納得にも行動にもつながっている最近のnote。

宗教とか哲学の話ではなくて、世界が多様だとよく考えている。
世界はいくつあるだろうか。
区切り方を変えると無数にあるのだけれど、僕たちは人間であって、ざっくりとしか把握できない。
平日の世界と、休日の世界でもいいし、
職場の世界と家の世界でもいい
その中の自分のキャラクターとかそういうこともあるのだけれど、
最近考えているのはその中のルールというか規範のようなものである。

こうやってノートを書くというのはノートの世界であって、僕自身の人間性が現れているとか、そういう感じではない。
ツイッターにはツイッターの世界があって、と最近は考えている。
もちろん世界を構成しているのは環境などもそうなのであるが、その世界に関与している物事すべてが世界である、というところである。

何が言いたいのかというと、何かしらを絶対的なものにしてほかの世界についてどこまで影響を与えるべきなのか、ということをちょっとは真剣に考えたりしなければならんのだな、というところである。

簡単に言うと本当の自分というのが存在しないということである。
とある世界の中の一部としての自分がいる、ということである。もちろん世界の影響を受けるけれどもそれだけではないし、その世界から出ていくことも、新しい世界に入っていくことも可能なのである。
物理的な世界ではなく、認知的な世界という断りが必要なのかもしれない。だけれども、僕たちは同時に一つの世界の中にしかいれないし、その世界の間に漂うということは難しい(不可能ではないにせよ)というところである。間にいることを目的にするのではなくほかの世界にのめりこもうとあがいているその時に、バランスがよい状態というのは束の間に訪れる。
そうしているうちにとある世界にどっぷりはいってしまって、僕で言うとこうやって700文字を超えるあたりでもうnoteの世界しか一見存在していないように思えてしまうような、状況になる。
ただ、いつものように1000文字を超えるまたは10分の試合終了のタイマーがなってしまったら、急にどの世界にも属していないような不確かな自分が見つかってしまう。

その不確かさは存外嫌いではない。その為にこうやって毎日noteにのめりこんでみているのかもしれない。連続で更新することなど、もうとうの昔に目的でもなんでもなくなってしまった。
世界の中にいる自分を意識すると急にその世界から離れたくなってしまうような自分を受け入れたい。

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