ちょっと哲学的に。
弱い者いじめはよくないこと。
でも実際戦う相手が弱ければいつもより力がでたりもする。
仕事でミスをした。正確には僕がミスをしたわけではなく、僕の上司的なポジションの人がミスをした。他部署の人から僕が怒られた。
しかしその部署の人は僕の上司的な人を怒らなかった。
他部署の人はそういう感じである。
というより人間はそうなんだろうか。
弱きをくじき、強きを助ける。
ある程度の大人であれば、そういうしみったれた態度はとるべきではないなと感じる。
それはなぜか。
失敗したり、傷ついている、弱っている人に対して必要なのは寛容であったりやさしさであるはずである。
強きをくじく必要もない、逆に考えるとその他部署の人は弱きポジションなのだろう。
多分50ちかい年齢で、大きな声で不満を述べる姿が見受けられる。
その不満は素直な心情の吐露ではない。自分より強そうな人がいれば黙っている。気を使っている。気を使っているにもかかわらず、その人の周りではぎすぎすした雰囲気が流れている。
自由勝手にふるまっての結果であれば自業自得でいいとは思うが、その人なりに気を使っているのに、そうではないなんて、とてもかわいそうである。
怒ることに関して僕は最近考えを改めつつある。
今まではまったく怒らないようにしていた。でも、必要なタイミングは確かにある。それはとても難しい。
怒るための一つの条件は、怒る理由が相手にちゃあんとわかられていて、なおかつその量がそれにふさわしい場合に限る。怒る側が感情的に行うようなものではなく、ある種の技術の一つである。
怒ることもまたコミュニケーションの一つで、その人の価値観やものの考え方を強烈に相手に教えることができる。その強烈さがいびつな人間関係の中で固定されてしまうことは、あらゆるハラスメントの萌芽になってしまう。
ハラスメントについてやかましい世の中だと思う。ハラスメント自体がだめだということは簡単であるが、実際に行われているハラスメントに対してどうしていくのだろうか。ハラスメントしてしまう人への寛容ややさしさはいつ生まれてくるのだろうか。
切り離されることはない。やっかないことで、嫌なんだけれど、関係しあっている世の中。その中で怒ることも切り離しではなく、ある種の接続のきっかけと考えることができれば、怒ってしまっている人も回復させてあげられるのかもしれない。
そんなことを思いながら金曜日を迎える。
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