傷ついたことがない人はいない。

つらいことがあったら思い出すことがある。
地面がどれほどひび割れていようとも、それを正しくわたるしかない、というハイデッガーの発言だ。
これは、確か西部邁が何かの本に書いてあった。本当に書いていたのは覚えているけれど、ハイデッガーがそういったかどうかはもう僕の関心にない。
ただ、そのフレーズが僕が絶望した時、幾度となく助けてくれている。
助けているといっても、何も手を貸してくれるわけではない。せいぜい前を向けと僕の指針を提示してくれるだけだ。でも、その指針の存在は大きい。

最近人の心について考えている。
気持ちといってもいい。自己像ととらえてもいい。
それは固定されたもののように感じられるけれども、ちょっと考えたらそんなことは嘘っぱちだとわかる。
ただ問題はこのちょっと考える、ということがなかなか日常生活でできないのである。
あっという間に今日も終わってしまって、明日のために早く寝ないといけないと思いながらyoutubeを観てしまう毎日。
その中にどうしてちょっとした問題を考える余裕が生まれるだろうか、いやない。

流される日常の中で流されるということは人間の美徳の一つだろう。
ただ、その流されるときに少しでも自分が傷ついたのなら周りをみてみよう。
同じような傷を持っている人間が少なからず存在している。
傷口に効果的なことは、優しい言葉ではなく、自分の傷口を見せることだと思う。
傷の大小は問わない。傷ついたということがある、という共通点だけで、孤独から救われる。
つらいのは孤独だ。
何をなすにしても一人でなさなければならない。ただ、それだけだとつらくなる。
傷ついたときは特に、慰めてほしいし、認めてほしくなる。
でも、傷口をなめてもらっても、しみるだけである。
そうではない。誰しもが傷を持っている。その事実を確認すれば、傷ついたこと自体に向き合えるようになる。

かさぶたができれば、強くなれる。それは身体性の残酷さを表している。
時間がたてば僕たちは忘れてしまう。どんなに苦しいことも、つらいことも。
だから完全に治癒する必要はないのだと思う。苦しみや不安から解消される、ということは、死ぬまでとっておいて、生きている間は複雑怪奇な生活に身を投じよう。
もちろんそれがつらくなる時もある。
そういうときは、noteを書こう。
だれかがひっそりいいねをしてくれる。その人もまた傷を抱えているに違いない。

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