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【ショートショート】傘が透明だから

書く習慣 お題「お気に入り」

「透明だけど、あなたの横顔が見えるから、これがお気に入りの傘なの」

莉嘉の身長は俺より15cmほど低い。
構内に続く道のアスファルトは既に濃く濡れて、所々水が溜まっている。
隙間を器用に跳ねながら、莉嘉は踊るような口調でそう言った。

「ただのビニ傘じゃん、壊れかけてるし」

俺が指摘すると、え、と動きが止まる。
傘の背中側の骨から露先が外れて、ベロンとめくれていた。

「ホントだ、昨日コンビニ行った時かな。直して」

立ち止まった莉嘉に追いついて、手を伸ばし露先を嵌め直す。
たしかに、昨日は風が強かったな。
莉嘉はサンキュ、と短くお礼を言って、また先を歩き出す。

「お気に入りってすぐに壊れちゃうよね。ついつい使いすぎちゃうから」

「そうかな」

「そうでしょ。クレヨンとか、好きな色からなくなっちゃわない?」

「うーん、そうかな?」

「好きな色なに?」

「白」

「減るのが早いのは?」

「黒」

「話にならないじゃん。黒も白も例外でしょ」

莉嘉は不服を示すように、水の浅い部分を靴底でペタペタ叩きながら歩く。

「莉嘉は何色が好き?」

「水色。だから、空も海も全部水色で塗ってた」

「塗る面積でかいものにばかり使ってるからじゃん、減るの早いの」

話していると、そのうち理学部の講義棟に着いた。

「じゃ私ここで。またね、田島」

手を振って中に消えていく姿を見送って、自分の講義に向かおうとしたが、気が向かなくてそのまま家路についた。
水溜まりを避けながら歩いたつもりだったが、帰る頃には靴下はすっかり水浸しになっていた。

玄関で脱いだ靴下をカゴに投げると、縁にへちゃりとひっかかって、そのままぐったりしていた。

俺は雨の日にはお気に入りの靴を履かない。
汚れてしまうのが怖いから。
いや、思い返してみれば、晴れの日ですらそうなのかもしれない。
お気に入りの靴を履いてる時は、微かな汚れにさえ臆病になって、普段通り歩けなくなってしまうのだ。

人は、大事なものを離さないように強く握るタイプと、大事なものが壊れないようにそっと持つタイプがいると思う。
俺はおそらく後者のままだ。
これからも、ずっと。

アイツは違うんだろうな。
行く道で話した言葉を思い出す。
莉嘉はお気に入りを躊躇なく使える人間だ。
それが正しいよ。
俺みたいな人間は本当に欲しいものに手を伸ばせないんだ。
届かないと知るのが怖いから。

ワンルームの薄い布団に横たわってスマホを見ていると、意識がどろりと融解して垂れていった。
そのまま雨に流されてしまいそうだった。



空白のワンルームに帰り、ビニール傘を閉じた。
玄関先で何度か振って水滴を払う。
テープを巻くのも面倒で、そのまま傘立てに入れる。

あそこまで攻めたのに、流されちゃったな。
朝の自分のセリフを思い出して、顔が熱くなるのを感じる。
偶然会えたくらいで舞い上がって、あんなこと。

傘立ての奥にもう一本。
水色の傘がちらりと覗いていた。
一目惚れして買ったのに、なんだか使うのが勿体なくて一度も開いていない傘だ。

そっちの方が勿体ないって、分かってるんだけどなぁ。
濡れた服を着替えて、髪をタオルで拭いた。
座ったベッドから、傘立てが見える。
ビニール傘に透けて、水色の傘がこちらを覗いていた。

今、何してるんだろう。
呼吸を無駄に2回挟んで、LINEで言おうか3回悩んで、電話をかけた。
4コール目で、呼出音が切れ、電話口から寝ぼけた声が聞こえた。

「あいあい、えっと……」

「田島、夜ご飯、一緒行こ」

「え、ああ。はい」

「じゃ、7時頃行くから」

「いいけど、ちょっと待っ」

返事を最後まで待たずに、電話を切った。
7時までは、後3時間くらいある。

雨粒が弾ける音が耳朶を打っていた。
朝よりはかなり落ち着いているみたいだけど、さすがに傘は必要だろう。
今日はあっちの傘を持っていってみよう。
きっと君の横顔は見えづらいけど。

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