寒い日が続きますが
なんだか、急に寒さが厳しくなったような印象も強く。
布団から出るにも、画像で使ってる猫のように大あくびしながら、のそーっと起き上がろうにも、
うわ!さぁむっ!!
寒さでお布団から出たくなくなりますよね。
と。
いうことで(どういう事だよ
寒さをヒントに季節の移ろいについて、またちょっとばかり触れてみようと思います。
そして、久しぶりに。
ぺちょり(笑)
寒くなるとこう
多分、恐らく。
海水温も下がるので海側からの湿気も減り。
そうなる事で、冬場は空気が乾燥すると言われるといいますか。まぁ、空気中の湿気=水分が減ってるんだと思います。
そして、冬になると、
「空気が軽くなったよなぁ」
とか、言ったりして、え!?と。
そういう温感という部分でも、ちょっとこう、周囲とは違った感じ方、影響の受け方をするという。
夏場の雨天なんかは特に、湿気が増すことから、空気がまとわりつくような感じもして、ジメジメが苦手だという人は多いと思います。
そういう、夏場の空気と比較して、水分量が減ってるのを感じ取ってるのか?影響を受けてしまってるのか、重量や質量というような感じ取りもするんですよ。
なので、夏場は空気が重いと感じますし、冬場は逆に軽い、と。
そういう意味では、夏場のジメジメって大した物でもないですが、そういう重さとしての感じ方、影響の受け方もするので、しんどさに少しばかりプラスαがあるような感じです。
こういう部分は、普段から口にしたところで伝わりづらいのは明らかなので、口にしないわけですが。
体の感覚や、感じ取ったものが神経を伝って、脳に言った時には、そういう表現も自然と生まれる。
なので、感じすぎ大問題とか言うこともあるんですよ。
兎に角こう、色々感じすぎ、影響を受けすぎ、それを個人としては言語化された情報として処理されるので、妙なことを言い過ぎ、と(笑)
こういう、季節の移ろいなんかでも、結構細かく感じるんですよ。
ホント不思議。
実際は少し細かい、です。
春夏秋冬。いわゆる四季。
というだけではなく、その合間のグラデーションというか。季節の移ろいで発生する微妙な変化というのも、意外と細かく感じたりしています。
いくら実感できてても、そういう部分のすり合わせはやっぱり経験しないと分からない物で。
目で見てわかる、とは言っても、実際は頭の中を覗けるわけではないので、仮定や推測というのも多いです。それでも、意外と的を得てたりして驚かれもする。
まぁ、なんだかんだで子供の頃は失敗が多かった=普通と違ったズレと認識出来たら失敗というか。また、成長するに従い、扱える言葉や知識も増えるので、成長するからこそ表れるズレみたいなのもあります。
そういう部分から、どうしても、うっかり口にしてしまう。
何はともあれ、誰しも自分の体でしか感じ取れないからこそ、それが個人としての普通になりえるわけです。
ですが、そこがどうしても、ズレるですよね。
こういう、季節の移ろいでの変化、そういう部分の影響の受け方、感じとり方すらも違ってしまう、と。
そして、この違いを何故?と考えもするので、困惑してしまう、葛藤するという事も多かったりします。
カウンセリングで自動思考が相当な勢いで回ってると言われたのも、そういう違った感じ取りや、それによるズレについてのあれこれを、そうある個人だからこそ掘り下げようともしてた結果とも。
言えなくないと言うか、本当に不思議なんですよね。
自分の体なのに。
秋から冬にかけて、どうしても
精神科に通院しつつ、精神疾患の治療をしてるだけでなく、全般性不安障害のが、今度はうつ病という事になり。
なんかこう、振り出しに戻ったという感じもあるのですが、それとは別にどうしても、今の時期は自分がおかしくなってる、というか。
季節って、そもそもが地球の地軸の傾きと、太陽の周囲を公転してるからこその影響でもあるんですよね。そのせいか、秋口はほぼ下がり気味になるというか。
太陽の高さというか、角度が低めになるせいなのか、そういう影響も受けてる様にあります。
ただ、うつ病だし、季節うつでしょ、と言われがちなのですが。
そうある個人としては、そこは微妙なライン。そして、自分としてはそれとは違う何かの影響を受けてる、何かを感じ取ってるという部分があり。
単純に気分が沈む以上に、体の動きが明らかに鈍る感じがあるので、この時期は意外と気力を消費してたりします。
時代が変わったとはいえ、こういう部分は感じ取れない事には分かってもらえない事も多く。なので、相談したところで、会話にすらならない。
故に、隠れてこっそり無理とか、我慢はどうしてもしなければいけなくなる。というのも、否めないんですよね。
そこに、季節ゆえの何かによる沈み込みが加わるので、結構あれこれ考えすぎる事にもなってしまいます。自然と。
