とっとと寝るぜ。

やらないといけないこと、ということはどうあがいても、やらないといけない。
自分の体はなかなかいうことを聞かない。
頭はどうだろうか。合理的、理性的に考えることができれば、体へのアプローチも可能かもしれない。
しかし、それは甘い。むしろ、体を甘やかしてしまう。言い訳なんていくらでもできてしまうし、当初の目的や目標、前提をぶち壊す発想に至ることは多い。
頭の中で考えていいアイディアがひらめいたためしがない。

ただ、知覚はどうだろうか。
例えば目の前にごみが落ちている。それを拾うかどうか。
公共の場だとしよう。自分のごみではない。ちょっとごみの種類にもよるかもしれない。でも、そういう思考の前に、目がそのごみをとらえる。
もちろんそのあとに、それを拾ってごみ箱に捨てるなり、よく見ると落とし物らしいので、交番や近くの店の人に届けるなりの発想もあるだろう。
ただ、僕たちは気づいてしまう。

うっかりやっていない、ということは確かに起こる。
それは、知覚していないこと、ではなく、知覚したことを忘れているにすぎない。
意図的に忘れようとすること、ほっておくこともできる。これは頭の中での処理である。

行為をやるかやらないか、という土俵には知覚の存在がある。
僕たちはあまりにも日常的に知覚のことを無視している。
もちろん知覚した物事すべてに取り組むということは、不可能である。
やらない選択をする、ということも重要である。
ただ、なんだろう。
午前中に書いていた。今残り五分を書こうとしている。

死ぬことについて考えた。心残りはあまりないけれど、ゼロではなかったので、僕の最近の日常は穏やかでまとまりがあるようなものになっているのだな、と感じられた。

美容室で話をするというのは、必要に感じられるけれど、歯医者ではどうだろうか。僕は比較的無駄話をすることが好きなのだけれど、どうも歯医者の時はしゃべることが難しい。当たり前だけれど、歯を削られながら何かの返事をしなければならない。
今日は歯医者に行って、新人っぽい人が対応してくれた。マスクをしているからか、僕の免疫があまりないからか、みんな美人に見えた。
口の中に器具を突っ込んだ後に、いくつか質問された。素人の僕が言うのもなんだけれど、明らかに順番を間違っていると思った。
でも、順番を間違ってもちょっと僕がしゃべりづらいぐらいのことなら、まぁいいかなと思えた。
明日の準備をして寝よう。

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