【小説】視肉

 冷蔵庫を開けると、目が合った。
 注がれる慈愛の眼差しには今更動じない。
 冷蔵庫を半分以上占拠しながらこちらを見据える薄桃色の肉の塊に包丁を当てがい、葉書ほどの大きさを切り取ると、そのままフライパンに置いて軽く焼く。フライパンから皿に移すと、塩も振らずにフォークを突き立て口に運んだ。
 噛み切れる程度の柔らかさ、しっかり脂が乗り、ほんのりとしおからい。少し癖があるが、それがまたあとを引くうまさだ。特上の肉なんて食ったことはないが、何年も前の半額セールで奮発して買ったスーパーの上ロースよりもこいつの方が遥かにうまい。再び冷蔵庫を開け、肉を切り取って今度は生のままかぶりつく。口の中で脂がとろける。火を通した時とはまた別の味わいだ。大トロというのはもしかするとこんな味なのかもしれない。いや、そうであったとしても俺は大トロよりはこちらの方を選ぶ。美食家ならもっと洒落た物言いをするのかもしれないが、大した味も知らない人間がこんなにうまいものを食って、出る感想はこの程度だ。あとは無心にうまいうまいと思いながら咀嚼し、飲みこみ、また口に運ぶ。
 この肉――両目がついた肉塊が家に来てから四ヶ月。最初はおそるおそる添え物として食卓に上った。それが数日後には副菜となり、メインディッシュとなり、米も野菜も食べずにこの肉だけを食べるようになるまで、さほど時間はかからなかった。栄養は充分に取れているらしく、すこぶる調子はいい。鏡を見てもこれが自分かと思うほど血色がよくなり、それどころか明らかに太り始めている。
 四ヶ月前、電気も水道もガスも止められたこの部屋で横たわり、骨と皮だけになって死にかけていた俺からすれば嘘のようだ。

「シニクです。視力検査の視に、お肉の肉」
 食糧課の係長と名乗る男は、たしかそう言ったのだった。
 俺が病院のベッドで目覚めた時、横の椅子には見たこともないスーツの男が腰かけていた。
 俺の意識が戻ったと見るや、男は俺に「○○県庁 食糧課供給係 係長」と肩書が刷られた名刺を手渡し、俺が部屋で栄養失調と脱水症状による昏睡状態で倒れていたこと、アパートの大家が発見して救急車を呼んだこと、そしてその出来事から三日経っていることを手短に説明した。そして一方的に「食糧に関してお困りの方を救うため、まずは私どものお仕事を説明させて頂きます」と語り出したのだ。
「食糧自給率の低い我が国において、安定した食料供給は悲願であると言えます。また経済格差の拡大による低所得層の困窮が甚だしいことから、餓死や栄養失調などを防ぎ、その生命を保障するための施策が必要であることも論を待ちません。そこで当県と致しましては政府と連携し――」
 ひとしきり眠くなるような説明が続く。
 つまるところ、俺のような貧乏人を使った「社会実験」だそうだ。
 救済事業の一環として身よりも金も仕事もない者に食糧を与える。ただしその与える食糧は実験的なものであるため、データを取る必要がある。被験者はただそれを食べ、一か月ごとに体調等の検査をさせてくれれば良い。最低限の生活費は出すが、なるべくその食糧を食べてほしい。あとは今までどおり(――ということはつまり、仕事をする必要がないということだ)生活してほしい。要約すれば、そういうことだ。
 確かに俺には身よりも金も仕事も、その上やる気もない。
 おまけに目標も希望も気力も能力もない。
 かといって死にたくもない。
 なるほど適任と言えるだろう。
「で、その食事ってのは何なんですか?」
 問う俺に、係長は
「シニクというものです」
 と答える。聞き返した俺への返答が、冒頭の言葉であった。

 これが家に来た日については、もうあまり覚えていない。ただ、その時は一抱えほどの大きさしかなかったこと、肉の視線がとても嫌で、目を閉じて肉を切り取ったことは記憶に残っている。
 そう、最初は一抱えしかなかったのだ。そんなもの、ひと月もたたないうちに食いつくしてしまう、はずだった。
 しかし不思議なことに、この肉は、食べても食べても減らず、欠損したところが見る間に修復されていくのだ。そして人間の傷口と同じように、治ったところの断面は少しだけ盛り上がる。そうしてだんだんと肉のかさは増していく。
 いくら食べてもなくならないのならば、確かに食糧問題の解決には最適だろう。バイオテクノロジーがどうとか説明された気もするが、もう忘れてしまった。
 理屈はどうあれ、ちぎり、切り、もぎ取っても、すぐに内側から桃色の肉が盛り上がり、元通りになっていく、その様を何度も何度も、飽きるほど見ている。あれほど嫌だった視線に慣れ、その目に何故か愛情のようなものがあると気付いて戸惑い、更にそれにすら動じなくなるほどに、毎日何度も冷蔵庫を開け、肉を食ったのだ。

 今日も、冷蔵庫の中の肉を食う。
 最近はもはや冷蔵庫の前から離れるのも億劫で、扉を開けたまま、前に座り込んで手に持った包丁で肉を切り取っては口に入れている。肉はほとんど冷蔵庫からはみださんとしている。大きくなったのはこいつだけではない。俺の体にも以前は想像もしなかったような分厚い贅肉がまとわりつき、今や歩くのが苦痛になっている。訪問検査ではそれでも「正常」「順調」と言われるので、気にしなくなっていた。余計なことを言ってこの肉を食えなくなるのに比べれば、このまま太り続けることなど問題ではない。そういえば前に検査があったのはいつだったろうか、遥か昔のようにも、つい数日前のようにも思える。時を忘れるほどに肉に夢中になっているのだ。これでは良くないのだろうと思いつつも、体は味を求め、手はほとんど自動的に肉を裂き、口に運ぶ。
 目を上げれば、こちらを見やる視線は前よりも更にあたたかい。
 自分を傷つけ、喰らう相手を優しく眺めるなんて、こいつはよっぽどのマゾヒストか、そうでなければ俺を養う肉親か何かのつもりだろうか。
 不意に浮かんだ気味の悪い考えを振り払うように肉に刃を立てて滑らすと、手元が狂って肉を押さえる指に当たった。
 鋭い痛みの走った指を見ると、傷一つついていない。いや、うっすらと傷の線はあるが、今包丁で切ったようにはまったく見えない。
 不思議に思って指先を包丁の先端で刺す。痛みと共にぷくりぷくりと血の玉が浮かんだが、すぐに傷口は盛り上がり、塞がってしまった。
 鈍麻した脳では違和感をすぐに言葉にできず、ぼんやりと首を垂れると醜くでっぷりと膨れた己の腹が目に入る。量感のある腹に、どこか見覚えがある。似たものを見た、と考えて、突然気づいた。
 俺の腹は、目の前の冷蔵庫に鎮座する肉と、肌理も色つやも皺の寄り方まで瓜二つだ。
 冷たい予感が背筋を走った。
 至高の味と過剰なまでの栄養を備える、食べられるために生まれてきたような肉。
 食べられるのに無抵抗で、それどころか悦びを感じるように増え続ける。
 そして食べた者を虜にし、肥え太らせて徐々に変化させ、最後には自分と同じ存在にするのではないか。
 つまり、この肉は、「食べられることによって増える」生き物なのだ。
 ならば、それを与えられ、定期的に監視されている自分の行く末は――。
 ぶよぶよと肥えた俺の腹の肉に寄った皺が、ぱくりと割れる。
 生れ出た目と、目が合った。
 注がれる慈愛の眼差しに耐え切れず、俺は目をそらした。

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