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【小説】地球の上であなたと

(約13,000字)

 バンのスライドドアが開くと同時に、金木犀の匂いを載せた空気が車内に流れ込んできた。後部座席にいた僕は顔を上げ、こんな都会の街にも咲いているんだなと思った。
「ここで降りてください」
 運転席から、コバヤシが人の良さそうな顔で振り返って言う。
「ここで、ですか?」
 聞き返しながらも僕はシートベルトを外してカバンを肩にかける。
「はい。あなたが面会を希望した方は、今日この場所を、ちょうど10分後に通りかかることになっています」
 柔らかい口調でありながらも淡々と話すコバヤシに、僕は訝しむ気持ちをそのまま視線に乗せて彼の横顔にあてた。
「どうして分かるんですか」
 僕が訊ねるとコバヤシは曖昧に笑って答えをはぐらかした。別にいい。本当に彼らが僕の望みを叶えられたカラクリが知りたかったわけでもない。
「どうも」
 そう言って早々にバンを降りようとする僕を、コバヤシの声が引き止める。
「また三週間後にご自宅へお迎えに上がりますので。それまでは普段通りにお過ごしいただいて結構です。地球上で自由に生活できる最後の期間となりますから」
「わかりました」と僕は素直に頷いた。
 コバヤシは困ったように微笑む(彼はいつでも少しだけ困ったような顔をしている)と、「それでは、三週間後に」と小さく頭を下げた。
 バンを降りて周囲を見渡す。そこは聞いたことのない駅の近くだった。夕陽の名残が西の空の裾を白く染めている。車がやっとすれ違うことができるくらいの道路に沿って線路があり、その反対側に居酒屋が数軒立ち並んでいた。
 僕は暖簾の出ていない居酒屋の壁に寄りかかり、タバコを取り出して火をつけた。
 帰宅途中と思しき人々がホームやターミナルを行き交っている。吐き出した煙がふらふらと雑踏に紛れて散っていく。
 本当に、あの人は来るのだろうか。
 肺を埋める煙の重みを感じながら、僕はコバヤシの頼りない横顔を思い出していた。
 突然、背広姿の見知らぬ男が僕の元に現れたのは、今からちょうど一週間前のことだった。
「突然ですが、月に移住してみませんか」
 風呂無しトイレ共同のボロアパートでその日暮らしの生活を送っていた僕は、突然やってきて玄関先でそう言った男を、新手の詐欺か宗教の勧誘かなんかだろうと思った。
 無言で扉を閉めようとした僕に、「あ、ちょっと」と男は慌てて、背広の内ポケットから名刺を取り出した。僕は反射的にそれを受け取ってしまう。横文字をずらずらと繋げた会社名の下に、コバヤシと書いてあった。
 コバヤシはここぞとばかりに早口で、彼がここにやってきた目的をまくしたてた。
「私たちは国の宇宙研究開発局から業務を委託されているいわゆる下請け業者でして、今回あなた様をお連れするようにとの業務をおおせつかり、こちらにお邪魔させていただいております」
「お連れするって……、僕は一体どこへお連れされるんですか」
「最終的にはまあ、月、でしょうか」
 再び僕が扉を閉めようとすると、今度はコバヤシが肩をいれてきたので阻止された。低姿勢な人柄とは対照的に体躯は大きな男だった。
「まだ信じられないとは思いますが、本当に怪しい者ではありませんので。少しお話を聞いてはいただけませんでしょうか」
 まだも何も、と思いつつも、これ以上ないくらいに眉尻を下げて瞼を細め、懇願するようにこちらを見つめてくるコバヤシを見ていると、この人はこの得体の知れない会社で損な役回りばかり押し付けられて、それでも懸命に家族やなんかのために働いているのだろうなという同情じみた感慨が湧いてきた。
