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⑬ 愛について

オイル交換はすぐ終わる。
今まで見たことがなかったから、見てみたい、と言ってその作業を見ていた。

彼は抜き取ったオイルを指先にのせて、オイルの中にカスがあるから云々と、相変わらず丁寧に、いろいろ教えてくれた。
ためらわずに汚された指先が、すごく素敵に見えた。

支払いを終えて、帰る。
工場から車を出すときに、彼が運転をする。

そのせいなのか、そんな短い時間ではこんな風にならないと思うけど、運転席に座ったときに、不思議に暖かかった。
彼の、車への思いなんだと感じた。
それが彼の愛なんだと感じた。

この人は、心から自動車という繊細な機械をかわいがっていて、全身でその声を聞く。
それを、人に伝える。器用ではないけど、心を開いて、諦めずに説明してくれる。

そうだった。
初めも、そうだった。
何が疑問なのかすら判らない私に、いろいろな物を用いて一から説明し、理解してもらおうと一生懸命だった。
ボサボサの髪で、汚れた指先で、自分のことなど気にせずに、車と向き合っていた。

私は、ボサボサもまっ黒も全部、ただただ彼が好きだった。

これが、彼の全てでは無い。
彼が愛するのは車だけでは無い。 
別の世界があり、そこに私はいない。必要ない。
そんなことを考えた。理解していた。
仕方がないと、諦めるしかない。
どうしたって。

一呼吸。
これで良いと、言い聞かせた。
彼に出会って、人生で初めて雷に打たれて、こんな感情を体験し、恋の感覚を思い出せたのだから。
この出会いが、私にとって奇跡なんだと感じた。
寂しかったけれど、何だか暖かかった。
自分の元へ、自分が帰ってきたような気がした。さまよって、寂しいまま、帰ってきた。けど、泣かなかった。
泣いたら、また情けない女で終わってしまう、そんな気がして、泣けなかった。泣きたくなかった。

帰り道、夕飯の買い物にスーパーに寄った。
小学校3、4年生くらいの、ちょっと買い物にこなれてきた感じの女の子が、父親と買い物をしていた。

目を見張った。鼓動がたぶん早くなった。
彼に似ていた。
すごく。

彼の10年後なんじゃないかというくらい、彼に似ていた。
ボサボサの髪で、買い物かごを持ってどんどん行く娘を追うその男性を、私は遠くから見ていた。
切なく、ほほえましかった。ずっと、その親子を見ていたかった。
自分の買い物をしながら、すれ違ったり、向こうの通路にいたりするのを見ていた。気持ちが、追いかけていた。
彼に重ねていた。
その親子を私はその時愛していた。
いとおしかった。この手の中に、欲しかった。

わたしは、自分が彼を、彼の人生をこんなにも愛していたんだと、その時わかった。

愛なんて言葉、今までは装飾品だった。
ゴテゴテに飾るために、キラキラに見せるために飾る、違和感のある言葉でしかなかった。私にとっては。
もう、その意味は違っていた。
悲しみも寂しさも、全部愛の中にあった。
全部が、愛だった。
私は、彼を、愛していたんだと、この時ほんとうにわかった。

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