こういうのも、そうある自身にとっては、その時その時で置かれた環境の中に在る、微妙過ぎる、些細すぎる変化の影響を受けてる、それを感じ取って気づいてる、という状態なんですが。
そうあらない人には、どうしても、気にし過ぎ、気にするから悪い、と。
いい加減、話聞いておくれよ...になりもする。
大変とか、面倒とか、生きづらいとか。
そういう言葉で表現できなくもないですが、それどころでもなかったりします。
本当にこう、多様性というのが、生物学的な感じっていうんですかね。
ただただ、多様性という言葉を、本音と建前じゃないですが、とりあえず取り上げてこね回すだけのようだと、全然苦しみは減らぬ、と。
生きてる事自体、そういう根本すら、苦といえなくもないくらいなので。
ホントこう、いい加減にして?と。
どうしても、思いもするわけなのです。
あとがき
なんかこう、寒いというか、風も空気も冷えすぎてて、寒いというよりは別の表現にした方が良さそうな?と。
ここ数日は感じてたりします。
ほんとこう、秋口から冬にかけて下がるだけでなく、春先になって上がり出すと、そういう部分が負荷=重さとして感じてしまうのか、春になったらなったで、別の意味で軽くなった、と。
そういう、体の方が何か影響を受けてる、何かを感じ取ってるとも言える程に、脳に送られて処理されると、細かすぎてわからんちん!な表現が出て気もする、と。
中には、説明されれば何となく、という人も居るには居るのですが、やっぱりこう、同様な細かすぎて伝わらないレベルの変化は感じ取れないのか、”わからなくないけど、やっぱりおかしい”。
最終的に、そういう所が着地点になってしまう。
お前は違うと気づいても、違い他者の普通に押し込まれるばかり。
そうある私自身は大して気にしてないのに、実は気にしてるのは周囲の方とも言えなくないです。本音をぶっちゃけると。
とにかく、違いが見えた時に、それが違い過ぎると言われる物の、話すと途端にそれを無くそうとしてくる。
伝えられても、ただ言っただけで、深い意味ないとか、正直迷惑以外の何物でも無いんですけどね。
言うなればヒヤリハット事例からの訓練って言うんですかね。想定される危険性は?みたいなのを、社会人してた頃に教育の一環としてやってましたが。
それが自然体、普通という、意識をしてない状態の方が不思議とうまくやれてしまうという感じでもあります。ただ、そうあるからこそ、周囲も無自覚のうちに、そういう抜けたレベルだと邪魔になりかねないと受け取ってしまってるのか、ホントこう無駄に言われるという事が多すぎて。
多様性以前に、平等とか、権利とか、自由すらも無い物なんですよ。
違うからありえない、違うからおかしい。
そうやって無い物とされて、いつまでも認識しない。
それどころか、そういう環境の外に出ても、そうそう見かける人ではない、という理由から、おかしいだなんだってどうしても言われてしまいます。
そもそも。
日常的に、姿や様子を見てる家族からすらも、おかしいと言われてましたし、亡くなった母にしては、そういう部分が油断という事でもあったのでしょう。
そして、今となっては、通院してても、そういう人はいないという理由から、話を聞いてもらえないどころか、頭の中を覗けないのに、気にし過ぎと。
話聞いてます?というような決め打ちをされるので、通院してても困る事って多いんですよ。
とはいえ、通院してるからこその障がい者手帳やそれによる福祉、サービスもあるので、通院はしなきゃいけないという。
そのくらいにあるので、外に出れない、人と触れ合えないんです。
人間誰しも違いがあるという、個人差すらも。
お前だけは適用外な?
そういうつもりはない、ではなく、話を聞いて理解しようとしないどころか、どうしてそうあるのか?を知ろうとすらしてくれない。
そこに、違いという理由から、良いも悪いも、勝手に決めつけたり、知らないからこその誤解を訂正しなかったり。
それでも、人間社会の中に溶け込んで生きてただけでなく、相談上手、真面目過ぎ、気を遣い過ぎと嫌でも言われる程に、問題が無い、相手にとって好都合だと、持ち上げられるという。
なんともまぁ、違うと散々言われるのに、溶け込めてしまってるという、ね。
まぁ、自身がそうあるからこそ、良いも悪いもが相互通行だ、と。
どちらかで決まるものでも無く、様々な要因で変化すらする。
諸行無常で、有為転変。
どうにもこうにも、飾って崇めるだけにする言葉はもう。
ノーセンキューなんだ、ZE!
って事で、季節での変化を元に話してみるのでした。
それでは。
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