「じゃあ、少しなら」
 頷いた僕にコバヤシは深々と頭を下げると、「プロジェクトの関係者以外には決して知られてはいけない情報なので、できれば中でお話ししたいのですが」と言って部屋に上がり込んできた。
「あなたを信頼すると決めたわけではないですからね」
 僕が言うと、コバヤシは少し寂しそうに「そりゃあ、そうですよね」と笑った。その時には僕も、この男になら騙されても構わないかと思い始めていた。
「二〇二五年に世界で初めて女性が月面に着陸したアルテミス計画から、今年で二十年が経過しようとしています。月のミッションは探査から開発の段階に移行して、もう随分になりました。ご存知の通り、今年度中には月のさらにその先、火星への有人探査ミッションが開始される予定です」
 部屋で向かい合った途端、コバヤシはタブレット端末を取り出して説明を始めた。言われてみれば近頃、テレビやインターネットのニュースでやたらと火星、火星と騒ぎ立てているような気がする。僕は特段興味もなかったため聞き流していた。
「なぜ今世界中をあげて火星への接近を進めているかと申しますと、それは、地球上の人類を火星に移住させるためなのです。人類火星移住計画は、必ず近い将来に実現します」
「火星移住計画……」
 あまりに突拍子も現実味もない内容に、僕はなけなしの関心を早々に失い始めていた。
 そんな僕の様子には気が付かず、コバヤシはタブレット端末を操作しながらなぜ今火星移住が必要なのかということを、気象異常やら人口爆発やら食料難やらという単語を並べ立てて力説した。
 適当に聞き流していたものの、「そもそも火星に永久凍土の存在が確認されたのは今から……」とコバヤシが火星探索の歴史まで語り始めようとしたので、さすがに僕は話を遮った。
「ちょっと待ってください」
 僕が声を上げると、コバヤシは鳩が豆鉄砲を食ったような顔でこっちを見た。
「コバヤシさんはさっき、僕を月に連れて行くために来たといいましたよね。火星の話はそれと何か関係が?」
 僕の言葉にコバヤシは、「申し訳ありません、遠回りしすぎてしまいました」と頭をかいた。
「要するに、火星開発のための予行練習が月面開発であるということが言いたかったのです」
「要せていないです」
 僕がきっぱりと言うと、コバヤシは「ええと」と高速で瞬きをした。
「つまり、現在すでに月面は、将来の人類火星移住計画を見据え、宇宙飛行士でも科学者でもない一般の方々を、宇宙空間に住まわせる実証実験を開始する段階に来ているということなのです」
 そこまで聞いてようやく僕は、目の前にいる男が何を言いたいのかを理解した。
「その実証実験に参加する〈一般の人々〉に、僕が選ばれたということですか」
 コバヤシが僕の目を見ずに、ええ、と首肯する。
「どうして僕が」
「世界各国から、人種、性別、年齢、職業などに偏りが出ないようランダムに選んでいるようで」
 そこまで言ったところで、コバヤシは口ごもった。自分の答えが答えになっていないことに気がついたようだ。
「断る権利はあるんですか」
「ええ、もちろん。このプロジェクトで一度月に行ってしまえば、基本的には二度と地球には戻れませんので」
 コバヤシは俯いたままで言った。
 なるほど、と僕は呟いた。
 さっきコバヤシは、月に送られる一般人はランダムで選ばれると言っていた。が、実際にはそう単純なことだけではないだろう。僕は、僕が選ばれた理由がなんとなく分かった。
「僕が選ばれたのは」そう口に出すと、コバヤシが顔を上げた。「天涯孤独だからですか」
 僕が、地球上に思い残すことの何もない存在だから?
