ピンチはチャンスというけれど。

新しい概念を獲得した。
昨日から調子が悪く午前中はひっくり返っていた。
喉が痛い。
気分も悪い。
やる気というものがでなかった。
やる気なんていうものがなくても行動はできる。できるが、体が動かなかった。

こんなときは何もしないに限る。
午後からいろいろ話をして、書いたりした。
そうすると脳みそがすっきりした。
何か具体的に悩んでいるというわけじゃないけれど、凝り固まっていたものが溶けたような気がした。
書くということは癒しでもあるのだな、思った。

今日考えた新しい概念があって、それは簡単ということである。
どういうことかというと、物事は簡単にした方がいい。
簡単にやる方法を考えるということが大事だ、ということである。
しかし、それは簡単にやる方法をどこかから引っ張り出してきて、何も考えずにそれを行うということではない。
そうしてしまうと、何がダメなのだろうか。
おそらく簡単化する前と後の落差のようなものを味わい辛いのかもしれない。簡単化の負荷があまりにもなければ、つまりこうすればいいよ、とだけ言われて行っても、自分の中での納得感のようなものが得られないという話である。

人生における自分のやることが一つだけであれば、他人が拵えたものでもなんでも良く、それが答えだという結論で事足りるのだけれど、結局何かを簡単に、効率的に行う、ということは、ほかの何かをやる必要性に苛まれてしまうという流れになってしまう。

簡単にやることは重要だけれど、簡単にしてしまってはその簡単さを味わえない。そこで、簡単にするためにしっかり考える(あまり考えるという言葉を使いたくないけれど)というイメージである。

コピペか何かで、賢い人は難しいことを簡単に説明することができる、という話があるが、上記のように考えると、賢い人は難しいことを簡単化することができる。しかし、その簡単化自体は簡単な取り組みではなく、簡単になってしまった残りかすのようなものだけをありがたがってもその味わいは少ない、と言える。
簡単なことはもうだしを取られた煮干しのようにスカスカである。何かの攻略法を見つけるようなものである。
賢い人は、難しいゲームの攻略法を見つけてそれをwikiに書き込む。賢くない我々はwikiをみながらゲームをクリアしていく。果たしてそこに意味があるのだろうか。ゲームはクリアするためにあるのではなく、楽しむためにあるのではないだろうか。ゲーム消費論的なことを考えながら、あまりにも簡単な簡単化について考えている。

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