどこか救われたような心持ちになっていた、という事だった。僕は、それだけでいいのだろうと思った。
 彼は、隣で僕を真似てなのか大の字で空を見た。彼は目を瞑った。僕も瞑った。少しして僕は眠りに落ちそうになった。しかし彼の言葉がそれを果たさなかった。
「おじさんって、いまもお母さんやお父さんとなかがいい?」
「どうした、急に。まあ、悪くはないだろうな。もし悪かったら、今頃ソウタくんとこうしてはいないだろう」
「いいわけではないってこと?」
「ソウタくんくらいの歳だと、両親と仲が良かったり悪かったりするんだろうけど、俺くらいの歳になると、良い悪いとかっていう関係じゃなくなるんだ、不思議と」
「そっか」
「思えばいつからなんだろうな、今みたいな関係になったのって。大人になるとそうなるんだ、きっと皆。子供の頃のような関係ではいられなくなる。昔みたいに毎日一緒ってわけでもなくなるしな」
「おじさんはいまひとりで暮らしてるけど、さみしくなったりしない?」
 僕は瞼を開けて空を見た。彼がまだ目を瞑ったままなのか、僕と同じく空を見ていたのかはわからなかった。
「時々は寂しくなるよ。でもやっぱり俺の歳になると、それはもう親が居ないから、とかそういう問題じゃなくて、恋人がいるかとか、結婚しているかだとかの話になってくるんじゃないかな」
「おじさん、こいびとはいないの」
「今日まで一緒に生活していて、少しでもいる素振りがあったかい。もう、長い事いない」
「どうして?」
「ソウタくんももう恋愛に興味のある年頃か? そう言われるとどうしてなんだろうな。何年か前までは恋人もいたし、恋愛に積極的だったんだろう。歳のせいなのか、今はそういう事にあんまり興味が持てないんだ。結局はきっと、歳のせいなんだろう。恋をするっていうのにも、体力がいるものなんだ。ソウタくんは今、恋をしてる?」
「恋なのかはわかんないけど、同じクラスにかわいい子はいるよ。たまに話すときがあると、きんちょうしちゅうような子」
「それはきっと恋だろう。ソウタくんがもう少し大きくなれば、今の気持ちがなんなのか、少しずつわかってくるはずだ」
「ぼくのお母さんもお父さんも、やっぱり恋をしたのかな。だから結婚して、僕が生まれたのかな」
「きっとそうだろう。もう結婚して十年くらいになるか。すごいと思うよ、ソウタくんのお母さん、お父さんは。今だに結婚記念旅行なんてするくらいなんだから。俺の周りの奴らなんて、結婚しても相手の愚痴を言ってるか、離婚しちゃう奴らばかりだから」
 彼はしばらく間を置くと、言った。
「お母さんもお父さんも、ぼくよりも、恋したあいてのほうが大切なのかな」
「どういうこと?」
「お母さんはぼくよりお父さんのほうが、お母さんはぼくよりお父さんのほうが好きなのかなって」
「どうしてそう思うんだ」
「おじさんが言ったみたいに、お母さんとお父さん、とっても仲がいいんだ。ぼく、たまに思うんだ。ぼくってもしかしたら、じゃま者なのかもって」
 彼の鼻を啜る音が聞こえた。僕は瞼を開いて彼を見た。彼はこめかみに伝おうとする涙が流れないように瞼を擦っていた。
「邪魔者なんて、そんなわけないだろう。二人にとって一番大切なのは、ソウタくんに決まってる」
「どうしてわかるの」
 彼はしゃくりあげながら言った。
「そういうものなんだ。親にとって一番大切なのは子供なんだ」
「じゃあ、どうして二人だけで旅行に行っちゃったの?」
「ソウタくんから言ったんじゃないのか? 二人だけで行っておいで、って」
 彼は変わらずに泣きじゃくった。
「うん、言った。だってぼく、聞いちゃったんだもん」
「なにを?」
「夜におしっこに行きたくなって、自分の部屋からトイレに行ったとき、リビングにいたお母さんとお父さんが、ひさしぶりに二人でも旅行したい、って言ってたの」
 僕は少し言葉に詰まったが、言った。
「それは、そういうときもあるのかもしれないけど、ソウタくんが邪魔者だなんて事は、絶対にないんだ」
「でも、ぼくがふたりで行ったらいい、ってお母さんとお父さんに言ったとき、うれしそうな顔をしてるように見えたんだ、ぼく」
