なぜ僕たちは考えるのだろうか。

ちょっと考えたらわかること、というのは、ちょっと考えなければわからない。
ちょっと立ち止まって考えれば、誰がどうみたって、答えなんてものはすぐに見つかる。
大事なことは、考えることではなくて、ちょっと一呼吸置く事である。

そういうことを自分はうまくできないなぁ、といろんな場面で思う。
焦ってしまう、というよりは、我慢していられなくなる。
人の話を聞くときなんて、答えのようなものが分かっている、結論がでている、と思ってしまったら最後、相手の話に少し食い気味に相槌を打ってしまう。
癖、のようなものになりつつある。

質が悪いのが、そこで、相手の話の答えや結論めいたものだと僕が考えていたことがまったく違って痛い目を合う、ということがあまりないということである。
ただ、そんなことは別にどうでもいいのだ、とようやっと最近捉えることができた。
結論はどんな話でも陳腐なものである。ただ、その陳腐な結論に至る道のりは、陳腐足りえない。
そう考えてみると、小説というのは、結論を提示することは主目的ではないのだろう。陳腐な結論を提示するために進みつつあるプロセスの一端を提示していく。エンディングまで泣くんじゃないというけれど、エンディングで泣くためには、エンディングまでに涙をこらえないといけないような、メインディッシュがなければならない。
そんなことをぼんやりと考えている。

こうやって文章を書く時だって結局そうなのである。
考えるとは書くことだと理解しだしているが、その実それは、書くことは結局結論たりえないのである。だから、書いていて楽しいし、読んでいられる。結論のようなものが垣間見えたらもうその文章に味がしなくなってしまう。結論はその有機的な咀嚼力を損なっていく。もりもり食べたいのに、消化しきっておしりからぷりっとでてくる結論に何の価値があるのだろうか。
書くことで結論をプロセスの中に放り込むことができる。調理し直すことができる。調理はいつだって楽しい。どうなるかわからない。ただもう食べてしまったら、味がわかってしまえば、満足してしまう。もうそのエネルギーは失われていく。眠くなっていく。

本を読むということも、速読で結論だけを読もうとする人は、間違っているといえる。この筆者は何が言いたいのかと考える営みこそ、読書だといえる。結論を読み間違っても別に問題はないし、読み間違った方が豊かな読書だといえる。

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