そうめんばらばら、もちもちでもない。

そうめんのようなエッセイというタイトルの文章は、なんとなく付けたわりに、僕は気に入っている。

ネーミングセンスがないと思っていたけれど、僕は今使っているハンドルネームもなんとなく付けた割に気に入っている。
確か、オンラインゲームのキャラクターの名前を付けようとして、なまねぎにしたかったのにうち間違って、なまねぐになってしまった。でもなんだか、いいなと思って今でも愛用している。

自分は自分のためにストレートに何かをする、ということが苦手である。
ただ、そうやってふとした拍子というかなんとなく、というものが今にも引き続いている。

将棋を指している。将棋歴を考えるともうすこし強くなってもいいという期間やっている。ただ最近は実際に盤を挟んで指すことは減っている、というかほとんどない。
アプリでさくっと指してしまっている。忙しい中だから、と言い訳をしつつなんやかんや毎日詰将棋を解いている。

哲学をかじりつつあることも、いつから始めたのかはさだかではないけれど、気に入っている。
もうちょっと専門的に学ぶことができていればな、と思わないではないけれど、そうしていたら今のようなブラック企業で働くという未来はなかった。
野垂れ死んでいた可能性も高い。

賢いとかではないし、要領もよくない。
ただちょっと変だったきがする。その変ということを認識することもできず、周りの目を気にしてせこせこ生きていた。
無職転生をいよいよ6巻読み終わるまで行こうとしている。自分が転生したらどうなるだろうか、と考える。
ただ、なんだか計画的に何かをする、ということが苦手である。

独学大全という分厚いいかつい本を読んでいて、とても参考になったのが、計画は役に立たないが、計画を立てることは重要だということである。
なんのこっちゃと一瞬思ったけれど、物事は思い通りにはいかないということが大前提にある。だからといって、何も計画しない、ともうしっちゃかめっちゃかになって、わけわからなくなるよん、ということである。

また別の視点で、僕がこうやって毎日書いていることは、まぁ計画性もへったくれもないのだけれど、10分だけということを本当に実行している、という点においてとても良い。
そうめんのようなエッセーが流れるためには流れる土台が竹だろうがプラスティックだろうが必要であって、その点においては計画のようなものでもいいのである。

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