書く事に対して怯えていた。

びびってないで書くのだ。
書く事に対して向き合えなかったら、もう終わりだと思う。
終わりとは?なんだろう。またこれについても書こうか。

思ったことを書くのだ。のだ?とかそういうよくわからない語尾を使うことも臆せずに突き進むのだ。
更新が止まっているのは、更新が止まっているのではなくて、僕の指が動いていないのである。書く事は指を動かすことである。まぁ多少は目を動かすこともあるよね。いや目をつぶっていてもキーボードをぽちぽちしていたら文章が生成される。無駄に中学校の時にネトゲにはまってタイピングする能力だけ(我流だけれど)できている。

回転寿司でがりを食べた。
数年前におばあさんといったときに、さらに山盛りのがりを取り出して、食べていた。
衝撃的だったな、なんで衝撃的かというと、それ以降僕は回転寿司にいくたびにガリ同じようにがりがり食べてる。
生きているなかで発見は多くあるけれど、それを衝撃に変えられるのは受動的に祈るだけではなく、能動的に向き合うことで生まれる可能性が強くなるんだな、と久しぶりに回転寿司でがりを食べた。

対話をするときに大事なことは相手のことを否定するのではなく、受け入れることである。その方がコスパがいい。
もちろんエネルギーを多く使うことが必ずしも悪いわけではない。でも実際、僕らはエネルギーが限られている。なかなかむつかしいよね。
久しぶりにドラマをちゃーんと一話から見ている。もちろんドラマだから面白いキャラクターになっているのだけれど、こう空気を崩すような発言とかをしているのがなんだかいいな、と思う。

ルールとかモラルとかそういうものを前提として行動してしまっているけれど、大事なことはそういうものが破られたとき、もしくは破ってしまったときに、どう修復していくのかということである。
書く事は綺麗に書く必要はなく、生きることは綺麗に生きる必要がない(必要がないというか生きられない)
綺麗な水には魚が住まないというけれど、それは訂正しやすいことにもつながるのだろう。
頭の中で構成したものを文章というのではなくて、書いたものが文章といえるのである。
思ったことが書けたかどうかでもない。

まとまらなくてもいいし、まとめる必要もない。
でもTwitterだと流れていってしまう。どこまで流れていくことは流れていくが、流れを記録することは悪くはない。いや、いいか。


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