「それはきっと、ソウタ君がそんなふうに気を遣ってくれた事が嬉しかったんだろう」
 僕はそう言いながら、僕自身も姉夫婦は標準的な夫と妻としては少し仲が良すぎると思った事があると回想した。去年の年末にこちらの実家に皆で集まった際も、まるで同棲中のカップルのようだ、などと感じたものだった。確かに彼らが今でも変わらずに仲睦まじいのは知っていたが、息子である彼がそうまで思ってしまうのは、些か問題であるようにも思った。しかし彼が聞いたという会話は、彼が思うようなつもりで言ったのではないのだろうとも思った。彼を「邪魔者」であると思っているなど、無論あり得ないと思った。彼らはただ、たまには二人の時間を取りたかった、という程度であって、彼をぞんざいに思っているわけではないはずだった。暫し僕は彼にその事をどう伝えればよいのだろうかと考えた。
「ソウタ君、最近お母さんやお父さんに言われたり、されたりした事で嬉しかったことはあるかい」
 彼は鼻を啜ると、黙って考えた。そして言った。
「お母さんはこの前、算数のテストでいつもよりいい点をとったとき、ほめてくれた。ごほうびに夜ごはんは僕の好きなものを食べていいって、いっしょにスーパーに買い物に行ったんだ」
「なにを食べたの?」
「ハンバーグ。いつもだったら買ってくれないのに、その日はおかしも買ってくれたんだ」
「旨かったか?」 
「うん、とっても。お母さんのつくるハンバーグ、ぼく大好きなんだ。レストランで食べるハンバーグよりも、ずっとおいしい」
「へえ、姉貴の作ったハンバーグなんて食べたことないな。いつか食べてみたい」
「こんど、ぼくんちに遊びにきてよ、おじさん」
「そうしようかな。それと同じような嬉しかった事、お父さんとはあった?」
 彼は、うーん、と言って考えた。
「おじさんちに来る前の前の日、野球の試合があったんだ。お母さんもお父さんもおうえんしに来てくれて、ぜったいに勝ちたかったんだけど、二点さで負けちゃった。その試合のぼく、バッティングはぜんぜんダメだったんだけど、相手チームが大きく上げたフライのたまを捕って、二るいに投げたんだ。あ、ぼくのポジションはライトなんだ。そうしたら相手チームの走者が間に合わなくて、ダブルプレーをとれたの。帰りの車のなかで、お父さん、ほめてくれた」
「なんて?」
「落ち込むことないぞ、あのときのぼくのプレー、すごくカッコよかった、って。でもくやしいな、ってぼくは言った。そしたらお父さん、そのくやしさを思い出しながら練習しなさい、って。そうしたらつぎはきっと勝てる、って言ってくれた」
「お父さんとは一緒に練習したりもするの?」
「うん、お父さんも子供のころに野球をやっていたんだ。バッティングのフォームとか、もっとこうしたほうがいい、ってアドバイスしてくれる」
「そんなお母さんとお父さんが、ソウタくんのことを『邪魔者』だ、なんて感じてると思うかい」
「……。じゃあ、どうしてふたりで旅行したい、なんて言ったの?」
「そういう気分になるときもあるってことだ。ソウタくんは時々、お母さんやお父さんとじゃなくて、友達とだけでどこかへ行きたいって思った事はない?」
 彼は少し考えて言った。
「あるよ。ともだちと自転車で遠くまで行ってみたいって。この前、おなじクラスのともだちとできるだけ遠くへ行ってみようって、ふたりで自転車を漕いだんだ。夜ごはんまでには帰らなきゃいけないから、朝早くに出て。お昼すぎになって、そろそろ帰らなきゃって思って道路のひょうしきを見たら、まだとなり町に入ったばっかりのところだった。そのときともだちと、こんどはもっと遠くへ行こうって約束したんだ」
「それと同じ事だよ。ソウタくんが友達とふたりだけでどこかへ行きたいときがあるように、お母さん達にもあるんだ。となり町へ行ったとき、お母さんやお父さんを邪魔者だ、なんて思ったか」
 彼は小さく、ううん、と言った。
 僕達は暫く揃って空を眺めた。
 少しして、彼は言った。
「ぼく、なんだかお母さんとお父さんに会いたくなってきちゃった」
 僕は息を漏らして笑った。
「二人が帰ってくるまで、あと半月もない。待てるかい」
 彼は、
「うん、待てる」
 と言った。