 一瞬、部屋の中に沈黙が落ちた。
 そのあとでコバヤシが、「いやあ」と大袈裟に首を捻る。「私が伺っているのは、過去に大きな病気や怪我をした経歴がない健康な成人、という条件くらいで」と付け足す。
 僕はこれ以上彼を困らせるのも気の毒だなと思い、話題を変えることにした。
「仮に月行きを承諾したとして、僕たちはそこでどんな生活を送ることになるんでしょうか」
「基本的には、月面に建設された居住空間の中にいれば何をしていてもいいことになるでしょう。運動でも読書でも音楽や映画鑑賞でも、月にはすでに一通りの施設が揃っているそうです。被験者の衣食住はプロジェクト予算の中で賄われますので、被験者の方々が負担するものはほとんどありません。月面基地で栽培されている食糧の収穫や生活ゴミの廃棄作業など、多少の役割は負うことにはなるでしょうが、それ以外は自由です」
 コバヤシが放った〈自由〉という単語が、ぷかりと部屋の中央に浮かぶ。それを眺めているうちに僕は、その向こう側にある月面での生活に思いを馳せていた。
 コバヤシの言うことが本当ならば、それは今の生活に少しの運動を足してアルバイトと大気を引いたようなものだろうか。どうせ地球の上にいたって、死んでるのか生きているのかわからないような日々の繰り返しだ。元から孤独には馴染んでいる。それならこの身にまとわりついているあとほんの少しのしがらみさえ捨てて、月へ移住した方がいいのではないか。いつの間にか僕は、地球を離れるという選択肢に傾き始めていた。
「行きます、僕」
 そう言うと、コバヤシは草食動物のようなつぶらな瞳をいっぱいに見開いて、「そうですか。ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
 それから彼は、僕たち〈被験者〉がこれからどのようなスケジュールをこなしていくかについて説明を始めた。被験者は月へ出発するまでに、ロケットに乗ったり無重力・低重力空間で暮らしたりしていくための基本的な訓練を受ける必要があること、その訓練は地球上でのウイルスや細菌感染を避けるための隔離も兼ねて海外の特別な施設で行われること、その施設へ向けて出発するのは四週間後であること。
 僕はそれらをどこか他人事のように聞いていた。
 一通り話しを終えたコバヤシが、「最後にひとつ」と人差し指を立てる。僕は思わずその指先に注目した。
「この実証実験に参加いただく方への御礼、というわけではないのですが、被験者の方が出来るだけ清々しい気持ちで地球を離れることができるよう、最後の四週間のうちに、希望することを何でもひとつだけ、我々が実現して差し上げることになっています」
 コバヤシの言葉に僕は眉を顰めた。何だかまた話が胡散臭い方向になびいていないか。
「何でも?」
 そう聞き返した僕に、コバヤシは真面目な面持ちで頷いた。「実を言うとそれこそが、私たちの企業のメイン事業でもあるんです」と少し誇らしげに言う。
「もちろん法を犯すことや公序良俗に反することは出来かねますが。そうですね、例えば、ある方は世界に数台しかない高級車に乗ってみたいといい、またある方は南極へ行ってザトウクジラの親子を見たいとおっしゃいました」
「コバヤシさんたちは叶えたんですか、そういう願いを」
「ええ、はい、一応。ですから貴方様も、何か要望があれば遠慮せずにおっしゃってください」
 何か、なんて急に言われても。
 僕は、特に意味もなく部屋の中を見渡した。すると、テレビ台の端に置かれた小さなサボテンの鉢植えに目がとまった。
 それは数年前、日雇いのアルバイトで訪れたデパートの、たまたま立ち寄った観葉植物店で購入したものだった。喫煙所を探して彷徨い着いた屋上に、その店はこじんまりと佇んでいた。外に並べられた鉢植えの周りを、鮮やかな青色をした蝶がひらひらと舞っていて、それを見た僕は吸い寄せられるようにその店の入り口をくぐっていた。
 十畳ほどの広さしかない店内には、少し歩けばすぐに肩が触れてしまうほど、たくさんの植物たちが溢れていた。客はひとりもいなかった。ガラス張りの天井から差しこむ太陽の光が、葉っぱの斑らな影をあちこちに落としていた。
