擬似記事タイトル

iPhoneで文字を打つ気になれない。LINEはまだいい。途方もなさを感じる。
それは文章として捉えているから。そう思いこれから試験的にnoteをiPhoneから書く、打つ。
久しぶりになんの身分的な制約もない状態で、駅で人を待っている。
高校の時よく近くの本屋で時間を潰した。2時間ぐらい平気で乙一のグロそうな小説を読んだりしていた。
読書といえば、中学の時、キノの旅からラノベに入って、デルトラクエストやダレンシャンなどを読み漁った記憶がある。
そんなレパートリーの中、博士の愛した数式をなぜか手に取って読んで、模擬試験が何かで国語の試験に博士の愛した数式が出てきた。そんなことがあるんだなぁと思った。
そんなことがあるんだなぁということで世の中は溢れている。だいたい嫌な予感は当たっていい予感や希望というのは踏み躙られる。そういう偏った記憶の仕方をしているだけかもしれない。
ここまで入力していてiPhoneの入力の絶望的な遅さを理解した。タイピングなら人がしゃべるペースで打つことができる。指には均等に負担がかかる。スマホは右手に負担が。持ち方が悪い説もある。
元同僚の人とご飯を食べた。いろんな話をしたけれど、淀みなく話をされていた。
これでも最近は聞く側に回ることが多い。
話を聞くこと自体は嫌いではなくてむしろ好きな方だったけれど、違うなと思ったら聞いてられなかった。
最近はまぁそういう見方もありますよね?と受け入れることができつつある。
なんと上から目線かと思われるかもしれないけれど、寛容というものは本人のある種の余裕のようなものがなければ、発現されること能わずというものではないだろうか。
上から目線であることは、自分に自信を持つことでもあるだろう。謙虚であろうとすることは失敗に対して恐れ過ぎている態度である。自分を見せてはいない。自分というものについて考えるきっかけというものも、上から目線の傲慢な態度の鼻っ面をのされたときに与えられる。
エッセー感はないが、noteをスマホで書く効能がわかった。遅い。打つのが遅いし、思考に追いついていない気がする。その分自分の考えていることと文字との距離のようなものが生まれている。かえっていいのかもしれない。風呂の中でハノンを行なってその後に擬似エッセーを書くというのはどうだろう。
今書いてみて擬似という表現は気に入った。擬似日記?擬似エッセー?今日は擬似エッセーか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?