11

 レンタカーを返しに向かう道中、【ひまわり畑 入り口】の看板が過ぎたのを見た。返却時間までにはまだ余裕があった。僕は車をユーターンさせ、看板の先に入った。これは彼のためというより、僕の興味からだった。映画やテレビドラマで幾度となく見たことはあるが、実際に見た事はなく、いつか見てみたいと思っていた。こんな機会でもないと行く機会はないだろうと思った。
「ひまわりを見に行くの? おじさん」
「嫌か?」
「ううん。おじさんって、お花が好きだったんだ」
 僕は適当に返し、野原のような駐車場に車を停めた。車の中からでも大量の向日葵の花が遠くに望めた。僕と彼は車を降り、そちらのほうへと歩いて向かった。
 見渡す限り、向日葵畑だった。遠くの山々が遮断しなければ、何処までも続くようだった。僕は少年期に見たドラマのワンシーンを思い起こした。学園物のドラマで、ある事件がきっかけで心に傷を負った生徒を、サプライズで向日葵畑に連れて行くといった内容だった。僕はそのドラマを気に入っていて、毎週欠かさずに観ていた。そのシーンは今だに僕の記憶に深く残っていた。青いペンキで、【入り口】と書かれた看板の先には、長く続くうねる畦道があった。僕は彼に、先に向かおうと促した。
 標準よりも背丈はあるほうである僕よりも高くに咲く向日葵の花を見上げながら歩いた。僕はつい我を忘れ、彼に構わず先へと進んでしまったようだった。後方から声がした。
「おじさん、まってよ」
 十歩ほど離れたところに彼がいた。
 僕は彼に詫び、彼を置いていかないように注意して道を歩いた。うねった道は徐々に真っ直ぐになっていった。彼が、唐突に言った。
「おじさん、なんだか楽しそう」
 見上げる彼はどこか悪戯な顔で笑った。
「向日葵畑、一度来てみたかったんだ」
「ぼくもこんなにたくさんのひまわりを見るのははじめて。もっと少ないのなら、学校で見たことがあるけど。でもここ、とっても広いね。おじさん、ちょっとだけ走ってみてもいい?」
 僕が頷くと、彼は全速力で続く道のなかを走った。あまり整えられた道ではなく、気をつけるように叫ぼうとした瞬間、彼は派手に転び、そのまま横向きに二回転ほどした。僕は中腰に立ち上がった彼の元へと走った。膝と肩が湿った土で覆われていた。
「大丈夫か?」
 彼は、うん、大丈夫、と言って両膝の土を払った。僕もTシャツの肩に付いた土を払ってやった。
「そろそろ車に戻ろうか」
 彼は、うん、と頷いた。
 僕達は踵を返し、歩いた道を戻った。
「いたた」
 彼が屈んで膝の様子を確かめた。僕も屈んで見てみると、擦り剥き、血が滲んでいた。
「擦り剥いちゃってるな。歩けるか? 後で絆創膏を買おう」
「歩けるよ。このくらいだったら、野球の練習でしょっちゅうだもん」
 彼はそう言って得意気な顔をしたが、やはり痛いのか、顔を少し歪ませながら僕の後を着いた。少し歩いたところで、彼はふと、小さな右手で僕の左手の先を掴んだ。僕はその手をそっと握り返した。僕達はそのまま駐車場までの道を歩いた。

