なまけねこ

多言語を勉強するもすべてが中途半端な状態のねこです。 一押しの国は台湾ですが、今はウク…

なまけねこ

多言語を勉強するもすべてが中途半端な状態のねこです。 一押しの国は台湾ですが、今はウクライナが気になってしまい、ウクライナ関連の記事を読み漁ったりやウクライナ語も勉強しています。

最近の記事

ジョージアの日本人庭師

前回アンドレイクラスノフ氏について書くなんて言っていましたが、全然そこまでに到達できずにおります。 長崎とロシアの明治時代を調べるため、こちらの本を読んでみました。 私が知りたい時代よりちょっと前なので、直接的な情報は得られませんでしたが、長崎稲佐のロシア村というのは、金山さんを調べる上で、鍵になる場所でもあるのかなと思えました。 この本では、当時長崎に寄港したロシアの軍艦やそこでどんな人が滞在したのか詳しく調査しており、残念なのが私が知りたかった明治30年代の資料が焼却

    • 100年前の日本人庭師を追って

      注意)画像は「明治時代 長崎 稲佐 モノクロ ホテルヴェスナー 志賀の波止場」で作成したAI画像  引き続き長崎出身の金山さんはなぜジョージアの植物園に行ったのか、です。 金山さんの情報がほぼないため、周辺から調査しています。 なぜ長崎だったのか長崎の歩き方によると、「嘉永6年(1853)、ロシア使節プチャーチン来航の際、初めて上陸を許された。」「日本側は、港を隔てた漁村の稲佐を上陸地に指定。」「ロシア艦隊の「稲佐ロシア人休息地」、通称「ロシアマタロス休憩所」」ができ、明

      • ジョージアの日本人庭師

        画像は「100年前のBatumi Botanical Gardenにいた日本人男性庭師」というプロンプトでAIに作成してもらいました。 前回の記事同様、「100年前のBatumi Botanical Gardenにいた日本人男性庭師」の金山さんについて今わかっていることをまとめたいと思います。その実あまりわかっていないのが現状です。 とりあえず今わかっていることは、 名前 金山八五郎 (Канаяма Хацугара Широкикович) ※八五郎は当て字、もしかし

        • 100年前のジョージアの日本人

          こちらの記事の金山八五郎さんの軌跡を求めて調査中。身内でもなく、全くの赤の他人がファミリーヒストリー的にその人を追い求めるということはかなりの難しさを感じています。 調査は遅々として進まないところですが、いろいろ新しい発見などもあり楽しく調査をしています。 少しずつ調査したことをまとめながら投稿していきたいと思います。 このノートを見て、何か情報をお持ちの方がいましたら、お寄せいただけますと幸いです。

        ジョージアの日本人庭師

          ドルノド県とハルハゴル

          モンゴル語の縦文字の勉強もかねて、モンゴル地図を作成。 ノモンハン事件もあったドルノド県からページ化していこうと思っていたら、Adobeのソフトはもしかしたら、モンゴル語キリル文字が対応していないと思われる事態に遭遇。今のところ「ө」が入力できないくらいなのでそれほど困らないですが、縦文字とまでいかないとしても、せめてキリル文字のモンゴル語は対応してほしいなと思うところです。「ө」を作ってみましたが、違和感ありますね・・・・ ノモンハン事件もそうですが、モンゴル抑留も含めて

          ドルノド県とハルハゴル

          モンゴルの公文書館 その2

          今日のモンゴル語レッスンといっても、モンゴル語も習いつつモンゴルについても学ばせてもらっております。私はモンゴル語を話せるようになるというよりは、モンゴル文字・縦文字読めるようになるのと、戦後のシベリア抑留のモンゴル抑留を知りたいということなので、モンゴル語の習得は喫緊の課題ではなく、のんびり進めて問題ないと思っています。 今日はモンゴルの公文書館のホームページを見ながら、いろいろと質問して、少しは理解が進みました。 日本との違いといえば、日本の公文書館はどんな文書が公文

          モンゴルの公文書館 その2

          モンゴルの公文書館

          モンゴルの公文書館のホームページがリニューアル?されていてびっくり。いったいいつからだろう。昨年見た時は全然見ることができなかったのですが、今日見ていたらいろいろ変わっていました。 どんな資料が載っているかはこれからですが、とりあえずモンゴルに抑留された日本人兵士の画像がありました。これは多分ドキュメンタリー番組で提供しているものと思われます。 Үндэсний төв архивын сан хөмрөгөөс: 1945-1947 оны хооронд Монголы

          モンゴルの公文書館

          モンゴル抑留

          モンゴル抑留関連本を読みながら、Re:Earthでマーカーをつけています。まだまだわからない場所が多いのと、 「77年前の戦争 両足を失った96歳の男性が語る モンゴル抑留の真実 バヤルタイ」のYoutubeを見直す。一度見たはずだったのですが、なんか違うような気が。こんなに詳しく放送してたかなと記憶を呼びもどしたものの、思い出せず。 こちらのドキュメンタリーは割とモンゴルの公文書館で資料を閲覧してもらえたようですが、読み進めている「命の嘆願書」の著者はかなり入手に苦労した