「いらっしゃいませ」
 突然現れた女性の店員に声を掛けられ、僕は驚いて顔を上げた。店員は僕に構う様子もなく、植物たちの世話を続けていた。僕はしばらくぼーっとして、その人の横顔を眺めていた。
 太陽の光と緑がほとんどを支配する静かな空間のなかで、彼女と植物たちの間に存在する屈託のない信頼関係を目の当たりにして、あの時の僕はいたく感動した。
 それで僕はまったく購入する予定などなかったはずのサボテンを手に取り、レジへ運んだのだった。
「この曲、なんていう曲ですか」
 カウンターでサボテンを包んでくれていた彼女に、ぼくは店内で流れていた洋楽の曲名を訊ねた。彼女は曲名を答える代わりに、「一生にたった一度しか死ねないのなら、ぼくはあなたと死にたい」と歌詞を和訳したのであろう一文を呟いた。そして、
「このフレーズ、曲の中で何度も繰り返し出てくるんですけど、最後の最後だけdieがliveに置き換わるんですよ」
 と付け加えた。
 僕はあの時、なんと答えたのだったか。今はもう思い出せない。
 一年後、同じ日雇いのアルバイトでそのデパートを訪れたとき、すでにその植物店は閉店してしまっていた。
「ありました、叶えたいこと」
 僕がサボテンを見つめたまま呟くと、コバヤシは「何でもおっしゃってください」と嬉しそうな声を出した。
「会ってみたい人がいます。名前も居場所も、なにも知らない人ですが」
 僕が植物店の彼女のことを話すと、コバヤシは穏やかな笑みを浮かべ「承知しました。探してみましょう」と深く頷いた。
 それから一週間が過ぎた今日、コバヤシから彼女が見つかったと連絡があり、僕はこの場所に連れてこられた。
 本当に、あの人がここに現れるのだろうか。現れたとして、僕はどうするべきなのだろうか。
 見知らぬ駅前の喧騒を眺めながら、僕は再び考える。頬を撫でる風の温度が秋の深まりを感じさせた。
 ぶん、と音をたて、頭上の街灯が古ぼけた光を灯した。

 劇的な瞬間とは本当に、こんな何でもない日常のなかに潜んでいるものなのだな。
 祥子は、道端でタバコを嗜むその男の立ち姿に見惚れながら、そんなことを思っていた。
 少しの残業を終え、いつも利用している快速電車に間に合うであろうぎりぎりの時間にオフィスを出て、ほとんど小走りの状態で線路脇の道路を進んでいたときだった。
 駅の入り口まであと数十メートルと迫ったところで、鼻先をタバコの匂いが横切った。街中でいつもそうするように、祥子はその時も無意識のうちに匂いの出所を探して辺りを見渡した。
 そこで、小さな居酒屋の壁に寄りかかるようにしてタバコを吸っている、その男を見つけたのだ。
 男は、スポットライトの光を浴びて立っていた。周囲に漂う生まれたての夜の暗さや、居酒屋の汚れた壁、駅から聞こえるアナウンスが、舞台のうえに作られた物語のワンシーンのように映った。
 祥子の目は一瞬にしてその空間に釘付けになり、気がつけば足を止めていた。
 祥子の視線に気がついた男が、バツが悪そうにタバコの火を地面に押しつけて揉み消した。どうやら、路上喫煙を咎められていると勘違いしたらしい。
 祥子がそれに気がついた途端、スポットライトの光は電柱に括り付けられた古い街灯の灯りに戻り、舞台のセットは自分の足元にある空間とひと続きになる。
「あ、ごめんなさい。別にそんなつもりじゃなくて」
 思わず声をかけると、吸い殻を拾おうとかがんでいた男は咄嗟に顔をあげて身構えた。その後で彼は、驚いてしまった自分を誤魔化すように表情を和らげた。
「いえ、いけないのは僕のほうなので。すみません」
 なんだかとても悲しそうな目をした人だな。
 そんなことを思いながら彼の瞳の色を眺めていると、駅のホームから電車の発車を告げるベルが響いてきた。祥子はハッとして腕時計を見る。
「快速、行っちゃった」
 次の快速電車は10分と待たずに来るので別に大した問題ではない。けれど祥子は、再び彼と目を合わせて小さく肩をすくめてみせた。
 すると男はふっと息を吐き出して笑い、「一杯いきますか」と、背後に立ち並んだ居酒屋たちを親指で指し示した。
