いいことばかりじゃないけどさ

生まれたことを恨んだことが何回かある。
中学生の時両親がとても不仲だった。
今にして思えば、父親の仕事がうまくいっていない…どころか、コンビニバイトを夜勤で掛け持ちしないといけないような体たらくだったからなのだけれど、両親の喧嘩が絶えなかった。
僕は大学に行ってよかった、と心から思っている人間だけれど、その理由の一つに、両親の喧嘩を子供に見せることも虐待である、ということをある講義で学んで、あ、自分のある種のつらさのようなものは、虐待されていたのだなと名前を与えることができて、すこし救われた。
両親を恨む気持ちはないし、僕はちぎれかけているけれど、僕の家族が好きだ。なんとかうまくこの関係性を保ち続けていきたい、と日夜暗躍しているといっても過言ではない。その暗躍の仕方が親戚一同から一目も二目も置かれて久しい。なんといっても、僕は無職の時に一番発言に説得力があった。家の中にも三年というか、あの時はもしかしたら今の僕よりも知能的には賢かったといえるのかもしれない。

ただ、同時に思うのが、実際に賢いことと、うまく人生をやっていけるかどうか、ということは関連性がないのではないか、ということである。
僕が働き出してから数年間で学んだことというのはとても少ない。
大きな声であいさつをすること、時間を守ること、事務仕事はきっちりすること、それぐらいである。
最近はそこに、中途半端でも毎日仕事を触り続ける、というとても実践的なメソッドが誕生している。

僕の両親はあまり賢くない。それは偏差値的にもそうだし、うまく人生をやっていっていないという意味においてもおそらく当てはまってしまう。
だからこそ、僕のような人間が生まれてしまったのだと思う。
僕がちょっと変な理由は、もちろん遺伝の問題もあるだろうけれど、僕のその境遇が僕を僕しめている。
だから、いろいろな失敗や後悔というものをなしにしてしまうと、今の僕その物が変容してしまう。というか、今の僕を形作っている根拠がそれらなので、それらに対して無価値を言い渡すということは、僕自身の存在を否定してしまうことにつながる。たられば、ということは自尊心をとても傷つける営みである。ただの現実逃避ではないということを覚えておいてほしい。

また今日も具体的なことを何一つ書けなかった。
晩御飯は骨のついた肉だった。
見た目に反して、骨と肉が分離しやすくて、やわらかくて、おいしかった。

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