僕たちは必ずいつかいなくなってしまうから、今日もnoteを書いたよ。

毎年お盆には、親戚があつまりBBQをする。
これはもう僕が生まれてから、いや生まれる前からそういうことになっていた。
うちの一族は比較的仲が良くて、盆と正月は必ず集合する。
もちろんその時によって集まれるメンバーの数は違うけれど、おおむね皆参加する。
時にはBBQではなくてすき焼きをしたり、寿司を食べたりするけれど、なんやかんやと集まって、お墓参りをして飲んで食って解散する。
この流れはずっと続いていく。

ただ、最近はその中心となっていた祖父母が施設に入ってしまったので、場所が変わった。
いつも祖父母の家で集まっていた。それがまぁ使えなくなった。
その近くに住んでいる親戚の家に集まって行った。

当たり前だということは、当たり前ではない、というタイトル候補になりそうなことは、頭ではわかっている。
でも、本当にそれがそうじゃなくなったとき、ふと自分の人生についても考える。
生きていることも、まぁ当たり前じゃなくて、そのうち死んでしまう。
死ぬというか、終わってしまう。

それ自体が悲しいというか、避けたいというか、そういうことじゃなくて。
そう思う気持ちを今できることや、解釈やこういった文章に少しずつ載せていく。
人とのかかわりや、仕事での身の振り方などに反映していく。
拘りとか、失敗に対する振り返りとか、バランスのとり方とか、生きること全般に対して、うっすらとコーティングしていく。

自らの有限性について、どう考えるか。それは人それぞれでいいと思うけれど、ある程度の納得とある程度のあきらめがその判断にはかかわってくる。それは避けられない。

SDGsという考え方は好きじゃない。
持続可能性ということを優先する考え方は、ちょっと違うと思う。
ただ、そういう大きな流れの中に自分がいる、という視野を得られるという意味では、必要かなと思う。

悲しみを抱えながらそれでも前を向いて生きていく。インサイドヘッドを録画していて観た。
カナシミの必要性がよくわかるいい映画だと思った。
もちろん他の感情や、イマジナリーフレンズの存在や、大切な記憶、忘れ去ってしまった記憶など、人格形成の話など、どれもそうよね、と思うことばかりだった。
明確な悪者が存在しなかった。
環境の変化が人間特に子供に及ぼす影響はそうだろうな、と思う。
僕は同じ校区内に引っ越しをしたから、それがよかったのかどうか、今振り返ってもわからないし、比較もできない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?