 2人はそこから二、三軒先の大衆居酒屋へ入り、窮屈なテーブル席で向かいあってビールを注文した。
 祥子が名前を告げると、男は俊介です、とだけ言った。
「何してたの、あんなところで」
「……路上喫煙してました」
「わかってるよ、そんなこと」
「祥子さんは、仕事の帰りですか」
「そうだよ」
 祥子の答えに、俊介はふーんと声には出さずに頷いた。
 俊介は想像以上に口数の少ない男だったが、祥子の職場であるアートギャラリーについての話は、それなりに興味を持って聞いてくれているようだった。
「そんな世界があるなんて知らなかった」
 と、ジョッキに口をつけるついでに言っていた。
 彼はタバコを吸っている間は輪をかけて無口で、最後のほうは祥子も、仕事の疲労と酔いのせいでぼんやりとした頭を頬杖で支えながら、黙って彼の姿を眺めていた。
 この人は、沈黙のなかにしか生きる場所がないのかもしれない。それに気がつくと、彼が吐き出す煙がとても綺麗に思えた。
 祥子と彼が店を出たころには、すっかり夜も深まり辺りの人通りも随分と少なくなっていた。どちらからともなく自然と、緩やかに、歩みは駅の方へ向かう。
 アルコールを体内に宿した俊介は、出会ったときよりも少しだけ素直に笑うようになっていた。
「どこから来たの?」
 祥子が訊ねると、俊介は真面目な顔をして「月」と言った。
「おもしろくない」
 そう言い返してやると、彼はゆらゆらと笑っていた。かと思えば脈絡もなく、
「祥子さんは幸せですか」
と半歩後ろから訊ねてきたりする。
「うん?」と聞き返しながら俊介を振り返ると、彼は半ば反り返るようにして夜空を見上げていた。
「地球にいられてよかったなって、思いますか」
ほとんど独り言のように話す俊介につられて、祥子も空を見上げた。人工的な街の光だけが眩しく、月も星も見当たらなかった。
「どう、なんだろう。君は?」
「僕は、」俊介は空を見るのをやめて、祥子の隣に並んだ。「別にどっちでもいい」と優しく、でも吐き捨てるように言う。
いつの間にか二人は、駅のすぐそばまで歩いて来ていた。駅舎の蛍光灯に照らし出された俊介は、今しがた発した言葉の粗雑さとは裏腹に、あまりにも穏やかにそこに存在していた。その姿を眺めているうちに、祥子の胸のうちには焦りのような喪失感のような気持ちが湧き上がってきた。
この男はきっと、放っておいたらこの世界からいなくなってしまう。
そう思った途端に祥子は、目の前にあるこの男の身体に触れたいというどうしようもない衝動に駆られた。そして実際に俊介の手を掴んでいた。
俊介はほんの一瞬だけ驚いた表情をし、それからすぐに瞳の色を消した。
「行こう」
 祥子は俊介の目を見て言った。
 俊介は戸惑っているフリをして、何も言わずに色のないままの瞳を揺らした。
「お願い。今日だけは、ひとりになりたくないの」
 祥子が掴んだ手を通して、互いの体温がひとつに溶け合っていく。ね? と祥子が軽く腕を引いて見せると、俊介は唇を噛んでゆっくりとひとつ、瞬きをした。

 窓の向こうに、さっきまでは見当たらなかった月が浮かんでいた。今にも消えてなくなりそうなほどに細い三日月だった。
 シングルベッドが二つ窮屈そうに並ぶその空間は、染みついたタバコの匂いのせいで煤けた色をして見える。チューハイの空缶が二本、ライティングデスクの上に置きっぱなしになっていた。ユニットバスから聞こえてくるシャワーの音だけが、傘を打つ雨のように響き、祥子の無防備な肩を撫でた。
 やがてシャワーの音がやみ、俊介が濡れた髪を乱暴に拭きながら出てくる。祥子は脱ぎ捨てたパンプスをベッドの横に置き去りにして、俊介と交代でシャワールームへ入った。
祥子がバスルームから出ると、俊介は窓側のベッドに座り、何も身に着けていない剥き出しの背中をこちらに向けてタバコを吸っていた。ゆっくりと近づいていき、同じベッドの反対側に腰を下ろす。俊介は、そこではじめて祥子が部屋に戻っていたことに気が付いたようで、無造作に振り返った。
しまった。と、祥子は思わず息を止める。
鼻先が触れ合いそうなほどの距離に、俊介の顔があった。