12

 書斎のオフィスチェアにもたれ掛かりながら、僕はスマートフォンのタスク管理アプリを眺めて溜め息をついた。今月中に済ませなければならない仕事が溜まりに溜まっていた。それは福島へ行って以来、彼に時間を割く事が増えた事が要因なのは間違いなかった。しかし、済ませなければならない事は揺るがなかった。
 彼と共に朝食をとった後、僕は書斎に籠った。彼は描かなくてはいけない絵がある、とかで、僕が書斎に籠る間は水彩絵具で絵を描いているらしかった。そしてその休憩がてら、近くへと散歩に出た。このところ彼は、最寄駅周辺をよく歩くようになった。家にばかり居ては息が詰まるのだろう、と思った。昼食どきに一度帰り、共に昼食を済ませると、また外に出て行った。駅前のハンバーグ屋に行ってみたい、だとか、路地裏にある中古ゲーム屋に面白そうなソフトがあった、だとか、彼は夕飯を共にしながらそういった事を嬉々として語った。もう三年はこの街に住む僕よりも、彼のほうがよっぽど街に詳しくなったらしかった。彼は以前のように家に籠っていたときよりも、余程生き生きとして見えた。今まで外に出なかったのは、何かしら僕に気を遣っての事だったのだろうか、と思った。

 八月ももう二十二日だった。元来の予定であれば三十日に姉夫婦が迎えに来るはずだから、彼と過ごす期間はあと一週間余りだった。僕は彼にとってこの夏が良いものであれば良いと願ったし、そうであれば嬉しかった。
 僕は二十五日にこの街で開かれる花火大会に彼と行こうと決めていた。駅前に大々的にポスターを貼っていたから、彼もその存在は知っているはずだった。道路を封鎖して夜店なども出るから、きっと彼も楽しめる事だろうと思った。

 花火大会の前日、夕食のカレーを二人して食べた。彼の舌に合うようネットで調べ、隠し味にケチャップとソースを混ぜた。僕には少し甘過ぎたが、彼は、おじさんのカレー、ママののよりおいしいかも、などと言った。
「明日は何の日だか知ってるかい」
 彼は思い起こす素振りもなく、
「花火大会の日」
 と言った。
 しかし僕が連れて行ってくれるのかを忖度しているのか、どこか遠慮気味と言った様子だった。
「駅前には夜店なんかも沢山出る。時期的にも、今年見れる最後の花火大会かもしれないな」
「連れていってくれるの」
「連れて行くもなにも、すぐそこだからな。もうすぐお母さん達も迎えに来る。ここでの生活の、いい締めになるだろう」
「しめって?」
「最後のお楽しみ、みたいなものだ」
 彼は顔にうっすらと切なさのようなものを浮かばせたような気がしたが、
「楽しみ。チョコバナナとかあるかな」
 と言った。
「勿論あるさ。好きなのかい」
「お祭りの食べもののなかで、いちばんすき。あ、でもたこやきも好き」
「俺と同じだな。俺もそのふたつが特に好きかもしれない」
「それなら、はんぶんこできるね」
 彼はそう言って笑った。きちんと一人分買ってやるというのに、と僕は思った。

 朝食後、彼は相変わらずに絵を描く事に没頭しているようだった。彼は僕が書斎に向かうまではその一式に一切手をつけず、決まって僕がリビングを抜けたタイミングで描いているようだった。僕がふいにリビングに出ると、彼は急いで画用紙を裏返しにした。彼が僕の為に絵を描いてくれているのは明らかだった。描き終えた絵を僕に見せてくれるのか、プレゼントでもしてくれるのだろう、と思った。僕は安易にそう悟らせてしまう彼に、どこか愛着というか、愛くるしさのようなものを感じてしまうのだった。僕も彼くらいの頃、同じような体験をしたものだ、などと、どこか哀愁の心持ちで思った。

