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序文

波に漂っていた。
隣には荒れ狂った激流の中を悠々と泳ぐ魚たちがいた。その傍らには、波にもまれ海岸に打ち付けられた死体があった。
隣には緩やかな波の中で美しく回遊する魚がいた。その傍らには、腐敗し、海鳥にさえ突かれず横たわった目で太陽を見つめる死体があった。
僕はただ波に漂っていた。
意思を持たず、ただ流れに身を任せ続けるだけ。
臆病な僕は穏やかな波の中で緩やかに死んでいく。波の中にある言い訳を自分自身にしみこませながら、沈みつつあることに気が付かないまま。
沈みながら声をあげても、美しい鱗に太陽を映した群れには気づかれない。沈みきった場所。同じく深海魚のように盲目的に暗さ慣れた人間と傷を舐めあいながら、これ以上沈むことのない奥底で、ほの暗い光にだけ心は熱に浮かされる。だけれど一つ誤算をしていた。深海にも波は存在することに。ここで取り残されてしまったらどうなるのだろうか。
底に沈んだナニカは僕の足元を時々小突く。周りの見えない深海で感覚は研ぎ澄まされ、その感触は定期的に不安を仰ぎ、次第に頭を支配していく。気づけば光は既に手の届かないところに離れていた。追いつかないと。けれど、泳ぎ方を知らない僕は波がなければ進むことができない。必死に体を動かしたが、もはや、自分が前に進んでいるのかさえも分からない。
ただ、海の底に触れることにだけ安心できる。感覚はナニカのみを捉え、次第にゆるやかに依存していく。気が付けば泳ぐことをやめていた。
安らかに。頭は落ちていく。落ちていく—

—ピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピピ。
無機質な電子音のアラームで僕は覚醒した。強迫的な起床圧力のせいで、脳に血液が流れ始める。ドクドクと心臓の音がアラームと混じり、頭に立ち込める2音からなる不協和音は寝起きの苛立ちを助長する。それを遮りたい思いの一心から手探りでアラームを止めた。
次第に頭は冴え、心臓の脈動も耳を離れた。気だるげな気分は拭えないまま、最悪な朝が訪れたことをしょうがない思いで噛みしめる。
僕は生まれてから長い間、狭い場所で睡眠をとっていた。その弊害からか、未だに寝返りをうつことが出来ない。おかげで毎朝、どうしようもなく体にコリができている。特に、首から肩にかけてどうしようもなくコリ固まってしまうため、顔を洗う前に軽く揉んでやる必要がある。朝嫌いを担う一端である悪癖であると何度も改善を試みたが、長年にわたり沁みついたものはそうそうに離れてはくれない。
ぼんやりした頭の中にある嫌悪感を抱えながら、洗面台の鏡の前に立つ。年の割に老け込んだ顔は、自身の性格の悪さを張り付けたようなもののように感じた。ネガティブな考えが取り留めなく頭を支配することに逆らうように顔を洗い、朝食を食べることにした。


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