おそらく俊介も同じだったのだろう。お互いの思いが、ふたりの世界を一時停止させた。
再び時間が動き出したとき、祥子のほうから顔を寄せ、唇を重ね合わせた。躊躇いがちに、俊介の舌が祥子の舌に触れてくる。心臓がうるさいくらいに重く脈打っていた。唇をはなすと彼は、酔いに潤んだ瞳でどこか苦しそうに、祥子を見つめた。
祥子は彼の左手からタバコを取り上げ、サイドテーブルのうえの灰皿で火を消した。俊介は一瞬そちらに視線をやっただけで、拒みはしなかった。
 祥子がもう一度目を閉じると、今度は俊介のほうから祥子の肩に手を添えてきた。世界がスローモーションになり、抵抗する間もなく身体が後ろへ倒される。そのまま二人は、ベッドの上で重なりあった。
 はじめから、こうなるつもりで近づいたわけじゃない。でもこうなることは、今日この人に出会ったときからすでに決まっていたような。そうしなければ、この夜の出来事が何もかも嘘になってしまうような。その瞬間にはそんな感情がすべてだった。
 だから、翌朝目が覚めて隣で眠る彼の姿を認めたとき、祥子は心の底からほっとしたのだ。
その夜以来、二人はぽつりぽつりと、連絡を取るようになった。
「じゃあさ、うちに来なよ」
 電話越しに祥子がそう言った日、俊介は家の近所にあるのだという、個人経営のレンタルショップで借りてきた映画のDVDを持ってきた。DVDのレンタルショップが存在するなんて、都市伝説かなんかだと思っていた。
俊介は目が悪いらしいのに、いつも裸眼でいた。不便じゃないのかと問うと、世界がぼんやりしているほうが落ち着くと答えた。実際は全然綺麗じゃないものが、綺麗に見えたりするから得だ、とも。彼は、祥子が部屋の観葉植物たちの世話をしているのを、ソファの上で膝を抱え、ずっと眺めていた。学生時代に親戚が開いていた植物屋さんを手伝っていたことがあるんだ、と話したら、「そうなんですね」と目を細め「僕の部屋にもサボテンがいます」と少しだけ嬉しそうにしていた。
裸眼を好むことと、部屋にサボテンがあること。
俊介について祥子が知っているのは、この二つだけだ。
「今日の映画はなに?」祥子は缶ビールを片手に俊介の映画に付き合った。
「『雨の日は会えない、晴れた日は君を想う』です」
「変わったタイトル」
「どういう意味なんでしょうね」
「初めて見るの?」
「いや、たぶん、三回目です」
俊介は、映画を見るときだけは丸いふちの大きな眼鏡をかけていた。全然、似合っていなかった。祥子は映画のサブスクリプションサービスを利用していたけれど、そんな野暮なことは口にしなくていい。
テレビの画面にエンドロールが流れ始め、俊介の肩に寄り掛かっていた祥子は小さくあくびをした。
「主人公が部屋をめちゃくちゃにするところ、すごく綺麗だった」
 祥子が映画の感想を言うと、俊介はテレビ画面をまっすぐに見つめたまま、「うん」と言った。
二人の間には、シャワーは別々に浴びるという暗黙のルールがあった。
 俊介はバスルームから出たあと、きまって濡れた髪のままでタバコの箱とライターをつかみ、ベランダに面した窓を開けた。彼がタバコの先を軽く咥えて火をつけ、息を吸うと、微かにきゅーっと音がしてタバコの先端がじわりと燃えた。斜め上にのぼっていく紫煙を、彼はいつも恍惚とした表情で眺めていた。煙を吐き出すふわりと脱力した、艶やかな口元を見ていると、祥子は何も考えることができなくなった。タバコを挟む長く骨張った指は、彼の脆さをそのまま象徴しているようだった。
「今日の映画のさ」
ベッドのなかで眠りに落ちる寸前、祥子は目をつむったままで呼び掛けた。
「ん?」と、暗闇に俊介の少し掠れた声が浮かぶ。
「雨の日は会えない、晴れた日は君を想う」
「うん」
「あれって、他の星にいる誰かに向けた言葉なのかな、って。今思った」
心地のいい眠気の隅で、俊介が「そっか……」と頷く気配がした。

「一緒に、海に行きませんか」
 俊介が電話でそんなことを言い出したのは、初めて彼と出会った夜から三週間が経とうとしていたころだった。
「朝日を見てみようと思って」