 夕方が迫って来ると、僕は書斎を出た。彼はやはり画用紙を裏返しにした。僕は悪戯心で、
「どうして隠すんだ」
 と聞いた。
「恥ずかしいから」
 と彼は言った。
 僕はただの自意識過剰であって、もしかしたら本当にその理由から絵を僕から隠しているだけなのかもしれないと思った。彼の所詮純真無垢な心を、僕のような人間が量れるはずもなかった。僕は気を取り直して、
「そろそろ行こうか」
 と言った。
「うん。かたづけしちゃうから、ちょっとまって」
 と彼は言うと、筆やパレット、絵具を溶いた水を入れたバケツをキッチンのシンクで丁寧に洗った。それを終えると、描いた面を内側にして画用紙を丸め、輪ゴムで巻いた。

 駅に近づくにつれ、人通りは普段とは比にならないほどに増えていった。浴衣姿の若い女が幾人、前を歩くのを見ると、今年の夏の終わりを感じたのだった。この街に住むようになって三回目の夏だったが、僕はこの街の花火大会を一度も見た事がなかった。方角的にマンションの窓から見る事も出来ないから、毎年ただ花火が爆ぜる音だけを聞いたのだった。この夏は僕にとっても初めての体験が多かったように思った。もし彼を預かる事がなければ、いつも通りの夏を過ごした事だろうと思った。平日は会社に向かい、休日はマンションで酒を飲むだけの、なにひとつの楽しみもない、季節感すら感じない夏になっていたはずだった。
 普段は車両の入れる商店街の入り口は通行止めとなり、並び続く商店の前には夜店が連なった。空はまだ薄明るく、群青色をしていた。
「あ、たこやきだ」
 彼がひとつの夜店を指差して言った。その先では無精髭を生やした男が、ピックで器用に生地を返していた。
「食べるかい」
「食べたい」
 僕と彼はその店に寄った。男は気前の良い声で、いらっしゃい、と言いながら、なおも生地を返した。僕も腹が減っていたので、二パックを注文した。金を差し出すと彼はピックを左手に持ち替えて金を受け取った。そして金を金庫に放ると、焼き台の前に積まれたパックを二つ差し出した。男はありがとね、と言うと、右手に持ち直したピックでまた生地を返し続けた。僕はパックの一つを彼に渡した。彼は掛けられた輪ゴムを外した。
「わあ、おいしそう」
 温かさこそ保っていたものの、鰹節の萎びた感じや、生地がいくらか縮小したそれは、作ってから少し時間の経ったものだろうと思った。彼は割り箸を咥え、片方の手で割った。一パック六個入りの大ぶりなたこ焼きは、彼の口には大きかった。彼は一つの半分を欠けさせると、
「おいしい」
 と言って満足気な顔をした。
「よかったな。ただ、ソウタ君の一口じゃタコまで届かなかったみたいだ。今食べたのは、たこ焼きじゃなくて、ただの、焼き、だな」
 僕は半分に欠けたたこ焼きから覗くタコの足を見て言った。
 彼は、
「あれ、ほんとだ。でもおいしいよ」
 と言って、にこりと笑った。僕も、何だかおかしくなって笑った。

