再開にあたって。感謝とか謝意とか。
正直、個人としても驚きました。
呼んだ上で、スキを押してくれてたり。
フォローをしていただいてたり。
今は、直近でも1ヶ月前だったりするので、書けなくなった=開くことさえ出来なくなった。
それも、無理しようものなら、体のほうが吐き気だ、胃の不快感だで報せてくれるんですよ。
「いい加減、無理するのヤメレ」
という感じで。
そういう、自分の意思と体の動きが乖離するというのも、学生時代から。
幼い頃は、ある程度。
感覚的に気づく、という部分が補ってくれてはいたものの、やはりそこは成長が伴わないと自我を自分で認識できないんですね。
それが、自我が確立されだしてからは、意思と体の乖離を感じもすれば。
幼い頃にそれはダメ、と自己暗示をかけた、
「自分じゃない自分。皆の普通と同じ自分」
から外れてしまう事を、それこそ感覚的に掴んでしまって、自分だけが遠い世界に居るような錯覚というのも、感じるようになってました。
なので、個人にとっては体のほうがとにかく先に感じる。
そして、体は正直、という言葉が出てきてしまうほど、です。
今でこそ、更に踏み込んで気づけるので「あ、幼い頃からの」で対処できます。
でも、悲しいかな。
出来ないだけでなく、それを親ですら話したところで、否定、をする。
母が亡くなり際に後悔と謝罪をした、という話は。
幼い頃の自分を引きずってる身としては、
「最初は私のほうが気づくと言ってたのに。成長してからそれを認めてくれなくなったのは何故?」
という、疑問への答えだったし、幼い頃の私としては”聞きたくなかった答え”でもありました。
だって、言葉にして伝えてた、なので。
言葉ってコミュニケーションをするために、自分を伝えるモノなんですよね。
でも、それを受け取らずに、否定をする。
親だろうが、大人だろうが、言葉の扱いや組み立てが、評価したそばから理解を越えてると言い、否定をする、になってる。
こういう事ももう、小学生になってからは、当たり前に気付いて。
それ故に、枷をかけて。
生き残るために、普通じゃない自分を殺す。
そうじゃないと、否定に圧し潰されて。
「このままじゃ、自分は生き残れない」
悲しいかな、その時の自分の必死さというのは、今でも忘れることは、出来ません。
忘れる、ではなく、乗り越えるをしなきゃいけなかった。
それが、ほぼほぼ出来つつあるのが、今。
なので、再度。
書くことが、触れることが出来るようになったわけですが。
それはそれで。
少なからず、スキやフォローという、反応をしてくれた方に。
「とんでもねぇ、失礼働いちゃったよ、どうしよう」
になったので。
ありがたいことです。
と、感謝も伝えつつ。
それこそ、子供の頃に教えられるような、
「悪いことをしてました。申し訳ないです」
ごめんなさい、は、きちんとしておかないと、ですね。
ありがたすぎたので、PCの前では何事もないように、入力しながら。
「うわあああああああ!!、やっちゃったよおおおおおおお!!!
ごめんなさあああああいいいい!!!」
って感じで、心のなかで少なからず、叫んだりしています。
それでは。
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