 すでに深夜と呼べる時間帯になっていたが、次の日が休日だった祥子は特に断る理由もなく、誘いに応じた。
「じゃあ、今から迎えに行きます」
「わかったわ」
 祥子は電話を切ったあとで、そういえば俊介のほうからかけてきたのは初めてだったな、と思った。
 およそ一時間後、俊介は赤色の小さな車に乗って祥子のマンションまでやってきた。
「かわいい車ね」
 運転席の俊介は、例のまったく似合わない眼鏡をかけていた。
「コバヤシという人が貸してくれました」
「知り合い?」
「まあ、そんなところです」
 二人を乗せた車はすぐに高速道路へ入り、東へ向かって進んだ。いつもより広く見える空は、雲ひとつなく晴れて濃紺に染まっていた。道路の両脇に次々と現れては流れていく高層ビルは、こちらを覗き込んでくる巨大な人影のようだった。
 途中でサービスエリアに立ち寄り、自動販売機で缶コーヒーを買った。先に車で待っていると、俊介は外の澄んだ空気とタバコの匂いの両方を身体にまとわせ、運転席に戻ってきた。目が合うと、どちらからともなく長めのキスを交わす。首筋と頬に触れた彼の指先は、ひんやりと冷たかった。
 再び車は高速道路に乗って走り出す。窓の外はだんだんと背の高い建物が減って住宅街になり、やがて民家もまばらにしか見られなくなって、最終的に空と大地の境目がない闇になった。もっと真剣に目を凝らせばきっと、田んぼや稜線が見えるのだろう。一度だけ、寂れた踏切が暗がりの真ん中に、こことは別の世界への入り口のように佇んでいるのを見た。生まれてはじめて見る景色のはずなのになぜかとても懐かしくて、ちょっとだけ怖くなった。
「あ、起きましたか」
 祥子が重い瞼を開いて車内を見渡すと、シートに寄り掛かった格好の俊介と目が合った。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。車は駐車場と思しき場所に停車しており、エンジンも切ってある。
「寒くないですか」
 そう訊ねられて、膝に俊介の上着がかけられていることに気づいた。
「ごめん、わたし……」
 ぼんやりとした意識のままで目を擦る。もう目的地にも着いたのだろうか。
「まだ寝てていいですよ。日の出まではあと二時間くらいありますし」
 窓から差し込む街灯の光で、俊介の顔は半月のように青白く浮かんでいた。
ここに来てどれくらいの時間が経ったのかはわからないが、俊介は祥子が目覚めるまで待っていてくれたようだ。
「ううん、もう起きた」
 祥子の言葉を合図に、二人は車から降りてぶらぶらと歩き始めた。時折二人の前髪を揺らす程度の風が通りすぎていく。
「ここ、どこ?」
「……なんとか海浜公園」
「テキトー」
 祥子が批難するように首をひねると、俊介は笑っていた。
 浜辺のほうへ下りていくと、少し風の勢いが増して海が強く香った。すぐそばを国道が通っていて、そこからの街灯の光が届く範囲であればさほど暗くはない。三歩分くらい距離をあけて後ろを歩いてくる俊介を、時々振り返りながら砂を踏んだ。穏やかに揺れる波の音は、いつまでも眠らずにいる二人をあやしているようだった。
 砂浜の感触に満足した祥子と俊介は、次に駐車場の裏手にある丘に登った。浜と海を一望できる場所にベンチがあったので、ふたり並んで腰を掛ける。そこで夜が明けるのを待つことにした。
 突然俊介が、羽織っていたシャツごと覆いかぶさるようにして、祥子の身体を引き寄せた。俊介の胸の中におさまった祥子は、肩に回された腕に手を添わせながら「急にどうしたの」と笑い声を立てた。
「寒いの?」と訊くと、俊介は祥子の首元に鼻を埋めたまま首を横に振った。それから、「ねえ、祥子さん。聞いて」と息の混じった声で言う。
「うん?」と祥子は後ろに意識を向ける。
「本当は、誰にも言っちゃいけないって言われてるんですけど」
 誰から? とは聞けなかった。代わりに「それってわたし、聞いてもいいの」とからかうように訊ねる。いいとも悪いとも言わずに、俊介は小さく笑った。
そして、
「僕はもうすぐ、月に行きます」
 そう言った。