 夜店を一通り回った頃には空はすっかり暗くなっていた。僕は彼の手を引き、河原のほうへと向かった。
 多摩川河川敷には大勢の見物客がシートを敷いて花火が打ち上がるのを待っていた。ここに来る途中、数発の空砲を聞いたから、もうすぐに上がるのだろうと思った。河川敷はそのほとんどが陣取られていたが、大人と子供二人が座る分のスペースであれば、まだ残されていた。僕達は色とりどりのシートの合間を縫い、ちょうど良いスペースを見つけると、そこへ買っておいたシートを敷いた。僕と彼はそこへ座ると、チョコバナナを二人して食べながら花火を待った。彼が唐突に言った。
「おじさん、ぼく、いつ……」
 彼の言葉を遮るように初めの一発が上がると、すぐと咲いた。
 大会の開幕を告げるように、様々な色、大きさ、高さの花火が次々と上がった。僕は彼に先ほどの言葉を聞き直そうと思ったが、花火に照らされる彼の笑顔を見て、やめた。
 僕は打ち上がる花火に彼との一ヶ月間を重ね見た。初めこそ長きに渡ると思えた彼と過ごす時間は、瞬く間に過ぎたのだった。
 僕は咲いては散る花火に、彼と過ごした日々と、少年期という僅かな時期の儚さを見た。
 僕はまるで彼と同じように、美しく爆ぜる花火を眺めた。

13

 姉夫婦が訪ねて来る約束の時間が少し過ぎた頃、彼はすっかり準備万端といった様子でソファに座っていた。
「道路が少し混んでるらしい。きっともうすぐ着くよ」
 彼は、うん、と頷き、テレビで流行りのアニメ特番を観ながら、どこかそわそわとしていた。久しぶりに会う両親に緊張しているのか、楽しみにしている塩梅だろう、と思った。彼の様子からして、アニメの内容は頭に入っていなそうだった。
 二人してテレビを眺め、アニメの前半部分が終わりコマーシャルに差し掛かると、玄関のチャイムが鳴った。
「来たみたいだ」
 僕は彼に、忘れ物はないか、と最後の確認をし、二人して玄関に向かった。鍵を開けると、ドアを開けた。
「ごめん、遅くなって。思ってたより道が混んでて。ソウタ! 元気にしてた? おじさんに迷惑掛けなかった?」
 彼は、
「元気だよ」
 とだけ言うと、母の腕の中に飛び込んだ。
「いい子にしてたみたいだね」
 姉はそう言って彼の頭を優しく撫でた。
姉の後ろに立つ義兄が言った。
「本当にありがとうございます。お陰様で、良い旅になりました」
「本当、ありがとう。ほら、ソウタもおじさんにありがとうは?」
 彼は母の腕を離れると、
「ありがとう、おじさん」
 と言った。そして、手に持った画用紙を差し出した。
「これ、プレゼント。おじさんとぼくを描いたんだ」
 僕は受け取り、
「ありがとう。見てもいいかい」
 と聞いた。
「うん、いいよ」
 丸められた画用紙を開くと、中心に描かれた僕と彼を、沢山の向日葵の花が囲んでいた。ざっと見ただけでも、二十輪は描かれているだろうと思った。描かれた彼のTシャツは茶色く汚れ、左膝からは血が流れていた。しかし、二人の顔は全くの笑顔だった。
「大事にするよ」
 彼ははにかんだ。
「ごめん、次の新幹線まで結構ぎりぎりなの。これ、お土産」
 姉は紙袋を僕に手渡すと、行こうか、と彼の手を引いた。
「じゃあまた、年末にでも。今回は、本当にありがとうね」
 義兄も僕に礼を言うと、玄関を出た。
 姉が彼を連れて出て行く間際、彼が、
「おじさん、ぼく……」
 と言った。僕はそれを遮るように、
「また、いつでも遊びに来いよ、ソウタ」
 と言った。
 彼は顔を晴らすと、
「うん!」
 と言った。
 彼は手を振りながら玄関を出た。僕も返して振った。ドアが閉まる間際に、リュックにぶら下がったカエルのキーホルダーが、陽光を受けて光った。

 僕は彼のいなくなったリビングを過ぎ、書斎に入った。二日後までには終わらせなくてはならない仕事は、今だ手付かずだった。僕は彼の絵をもう一度開いて眺めた。そして元のように丸めてテーブルの上に置くと、パソコンの電源を入れた。開け放していた窓から、初秋の風が吹き込んだ。

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