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【短編小説風】母と一人暮らし

もうすぐ7年が経とうとしてる。

「もう絶対、ここに戻ってやるものか。」

そう誓って単身出てきた田舎者はカレッジライフなるものを味わうべく、特急で3時間、そこから新幹線に乗り継いで6時間の未開の地へ降りたってから。

一人暮らしはたいそう自由である。

いつ自宅に帰ってきたっていい。どこでバイトしようがお構いなし。ご飯も決まって食べなくていい。お風呂も後ろを気にしなくていい。トイレの後の異臭だって気を遣わなくていい。何よりAVを大画面に繋いで大音量で流したって気不味くならない。

なんて最高なんだ。

「帰省しなくていいの?」

そんな野暮なことを聞くな。第一、帰省したがるやつは片道9時間かけた大学になんか行こうなんか考えない。

「地元の友だちに会わなくていいの?」

俺の地元の友だちはみんな東京に出ている。東京に地元の友だちがいるのなら、もう東京が地元と呼んでもいいのでは。いっぱい知ってるよ。新宿、池袋、下北沢、吉祥寺、半蔵門線。ほら、地元でしょ?

「親に顔見せるのも後数回しかないよ?」

うぐぅ。それは言っちゃダメだよ。確かに俺の家族仲は世間から見たらペラもペラ。薄すぎてコンドームの比じゃない。そんなんで一体何を守ろうってんだい。尊厳か?倫理観か?

うちの家族仲はどうやら特殊らしい。妹と会話をしたのは最後だっけか。他のどの女の人よりも緊張する。父、弟はまあ同じ男だから、それなりに。母は、うーん、最近は関係が柔和になれた気がするけどまだ気恥ずかしい。

世間ではどうやら家族旅行なるものをする人たちがいるらしい。大きな俺からすれば、多すぎるなと思った。逆に言えばウチが特殊なことに気付かされた。

最後に旅行に行ったのはいつだっけか。
俺が小学3年生のときに行った北海道が最後か。
父、母、兄妹3人、おばあちゃんで行ったっけ。



12月末。北海道は長い長い雪の全盛期である。子どもの頃の俺は、それはそれは大いに喜んだ。

雪ってこんなに積もるものなのか。
目の前に広がる純白な雪景色。小さくそびえ立つ札幌時計台。誰も汚していない積雪をザリッザリッと一歩一歩踏みしめて汚してやった。足だけじゃない、小さかった身体を全面に押しつけてもみた。押しつけたはいいが出られないじゃないか。身動きを取れない俺をなかば呆れた顔を浮かべ助けたのは父。
「あんまりはしゃぐんじゃないよ。」
呆れつつも微笑ましいと言わんばかりの優しい口調を述べた。その忠告を無下にするかのように、小さな俺はその後もずっとはしゃぎまくった。

札幌を始め、函館、旭川動物園など小さな俺を楽しませるには充分な北海道プランだった。しかし、母はそうはいかなかった。はしゃぐ俺を尻目に母の身体は限界を迎えていたらしい。

旭川動物園から札幌のホテルに戻ったときだ。俺は全く知らなかった。なんせ深夜の事だったから。起きたら母はいなかった。父もいなかった。こんな遠い地で子どもだけにするような人たちではないことは、小さな俺は理解していた。残された兄妹3人におばあちゃんがしてくれた説明はこうだ。

「お母さんね、腕の痛みがひどくて動かないらしいの。夜中に病院に行っててまだ帰って来ないんだけど、心配要らないよ。もうすぐ帰るってさっき連絡あったから。だから、いい子にして待っててね。」

どういうこと?全く理解できなかった。母は前日まで元気でそんな素振り見せてなかった。小さな俺は、おばあちゃんの言われた通りに心配しなかった。心配するにはあまりに説明不足だったから心配できなかった、が正しい。でもちょっとだけ心配だった。

帰ってきた母の様子はあまり変わらなかった。
「ごめんね。心配かけちゃったね。もう大丈夫だから。」
いや、そうは言われても安心できないのは俺がいい子だったからか。

その後の母の様子はといったら、あまり変化はなかった。腕がどうこう言ってたが、腕がどうこう言うにはヤケに動いてる。小さい俺はどうやら勘違いをしていたらしい。わざと動かしてたんだろうなって、大きい俺は当時を顧みてそう思う。母は強し。

北海道旅行も無事に終え、しばらく経ったある日。母の腕は痛みに耐えかね本格的に動かせなくなっていた。

診断の内容は「関節リウマチ」
お医者様に言わせれば、30代の女性がなりやすいらしい。免疫機能が異常をおこし、軟骨や骨が破壊され続けるようになる。ガンの骨ver.っていえばいいのだろうか。とにかく、関節痛がずっと続いている。母が罹っているから俺は馴染み深いが相当辛そうだ。腕中のありとあらゆる関節が動かすだけで痛い痛いと言う。動かすだけでも一苦労、いや十苦労か。俺はどうしたらいいかも分からない。ただただ見守ることしか出来ないのだ。

俺が高校生のころ、ある日の病院帰りの母を見て驚愕した。
「なんで注射器?」
そう聞くしかなかった。自宅にあるものランキングでワーストに近いそれは、自分のお腹に自分で打つために貰ってきたものらしい。ここ数週間、病院に通って自分に注射を打つ練習をしていたそうな。

裏の俺は母を想っていた。しかし表の俺は重度の反抗期であった。親の言うこと為すことの全てがとにかく癪に障る時期。自分を大事に育ててくれた人を、このように疎ましく思うことが思春期あるある。こんなあるある無くなればいいのに。

あるとき、中くらいの俺はいつものように少しのことで母に反抗した。何にカチンときたかは覚えてないが、そんなことはどうでもいい。問題なのは、反抗の言葉である。


「こんな家に生まれてこなければ良かった。」
思ってもいない言葉であるが、母を傷つけるには余りにも鋭すぎた。いつもは負けじとブツブツと何か言いながら去る。だが、この日は何も言わず、ただ目を下に落としながらキッチンに帰っていった。

あまつさえ身体の重い母の心まで重くさせてしまった。張本人の表は変わらず反抗してた。裏では今でもこの発言を聞いた後の母の悲しい顔は忘れられない。

最近も夢に出た。軽いトラウマである。未だに謝ることができていない。絶対に心に思ってもいないことを口にすることはやめよう。この時からずっと誓っている。


そんな母を最後に地元を出てきた。



1人暮らし最高だ。

そう思う俺は帰省には興味ない。ただ俺には帰る理由が1つある。

親がいる。

たまにふとよぎる"親不孝者"

大きな俺はそう自分を評価しているが、親は違うだろう。元気に生きてる。それだけでいいのだ。

だが、俺は違う。元気に生きてるだけではダメなのだ。なんとかして、どんな形でもいいから、受けた愛情をこれから返していかなければならない。もはや自責だ。しかし、拭いきれない後悔を拭うにはこうするしかない。

あと何回顔を見ることができるだろうか。
案外、多いかもしれない。

ただ、会える機会があるのなら少しは帰ってやろうじゃないの。



不器用な愛情を引っ提げて

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