          モンゴル抑留

          年末年始のお休みを利用して、Re:earthをやろうと思ったらサインインできませんでした。なぜできないのかは謎ですが、できないものはできないので諦めました。 デジタルツールを駆使して、わかりやすく何かを伝えるというのはすごいなと思いつつ、今書いている研究論文のようなものも、自分の仕事の内容を公開されている情報でどう伝えるかということの難しさも感じています。 Cesiumとかも使えるようになりたいなと思いつつ、チュートリアルをみても なかなか使いこなせるようにはなりませんね。

          モンゴル抑留

          本業(給与を得るための業務)と私生活が若干忙しくモンゴル抑留について書けない状態が続いていますが、先日「命の嘆願書 モンゴル・シベリア抑留日本人の知られざる物語を追って」の著者の講演会に参加してきました。 抑留の内容というよりは裏話的なこと、どのような経緯でこれらの文書を手に入れたかなど、ご苦労をされた話など楽しく拝聴させてただきました。 そこで、正論11月号にもこちらの本の概要についてさっと書かれていること。そもそも本自体が135万字なので(講演会では137万字くらいと言

          モンゴル抑留 その5くらい

          ここ何回は地名を確認できず、作業が停滞しています。 気を取り直して、少し進めていきたいと思います。モンゴル語レッスンもいろいろあってお休みしてしまっているので、次回?あたりにいろいろ聞いていきたいと思います。 ヌフト Нүхт こちらでは日本人抑留者たちが 「政府庁舎(基部)、オペラ劇場、外務省と23のアパート、映画館、国立中央図書館、党中央委員会の12のアパート、党の学校、初の産科病院、モンゴル国立大学の校舎、郊外のイフ・テンゲル、ソンギーノ、ヌフトといった地域の多くの

          モンゴル抑留 その5くらい

          モンゴル抑留 その4くらい

          すっかりRe:Earthの作業が滞ってしまっておりましたので、作業をわすれないためにもやらなければと思ってます。どこからやるのかもすっかり忘れていたので過去の記事を参照したところホジルボランからと書いてあったのでそこからはじめたいと思います ホジルボラン ホジルボラン、厚生労働省の死亡者名簿を見るとかなりの方が亡くなられているようです。 ホジルボランに収容された方が手記を出されているようです。 アマゾンからわからないのですが、紀伊国屋書店のページでは内容説明に 序章 我

          モンゴル抑留 その4くらい

          シベリア抑留 ウズベキスタン編

          ずっとシベリア抑留でも、モンゴル抑留を追っていたのと旧ソ連地域の抑留まで追えていなかったところ、たまたま、旧Twitterでタシケントに日本人抑留資料館があることを知ることができた。新館は確かにうーんという感じですが、旧館のほうが落ち着いた感じもします。 ウズベキスタンの日本人抑留ではナボイ劇場が有名ですが、これもいろいろな話、諸説あり的な感じなので気になってはいるのですが、こうやってっ資料館があるというのはありがたいことだなと思います。 そして偶然にも今日モンゴル語書道

          シベリア抑留 ウズベキスタン編

          モンゴル抑留の歴史 その3くらい

          シベリア抑留でのモンゴルでの抑留について調べており、Re:Earthを使ってデジタルアーカイブを作ろうと試みています。 時系列に作っていこうかと思ったのですが、とりあえずは出てきた場所をマークしていく方法に変えていことにしました。 前回は、ズーンハラーまでマークしたので、まだマークしていない初期の収容施設があった場所として以下が挙げられています。 セレンゲ州アルタンボラグ市にある皮革工場および手工業協同組合の宿舎に300人 ズーンボラグの国営農場のゲルおよび建物 100人

          モンゴル抑留の歴史 その3くらい

          モンゴル抑留の歴史 その2.5くらい

          今日はモンゴル語のレッスン モンゴル語のレッスンと言っても、私が必要としているモンゴル語はモンゴル語の縦文字を読めるようになることで、会話できたり、モンゴル旅行したりすることは今のところ全く必要としておりません。 この縦文字というのが私にはやっかいで、アラビア語の文字とモンゴル語の縦文字、どちらが難しいかと言えば、今の段階では断然モンゴル文字のほうが難しく感じます。 そんなわけで、前回モンゴルの街の名前を調べていたときの質問、ЕРӨӨ СУМ のСУМについて聞いてみたら、

          モンゴル抑留の歴史 その2.5くらい

          モンゴル抑留の歴史 その2くらい

          10月中旬 日本人捕虜第一陣4986人がモンゴルに到着 第一陣4986人の経路をマーカーで表示したいのですが、4986人の内訳は将校、下士官、兵士ら4986人とのこと。収容所は、かなりの数があるようです。 1945年10月3日 捕虜収容のための政府委員会第2回会議決定 273-1-12-72〜77 セレンゲ州スフバートル市にある兵士の車庫に500人 製材管理所所属の建設現場 100人 セレンゲ州アルタンボラグ市にある皮革工場および手工業協同組合の宿舎に300人 ユルー木

          モンゴル抑留の歴史 その2くらい