言葉に踊らされるのか、言葉で踊るのか。

言語で理解できないことは、言語以外で理解をしようと努める。
赤ちゃんがどう考えているかなんて、さっぱりわからない。でも、表情やしぐさからもしかしたら、こうかもしれない、と察知する。
言語が伝わるということは、とても良いことだと思われるけれど、案外日常生活には非言語な世界も豊かであるということをついつい忘れてしまう。

写真が一枚あるだけでは僕たちは意味の解釈ができない。
その写真はいったい何なのか、という言語の説明が必要である。
必要なのだけれど、それはその写真の正しい説明が求められる場合に限る。
むしろ、自分がどう思うか、などといったとても主観的な営みに関して言えば、言語とはもちろん自分自身で作り上げたものではないので、理論的にはどうあがいても先入観でそのイメージを塗り固めてしまう。

もちろんそれは、避けるべき問題ではなく、先入観を更新し続けるということが人間の認識というものだ、といえる。
ただ、同時に言語に頼らない、ともすれば正解がない解釈というものの存在はないわけではない。
正解がない、というよりはなんでも正解になってしまうような、そんなことである。

僕は最近どうも聞き上手じゃないといけないなぁと考えている。
その理由として、相手のことを理解しようと思った場合に、こちらが喋りすぎるとその相手の存在の意味や解釈を言語のみで行ってしまいそうになるからである。また、質の悪いことに、僕はある程度話し上手なので、相手自身が僕の言葉に納得してしまうことがある。

少し前の僕はそれに悦に入っていた。
大事なことはなんだろう。
聞いてみて、正しいような方向に成形するのではなくて、相手自身に考えてもらうという方がいいような気がしている。
そんなことをいうと、カウンセラーマインド的になってしまうのだけれど、やはり自分でやるということが、何をするにおいても大事なのだな、とつくづく思う最近である。

僕自身にもその指摘は向いている。だから、こうやってああでもなくて、こうでもない、と書き連ねているのだろう。
書くことに飽きたことはまだない。書き疲れるほども書いてない。
まとまらないことを嘆く必要もない。まとまることほどおかしいことはない。
こんなのだれが読むのか気にする必要はない。自分がまず読んでいる。

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