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人生で一番「清潔」の基準が破壊されたのは、新生児時代とコロナ禍

コロナ禍をきっかけに、多くの人にとってのパワーワードとなった「清潔」。
もちろんわたしも、「清潔」について考えることが増えました。


「清潔」=よごれがなくきれいなこと

家の中や外出時の清潔(=除菌)を保つことに必死になっていたある日。

この状況、なにかに似ている…と思い出したのは、娘を出産したばかりのころのことでした。

自分の「清潔の基準が破壊されたできごと。

思い返してみると、わたしにとっての最初のそれは、「新生児の育児」でした。
赤ちゃんだった娘との生活はまさに「清潔」を保ち「清潔」と向き合い続ける日々
哺乳瓶や肌着、口にいれる可能性のあるおもちゃ。そして家中のもの、部屋そのものなど、除菌しなければいけない所ばかりです。

赤ちゃんをできるだけ清潔な状態に保たなければ! と思いつつも、途中からはもう「赤ちゃんを生かしておく」ことに必死でした。
「(清潔を保たなければ)下手すると(娘の)命の危険がある」というプレッシャーを常に感じていました。
そしてそれは、あまりに向き合い続けると自分を追い詰めてしまう可能性もありました。

特におむつ替えのときや娘が体調をくずしていたときは、今この状態が清潔なのか不潔なのかなんなのか、わけがわからなくなっていたような気がします。
出産後に担当してくださっていた助産師さんから、
「一度生まれた赤ちゃんはそう簡単には死なないから大丈夫。神経質になりすぎず、力を抜いてね」
とアドバイスをもらっていなかったら、かなり大ざっぱな性格の私ですら「清潔」と向き合いすぎて追い詰められてしまっていたかもしれません。


初めての育児生活で、「この命を守らなければならない」という必死さは、コロナ禍で初めての病気と向き合い、自分や大切な人の命を守ることと似ていたような気がします。

コロナ禍では、世界中がまるで「新生児を抱えている家」のような状態となりました。
誰もが、家でも外出先でも常に「清潔」と向き合い続ける日々。
そして、家族や周りの人に、「(自分が保有しているかもしれない菌を)うつしてはいけない」と神経を張り詰める日々。

わたしも、当時中学生(途中からは受験生に)だった娘の清潔と健康をどうしたら守れるのかばかり考えていました。

でも、赤ちゃんを育てるときと同じように、
「自分が苦しくなるまで過剰に清潔にこだわりすぎない」
ことも大切だと思います。

「清潔」は、キリがない世界だからです。

いくら掃除しても、いくら除菌しても、次の瞬間にはもう汚れているかもしれません。
目に見えない汚れや菌まで「なくなった!」と自信を持てることは、おそらく基本的にはないのではないでしょうか。

だからこそ、「ここまでやったから、いったんオッケー」と自分を許せないと、つらいのです。

・自分の心に負荷をかけすぎずに続けられる範囲で続けていくこと
・少しのゆるさをもち自分を許すこと
これは、思った以上に勇気がいることでした。

でも、途中棄権は許されない家族の命を守るための「清潔レース」を走り続けるために、わたしにとっては必要でした。

コロナ禍で過去の自分に感謝したのは、娘の新生児時代にある程度「自分に甘くできる自分」になっておいたことです。

「清潔」=よごれが(ある程度)なく、(ほどほどに)きれいなこと。


「自分がやれるだけのことはやったから、まあ、ほぼきれいだろう」と思えるくらいを目指して、気をつけ続ける。
わたしにとっては、これくらいがちょうどいい、と思っています。

「新生児の育児」そして「コロナ禍」をきっかけに清潔と向き合い保ち続けたことは、自分で自分をどこまで許せるのか聞き続けること、そして自分で「決める」ことでした。

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