Vtuberと信仰について
良くバンドや声優、アニメなどに熱をあげている人を○○信者などと言いますがそれはとてもよく表現できているな、と思うときがあります。
特にほぼ毎日配信しているVtuberはまさに信者を生み出すには絶好の偶像でしょう。
それは初めは好奇心から視聴を始めたのかもしれません。
けれどもそのうち見る機会が増えていき、そのうち放送の日程を調べ、それに合わせて生活を送るようになる。
お金に余裕があれば投げ銭をするようになり、余裕がなくても投げ銭をするようになる。
しかも彼女たちは私たちと同じ人間ではないのです。
これはまさに宗教に入信してハマっていくのと同じですよね。
最初に述べたバンドや声優よりも遥かにVtuberの方が宗教的です。
バンドマンなんかはバンギャなんかを食ったりしてそのうち普通に結婚したりなんかもするでしょう。アニメはいつか完結することが決まっています。
けれどもVtuberにはそれがありません。私たちが生きて、視聴する限り無限に続くのです。
流れるチャット欄は無数の祈りです。数多の人々と同じものを見、同じように信奉する、これほどまで原始的な安寧があるでしょうか。
私たちはモニターを十字架代わりにして同じことを思っているのです。
先ほど述べた無限に続くというのは願望です。
実際にはいつか消えていきます。
少し昔、久遠千歳というVtuberがいました。
家族は死に、自分だけが不死となり死に場所を探している、というかなり不思議なキャラクターでした。
怖がりで、歌のうまくて、口の悪い彼女は活動して割と早めに引退してしまったのですが感情表現豊かな言動やおおらかなのに繊細といった二面性を秘めたミステリアスな雰囲気に信者は多かったと思います。
彼女の引退配信はかなり感情をあらわにしており私も号泣しながら聞いた思い出があります。
その話を友人にしたとき
「今は改名してアーティストとしてやってるよ」
と教えてくれました。
けれども私の中では大した慰めにはなりませんでした。
久遠千歳は死んだのです。
それは悲しいことですが同時に美しいことでもありました。
何万人もが辞めないでほしいと思う中、久遠千歳が「おつふし~」と言い、声が止み、何万人もが無音の放送を見ていたあの数十秒。
あの時の感情は人生において間違いなく特別なものでしょう。
たとえ所謂中の人が他の場所で活躍していようとそれは変わることがないのです。
「Vtuberなんてただの絵じゃん」
仏陀もキリストも今となっては絵や彫刻と言葉と理念です。
むしろ生身の人間でないことが我々を信心深くさせるのかもしれません。
さて今日も一方通行の祈りをインターネットに捧げましょう。
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