noteを書きながら映画観ている僕が言えたことじゃあないんだけれど。

映画を倍速でみる人がいるそうで。
同僚はドラマを倍速でみているらしい。
話の筋はそれで理解、というか吸収できる。
似たような例ではないかもしれないが、ドラクエなんぞのRPGをプレイするとき、どうしても攻略をみてしまう。
躓くのが嫌とか、取り漏らしたくないというよりは、なるべく効率的にプレイしたいという願いがあった。
攻略本を読んだりするのはまだ奥ゆかしくて、中学生ぐらいからインターネッツが発達してきたので、攻略wikiなんぞをみて、その通りにプレイして、その通りの結果を得て喜んでいた。

そういうのって、もったいないというか、楽しめていない、ゲーム体験ができていない、と批判する向きもあるかもしれないけれど、ゲーム実況を見て楽しむということがフツーになっているように、ある程度ゲームプレイというものをなぞる楽しみもあるんじゃないだろうか。

読書について少し前にあれこれ考えたり、実際に読んでみたり書いてみたり考えていた。
読書ほどまじめに考えられすぎていることはないんじゃないだろうか。
飛ばし読みはよくないとか、速読するのはうんぬんのように。ちゃんと本を読まなければならないという強迫観念に駆られて結局読むことができない、または一度読破してしまえば、よほどのことがない限り読み返すことがないような読書体験を積み重ねてはいないだろうか。

読書もゲームと同じで本来自由なものである。もちろん本を書いた人はある程度の目論見と論理をもって、何かしらのメッセージを伝えたいと思って書いているのだろうけれど、必ずしもその通りに読まなければならないわけではない。
むしろ、その通りに読むということ自体がほとんど困難極まりないとさえ思う。
そうではなくて、ざらっと読んでしまったらいい。飛ばし読みでもかまわないし、あとがきから読んでしまっても問題ない。問題がないというか、問題があるとはいえない。そこからでも読書は続けることができる。
どちからというと何かしらの理由をもって、読書をしなくなるということの方がはるかに問題なのだろう。

もちろん僕はゆっくり何かしらに取り組むことに賛成である。
何かしらを高速で処理したとしても、問題になるのはその浮いた時間で何をするかということであって、そういうなにかプレシャスなものが見つかっていないような僕にとっては、手段であるところの効率を追求してしまう。
逆に言うとプレシャスがあれば、余計だと思えることにゆっくり取り組まなくてもいい、ということではある。
どうやって見つかるんだろうか。それはまだわからない。

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