どう物語っていくか。真面目に不真面目。
僕はやはりめんどくさいことが好きなんだなと思う。
飽きるときは、挫折というよりは、なんだか簡単だなぁと思ったときに、急激に飽きる。熱が冷める。
わからない、ということが結構好きである。もちろんその限界はある。
中学生の時に英語がまったくわからなかった。
アプローチをもう少しだけ正しくすれば、今のこのような人生はなかったはずである。それがいいか悪いかはもちろん別問題なのだけれど。
今自分がやっている趣味のようなものたちも、完璧にコントロールしている、というよりは、わからないことの方が多い。
なんでもそう、といえるのかもしれない。勉強したら何か分かったと思いきや、ますますわからないことが増える、ということがある。
わからないから嫌だということは簡単に言えるが、そこから少し進んで、わからないから、うれしいというちょっと変態じみたところにきてもう13年ほどかと思う。
わけわからないまま、わけわからないことをする、ということは限界がある。
わけわからないことをするためにも、安寧というか、余裕のようなものが不可欠である。
僕はこうしてブラック企業に勤めているけれど、勤務内容はとてもよくわかる。その中で、こう毎日文章を書いていくと、なんだかわからんなぁと思える。
書くことによって明確になる。ただ、書けたことというのは、僕の身の回りのごく一部であって、それ以外の書かなかった部分というのは謎のままである。むしろわかる部分を書くことによって切り離してしまうので、自分の中には謎が深まっているといえる。
じゃあそれをぺいっと書いてしまえばいい、そういう発想になることもわかる。ただ、書けば書くほどなんだか納得感がなくなっていく。全く指を止めずに書きおろしているけれども、納得感がない文章を書くぐらいなら書かない方がましだという典型的な合理化を図ってしまいそうな衝動を感じる。もちろんそんなものには屈しない。そう思ったことを赤裸々に書いてやる。そうすると、案外いいエッセイが書けてしまう。
文体すらもアマノジャクなのだろう。嫌いじゃないよ、こういうところ。
さて明日は一区切り。どうなるかわからないけれど、まぁなんとかなる。
大丈夫じゃない日はなかった。ということは今年の収穫である。だからこうやってコンスタントに書くことができている。
明日もまた、書けるだろう。日常ではないことを日常にするためにも、書くのさ。
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