 想像もしてみなかった言葉に戸惑い、祥子は「え?」と聞き返した。それには答えずに俊介は、「噓みたいですよね」と呟いた。祥子が何も言えずにいると、「信じないでいいです」とまた笑っていた。
 それからさほど時間が経たないうちに、海の向こうから太陽が昇ってきた。ふたりの頬を撫でる朝日の温度に、自分のなかの醜いものが跡形もなく溶かされていくような、贅沢な錯覚に陥った。
ふと俊介の横顔に目をやると、彼は自分が生きてきた時間のすべてを見渡すかのように、じっと水平線を見つめていた。それは、これまでに見たことのないくらいに晴れやかな表情だった。
この日を最後に、俊介は祥子の前から姿を消した。
しばらくはスマートフォンで一方的にメッセージを送ってみたりもしたけれど、返事がくる気配はまったくなかった。そうして、日常生活の目まぐるしさに流されているうちに、俊介と過ごした日々たちは祥子のなかで徐々に色褪せていき、ただの過去の一瞬となった。
それでも時々、街で夜空を見上げていると無意識のうちに立ち止まっていることがある。
どうしてあの人は、あんなことを言ったのだろう。
最後の浜辺で打ち明けられた、冗談みたいな彼の秘密が蘇る。
悔しいけれどあのせいで、あれから長い年月が過ぎた今も、月を見つけるたびにわたしはあなたを思い出してしまう。
――綺麗だね。
そう、誰にも聞こえないように呟いて、祥子は今日もまた歩いて行く。

 宇宙船の窓から、地球が見えていた。
果てしない宇宙の闇に浮かぶ、その青のあまりの鮮やかさに、僕は息をするのを忘れた。何を言う必要もなくただその光景に見惚れ、気が付けば、涙が溢れ出していた。そのとき、その船室にはちょうど僕ひとりだけだった。
 もう、何もかも忘れてしまおうと決めたはずなのに。忘れてしまえたと思っていたはずなのに。
 くそ。身体の真ん中に押しとどめようもなく暖かいものが湧き上がってくる。僕はそれをむしりとりたくて胸を掴んだ。それだけでは足りずに乱暴にかきむしる。それでも、地球の色に触発されて海の匂いとともに脳裏に蘇ったあの人の横顔は、そう簡単には消えてくれそうになかった。
 僕はこの先ずっと、地球を見るたびにあの人のことを思い出すのだろう。
 ああ、こんなことならさ。僕は、地球の上であなたと、死ねばよかった。
 僕が流した涙の粒が、ふわりふわりと無重力に舞っていた。
 でもきっと、と僕は思う。あの瞬間、あの状況の彼女と僕で出会わなければ、二人を“そう在らせる”ための時間が、どちらか一方に一秒でも足りていなかったとしたら。僕たちの関係は、散らかった街のありふれた喧騒に飲まれて、始まりすらしなかっただろう。二人の心は決して触れ合わないままだっただろう。
 どっちがよかったんですかね。
 誰にも聞こえない声で呟いたそのとき、突然船室の扉が開けられた。現れたのは、同じ〈被験者〉のなかで、訓練のときからともに過ごしてきた二人だった。アメリカ出身のオリビアと、スペイン出身のレオだ。
 オリビアは真っ赤になった僕の目と浮遊する水滴を見て、はっ、と大袈裟なリアクションをとった。「大変、シュンが泣いてるわ」とレオの顔を見る。
「どうした、シュン。地球に残してきたガールフレンドのことでも思い出したのかい?」
 レオは器用に片方の眉だけをあげてみせた。
「ガールフレンドと呼べる人がいたらこんなところには来てないさ。大丈夫、ちょっとあくびをしただけ」
 僕が言うとレオは肩をすくめ、オリビアは安堵したような笑顔になった。
「ねえ、さっきレオにも聞いたんだけどね」オリビアが無邪気な声をあげる。「シュンは月に着いたらなにがしたい?」
 オリビアの質問に、僕は少し考えたあとで答えた。
「サボテンを、育てたいな」

最後まで読んでいただきありがとうございました。


(*)彼女は曲名を答える代わりに、「一生にたった一度しか死ねないのなら、ぼくはあなたと死にたい」と歌詞を和訳したのであろう一文を呟いた。

上記の「」内部分は、One RepublicのSomething I Needという曲の歌詞の一部を和訳したものです。

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